第331話 近くにいたい
授業の終わりを告げる鐘が鳴った後も、教室にはしばらくざわめきが残っていた。
専門コース。
飛び級希望調査。
その二つの言葉は、生徒たちの中に思った以上に強く残ったらしい。
誰かが騎士コースの話をしている。
別の誰かは、魔法コースの見学日程を気にしている。
文官コースは課題が多そうだとか、研究コースは王立研究所と関わるらしいとか、あちこちで声が上がっていた。
俺は調査票を教本の間に挟み、鞄にしまった。
進むことは決めた。
だが、どの道を進むのかはまだ決めていない。
騎士。
魔法。
文官。
研究。
どれも必要に見える。
考えれば考えるほど、簡単には選べなかった。
「リオン」
名前を呼ばれて顔を上げると、ミラが立っていた。
いつもより少しだけ、声が小さい。
「少し、話せる?」
「うん。大丈夫だよ」
俺が答えると、ミラはほっとしたように小さく頷いた。
教室にはまだ人が多い。
ガイルはクラウスと何か話している。
ヴィクトルは調査票を見ながら、すでに別の誰かと情報交換を始めていた。
セレナはナディアと話している。
エドガーは静かに教本をまとめていた。
ミラは少しだけ周囲を見てから言った。
「ここだと落ち着かないから、少し歩かない?」
「いいよ」
俺たちは教室を出た。
廊下にも、同じように進路の話をする生徒たちがいた。
四年次のコース。
飛び級。
まだ正式な提出ではないのに、その言葉だけで、学院の空気が少し先へ進んだように感じる。
ミラはしばらく何も言わずに歩いた。
俺も急かさなかった。
何かを考えている顔だったからだ。
やがて俺たちは、中庭へ出た。
冬の空気は冷たい。
けれど、陽の当たる場所は少しだけ明るく、校舎の壁に反射した光が石畳を白く照らしていた。
人は少ない。
遠くで何人かの生徒が話しているだけだった。
ミラは中庭の端で足を止めた。
「リオン」
「うん」
「本当に、飛び級を目指すの?」
その質問は、さっき教室でもされた。
だが、ミラの声は、その時とは少し違っていた。
確認というより、確かめたいという感じだった。
「目指すよ」
俺は答えた。
「コースはまだ決めきれていないけど、飛び級は目指すつもりだ」
「そっか」
ミラは小さく頷いた。
それから、視線を少し下げる。
「リオンなら、そう言うと思ってた」
「分かりやすい?」
「うん。迷うところはすごく迷うけど、決めたところはあまり揺れないから」
エドガーにも似たようなことを言われた気がする。
自分ではそんなつもりはなかったが、周りから見るとそう見えるのかもしれない。
「ミラも飛び級を希望するって言ってたよね」
「うん」
「文官コースも?」
「うん。今のところは文官コースで考えてる」
ミラは両手を前で軽く組んだ。
「家のこともあるし、領地や行政のことをちゃんと学びたいの。
今までは、何となく必要なんだろうなって思っていただけだったけど……最近、少し変わった」
「変わった?」
「うん。リオンを見ていると、領地って、ただ家が持っている土地じゃないんだなって思うようになった」
ミラはゆっくりと言葉を選んでいた。
「そこに人がいて、働いて、困って、助け合って、道や倉庫や灯りがあって、誰かが考えないと回らないものがたくさんある。
そういうことを、前よりちゃんと考えるようになったよ」
俺は黙って聞いていた。
ミラの言葉は、少し意外だった。
けれど、嬉しくもあった。
「だから、文官コースで学びたい。自分の家のためにも、将来のためにも」
「ミラらしいと思う」
「本当に?」
「うん。ちゃんと見ている感じがする」
そう言うと、ミラは少しだけ頬を緩めた。
だが、すぐにまた視線を落とした。
「でもね」
「うん」
「それだけじゃないの」
風が中庭を抜けた。
ミラの髪が少し揺れる。
彼女は一度息を吸ってから、こちらを見た。
「リオンが先に進むなら、私は、後ろで見送るだけにはなりたくないと思った」
「ミラ」
「置いていかれたくない、って言うと、少し子どもっぽいかもしれないけど」
ミラは小さく笑った。
でも、その笑い方は少し頼りなかった。
「でも、そう思ったの。リオンが飛び級を目指すなら、私も同じ速さで進める場所にいたい。
リオンが見ているものを、私も見られる場所にいたい」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
同時に、少し苦しくもなった。
俺は、自分が飛び級を目指すことを決めていた。
早く実務の側へ進みたい。
領地を動かす側へ行きたい。
その気持ちは本物だ。
だが、自分が進むことで、誰かとの距離が変わるかもしれないということまでは、あまり考えていなかった。
ミラは、それを考えていた。
「リオンと同じ道に行きたい、って言うと少し違うの」
ミラは続けた。
「同じコースになるかは、まだ分からないし、リオンは文官コース以外にも迷っているでしょう?」
「うん」
「でも、同じ方向を見ていたい。隣じゃなくても、近くにいたい。
リオンが何かを背負おうとしているなら、それを遠くから見ているだけじゃなくて、私も自分の足で近くまで行きたい」
その言葉は、静かだった。
けれど、強かった。
ミラはいつも、俺の近くにいる。
明るく声をかけてくれる。
困った時に気づいてくれる。
俺が無理をしていると、ちゃんと見ている。
でも今の言葉は、それだけではなかった。
ミラ自身が、自分の意思で前に進もうとしている言葉だった。
「ありがとう」
俺は自然にそう言っていた。
ミラが少し目を丸くする。
「どうしてお礼?」
「そう言ってもらえるのは、心強いから」
「心強い?」
「うん。俺も、飛び級を目指すって決めたけど、不安がないわけじゃない」
「リオンでも?」
「俺でも」
ミラは少し意外そうな顔をした。
俺は中庭の石畳に視線を落とした。
「早く進みたいとは思っている。けど、進むってことは、今いる場所から離れるってことでもあるから」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
そんなふうに考えていたのかもしれない。
「四年に進んで、もう一年多く学院で学ぶ道もある。皆と同じ時間を過ごす道もある。
それを選ばないかもしれないと思うと、少し怖いところはある」
前世の記憶がある。
四十五歳まで生きた感覚がある。
だから、自分では大人のつもりで判断している部分もある。
でも、今の俺は十四歳だ。
この学院で出会った友人たちと過ごす時間を、惜しいと思う自分もいる。
早く進みたい。
けれど、離れたくない。
その二つは、思ったより簡単には切り分けられなかった。
ミラは黙って聞いていた。
それから、少しだけ柔らかい声で言った。
「だったら、迷った時に話せばいいじゃない」
「ミラに?」
「私でも、エドガーでも、誰でも。ガイルはすぐ騎士コースに来いって言いそうだけど」
「言いそうだね」
「ヴィクトルなら、損得で整理してくれると思うし」
「それもありそう」
「リオンは、一人で考えすぎる時があるから」
その言葉に、俺は少し黙った。
一人で考えすぎる。
たぶん、当たっている。
前世で会社をやっていた時も、最後は自分で判断しなければならないことが多かった。
誰かに相談しても、責任は自分に残る。
その感覚が、今もどこかにある。
けれど、今の俺は一人ではない。
そう思える場所に、もういるのかもしれない。
「ミラはよく見てるね」
「見てるよ」
ミラは、少しだけ真面目な顔で言った。
「リオンが無理をしている時も、楽しそうにしている時も、何か隠している時も」
「最後のは困るな」
「困らせるために言ってるもの」
ミラは小さく笑った。
その笑顔を見て、俺も少し肩の力が抜けた。
「でも、ありがとう。ミラが近くにいてくれるなら、心強い」
「またそういうことを普通に言う」
「変だった?」
「変じゃないけど……困る」
ミラは少しだけ顔をそらした。
耳が赤い。
冬の寒さのせい、ということにしておいた方がいいのかもしれない。
「リオン」
「うん」
「同じコースになるかは、まだ分からないよね」
「うん」
「飛び級が通るかも、まだ分からない」
「そうだね」
「でも、私は目指す。リオンがいるからだけじゃなくて、自分のためにも」
ミラは今度ははっきりと言った。
「その上で、近くにいられたら嬉しい」
その言葉に、俺はゆっくり頷いた。
「俺も、ミラが近くにいてくれたら嬉しいよ」
ミラはまた少しだけ顔をそらした。
「……そういうところ、本当にずるいと思う」
「ずるい?」
「何でもない」
「気になるんだけど」
「気にしなくていい」
そう言ってから、ミラは歩き出した。
俺も隣に並ぶ。
中庭を抜け、校舎へ戻る。
廊下の向こうから、ガイルの大きな声が聞こえた。
どうやらまだ騎士コースの話をしているらしい。
ヴィクトルの声も混ざっている。
セレナが何か冷静に突っ込んでいるようだった。
いつもの声。
いつもの距離。
けれど、来年には、この距離が変わっているかもしれない。
同じコースになるかは分からない。
飛び級が通るかも分からない。
けれど、同じ速さで進もうとしてくれる人がいる。
近くにいたいと言ってくれる人がいる。
それは、思ったよりもずっと心強かった。
俺は隣を歩くミラを見た。
ミラは前を向いていたが、少しだけ口元が緩んでいた。
進むことは、離れることだけではないのかもしれない。
近くにいるために、進む。
そういう選び方もあるのだと、俺は気づいた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
続きが気になったら、ブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




