第330話 選ぶべき軸
翌日の教室は、昨日より少し落ち着いていた。
三学期初日の浮ついた空気が抜け、机の上には教本や筆記具が並んでいる。
とはいえ、完全に静かというわけではない。
冬休み明けの課題の話。
昨日の実技の話。
来年度の噂。
それぞれの声が、教室のあちこちで小さく混ざっていた。
俺は席に座りながら、昨日のベルンハルト先生の言葉を思い出していた。
浮く前に、まず立て。
才能は、見せる相手を選べ。
あの言葉は、まだ胸の奥に残っている。
そんなことを考えていると、教室の前の扉が開いた。
ベルンハルト先生が入ってくる。
いつも通りに、生徒たちの声が一気に小さくなった。
先生は教壇に立ち、俺たちを見渡す。
「今日は、来年度の専門コースについて改めて話す」
その一言で、教室の空気が変わった。
何人かが姿勢を正す。
ベルンハルト先生は黒板に文字を書いた。
騎士コース。
魔法コース。
文官コース。
研究コース。
以前にも聞いた内容だ。
三年の二学期から、各コースの見学と希望調査が始まっている。
そろそろどのコースを選ぶのか決めなければならない。
「広く学ぶ部分は、総合科目で続ける。だが、深く学ぶ専門は一つだ。自分が何を軸にするのか、よく考えろ」
軸。
その言葉が、耳に残った。
何を軸にするのか。
俺の場合、それが難しい。
文官コースは必要だ。
ハル領の内政。
そして、この冬休みに触れた外交。
その二つを考えれば、最も自然な選択は文官コースだと思う。
けれど、魔法も必要だ。
研究も気になる。
騎士コースも完全には捨てられない。
領地を動かすだけでなく、守る力も必要だと感じている。
ひとつ選べと言われても、全部がどこかでつながっている。
「それと、もう一つ」
ベルンハルト先生が、黒板の端に新しく文字を書いた。
飛び級希望調査。
教室がざわついた。
「飛び級は、希望すれば通るものではない。志望するだけなら自由だが、通る者は多くない」
先生の声は厳しい。
「だが、今年の三年には、挑戦できる位置にいる者がいる。
希望する者は、自分の意思で書け。周囲に合わせるものではない」
その言葉に、クラスの空気が一段重くなった。
飛び級。
普通に四年へ進むのではなく、王立学院の最終学年である五年へ進む道。
前に進む速度を上げる道。
俺は、もう決めていた。
コースはまだ決めきれていない。
だが、飛び級は目指す。
四年に進んで、もっと学院生活から学ぶ道もある。
それは悪くない。
俺はまだ十四歳だ。
学院で学べることは、たぶん多い。
けれど、冬休みにハル領の内政と外交に触れて、思った。
領地経営には、やることが多すぎる。
内政、外交、いずれも学ぶだけでは、足りない。
早く、実務の側へ進みたい。
領地を動かす側へ。
人と物と金と安全をつなぐ側へ。
だから、飛び級は目指す。
ただ、どの軸で進むのか。
そこだけが、まだ決めきれない。
授業の後半は、各自で希望調査票に目を通す時間になった。
正式提出は後日だが、今日の時点で考えを整理しておけということらしい。
自然と、周囲の席で話が始まる。
最初に口を開いたのは、やはりガイルだった。
「俺は騎士コースだ。飛び級も希望する」
「迷いがないな」
俺が言うと、ガイルは当然のように頷いた。
「迷う理由がない。ベイルン辺境公家の者として、戦えるだけでは足りん。
指揮も、集団行動も、領軍の動きも学ぶ必要がある」
ガイルらしい答えだった。
「早く進めるなら、早く進む。父上にもそう言う」
「ガイルならそうだろうな」
「リオン、お前も騎士コースに来い」
「いきなり誘うね」
「お前の動きは面白い。騎士コースで磨けば、もっと使える」
昨日の実技のことを言っているのだろう。
俺は苦笑した。
「考えてはいるよ」
「なら来い」
「考えていると、決めているは違う」
「決めればいい」
ガイルは単純だ。
だが、その単純さが少し羨ましい。
ヴィクトルは調査票を眺めながら言った。
「俺は文官コースだな」
「やっぱり?」
「商業専門のコースがない以上、財政と行政実務を学ぶなら文官コースが一番近い。
法と契約も必要だ。商会にとって、知らないでは済まされない」
それは納得できる。
「飛び級は?」
「しない」
ヴィクトルは即答した。
少し意外だった。
「しないんだ」
「ああ。早く進めばいいというものでもない。
商人にとって、学院で過ごす一年は人脈を作る時間でもある」
ヴィクトルは筆記具を指先で回した。
「誰がどの家を継ぐのか。誰が王宮に入るのか。誰が騎士団に行くのか。
そういう横のつながりは、金では買えない」
「商人らしいな」
「褒め言葉として受け取る」
ヴィクトルは笑った。
全員が飛び級を目指すわけではない。
あえて残る判断もある。
それもまた、ひとつの軸なのだと思った。
クラウスは、しばらく黙って調査票を見ていた。
文官コースの欄。
騎士コースの欄。
その二つを、何度か見比べている。
「クラウスは文官コースか?」
エドガーが尋ねる。
クラウスは少し考えてから首を横に振った。
「以前なら、そう考えていたと思う」
「今は違うのか」
「迷っている。だが、騎士コースを選ぶつもりだ」
少しだけ周囲が意外そうな顔をした。
俺も驚いた。
クラウスは文官コースの方が自然に見えていたからだ。
クラウスは眼鏡の位置を直しながら言う。
「文官として判断するにしても、現場を知らなければ間違える。
机上の理屈だけで人を動かす者にはなりたくない」
その言葉は、クラウスらしかった。
派手ではない。
だが、静かに芯がある。
「飛び級も希望する」
「クラウスも?」
「ああ。正直に言えば、飛び級を選択できる位置に自分が立てるとは思っていなかった」
クラウスは調査票を見下ろした。
「だが、せっかくの機会だ。挑戦できるなら、逃げたくない」
その声には、珍しく強いものがあった。
ガイルが満足そうに頷く。
「いいな。騎士コースで待っている」
「まだ通ると決まったわけではない」
「通せばいい」
「簡単に言うな」
クラウスは呆れたように言ったが、少しだけ表情が柔らかかった。
セレナは、魔法コースと文官コースの欄を見ていた。
「セレナは?」
ミラが聞く。
セレナはすぐには答えなかった。
「魔法コースか、文官コースね」
「迷ってるの?」
「ええ。公爵家の娘として、外交や行政を知らないわけにはいかない。でも、魔法も中途半端にはしたくない」
セレナの言い方は、いつも通り強かった。
だが、その中には本気の迷いがある。
「どちらを選んでも、必要になるのよ。問題は、どちらを軸にするかね」
ベルンハルト先生が先ほど言った言葉と同じだ。
軸。
セレナもそこを考えている。
「飛び級は?」
「希望するわ」
即答だった。
「迷うのはコースだけ。進む速度で迷うつもりはないわ」
セレナらしい。
ミラが小さく笑う。
「セレナらしいね」
「当然よ。選べる位置にいるなら、選ぶわ」
その隣で、ナディアが少しだけ調査票を見つめていた。
「ナディアは、魔法コースか文官コース?」
俺が聞くと、ナディアは穏やかに微笑んだ。
「その二つで考えていました。セルヴァン王国の者として、外交や行政を学ぶことは大切ですし、魔法も深めたいですから」
「考えていました、ということは?」
ヴィクトルが目ざとく聞く。
ナディアは少しだけ視線を横へ向けた。
その先には、ガイルがいた。
「騎士コースにも、興味があります」
「ナディアが?」
ミラが驚いた声を出した。
ガイルも少しだけ目を丸くしている。
ナディアは静かに続けた。
「護られる側の考えだけでは、分からないことがあります。
騎士が何を見て、どう判断するのか。それを知ることは、他国にいる今だからこそ意味があると思います」
理由はしっかりしている。
だが、その言葉だけではないことも、なんとなく分かった。
ナディアの視線は、ほんの少しだけガイルに寄っていた。
ガイルは真面目な顔で頷いた。
「来るなら、しっかりやれ。騎士コースは楽ではない」
「はい。覚悟します」
ナディアは微笑んだ。
そのやり取りを見て、セレナが少しだけ目を細めた。
何かを察したような顔だった。
「飛び級は?」
「希望します」
ナディアの声は穏やかだったが、迷いはなかった。
エドガーは調査票を一度見ただけで、淡々と言った。
「俺は文官コースだ。飛び級も希望する」
「エドガーは迷わないんだな」
「王族として、法、財政、外交、行政実務を学ぶ必要がある。
騎士としての訓練も不要ではないが、軸にするなら文官だ」
エドガーらしい、落ち着いた判断だった。
「飛び級も受ける。選べるなら、上を目指す」
その言葉に、周囲は自然に納得した。
ミラは調査票を両手で持ったまま、少しだけ俺の方を見た。
すぐに視線を戻す。
「私は文官コースかな」
「ミラも文官?」
「うん。家のこともあるし、領地や行政のことをちゃんと学びたいから」
そう言いながら、ミラはもう一度、ちらりと俺を見る。
その視線は短かった。
けれど、気づかないほどではない。
「飛び級は?」
「希望する」
ミラは小さく頷いた。
「できるかは分からないけど、挑戦はしたい」
「ミラなら大丈夫だと思うけど」
「そう言われると、少し緊張する」
ミラは苦笑した。
その表情はいつも通りに見えた。
でも、どこかで俺の動向を気にしているようにも見えた。
俺がどのコースに行くのか。
飛び級を目指すのか。
それを、ミラはひそかに見ている。
そう感じた。
「それで、リオンは?」
ヴィクトルが言った。
来ると思っていた。
全員の視線が、自然と俺に集まる。
俺は調査票を見下ろした。
騎士コース。
魔法コース。
文官コース。
研究コース。
どれも、関係がある。
どれも、必要に見える。
「本命は文官コースだと思っている」
俺は正直に言った。
「ハル領のことを考えるなら、法、財政、領政、外交、行政実務は必要だから」
「だろうな」
ヴィクトルが頷く。
「でも、決めきれてはいない」
俺は続けた。
「魔法コースも必要だと思う。制御と安定性は、今の俺にとって大事な課題だから」
ベルンハルト先生の言葉が頭に浮かぶ。
浮く前に、まず立て。
「研究コースにも興味がある。魔法道具や特殊魔法、古代術式も気になる」
王立研究所。
福嶋亮太の本。
知らないものを知りたいという気持ちは、簡単には消えない。
「騎士コースも、完全には捨てがたい。戦う力や守る力を、もっとちゃんと学ぶ必要も感じている」
ガイルが嬉しそうに頷いた。
「なら騎士コースだな」
「だから、そう簡単じゃないんだって」
「簡単にすればいい」
「できないから迷ってる」
周囲から少し笑いが起きた。
エドガーが静かに言う。
「リオンは、選ぶものが多すぎるな」
「自分でもそう思う」
セレナが腕を組んだ。
「でも、全部を軸にはできないわ。どれを選んでも、何かは総合科目や自分の努力で補うことになる」
「分かってる」
「分かっているなら、早く決めなさい」
「それが難しいんだよ」
俺は調査票を見ながら、少し息を吐いた。
「ただ、飛び級は希望する」
その言葉に、ミラがわずかに顔を上げた。
ガイルは当然だという顔をする。
ヴィクトルは少しだけ目を細めた。
「コースは迷っているのに、飛び級は決めているのか」
「ああ」
「理由は?」
ヴィクトルらしい質問だった。
俺は少し考えた。
全部を細かく話す必要はない。
けれど、理由は自分の中でははっきりしていた。
「冬休みに、ハル領の内政と外交に触れた」
俺は言った。
「そこで、領地経営にはやることが多いと改めて思った。
学ぶことも大事だけど、早く実務の側に進みたい。領地を動かす側に」
口にすると、自分の考えが少し整理された。
「だから、飛び級は目指す。コースはまだ迷っているけど、進む速度は上げたい」
少しの沈黙があった。
最初に頷いたのは、エドガーだった。
「リオンらしい判断だ」
「そうかな」
「迷うところは迷う。だが、進むと決めたところは進む」
セレナも小さく頷いた。
「悪くないわ。ただし、飛び級を目指すなら、迷っている時間も無駄にはできないわよ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんでは困るわ」
セレナの追及から目をそらすと、ミラが小さく笑った。
その表情は少し安心したようにも見えた。
ベルンハルト先生は、俺たちのやり取りをしばらく黙って聞いていた。
そして、教壇から静かに言った。
「今の時点で迷うことは悪くない」
俺たちは先生を見る。
「むしろ、真剣に考えている者ほど迷う。騎士、魔法、文官、研究。どれを選んでも、簡単な道ではない」
先生は黒板の四つのコース名を指した。
「だが、迷うことと、決めることから逃げることは違う。正式な提出までに、自分の軸を決めろ」
先生の視線が、俺たち一人一人を通った。
「飛び級も同じだ。希望するなら、相応の覚悟を持て。通らなかった時に腐るな。
通った時に浮かれるな。進み方が変わるだけで、学ぶべきことが減るわけではない」
その言葉は、昨日とは違う意味で重かった。
才能の扱い方。
選ぶべき軸。
進む速度。
どれも、簡単には決められない。
「リオン・ハル」
「はい」
突然名前を呼ばれ、俺は背筋を伸ばした。
「迷うなら、迷う時間も本気で使え」
「はい」
「お前の場合、どの道を選んでも足りないものは出る。
なら、何を学ぶためにその道を選ぶのかを間違えるな」
「分かりました」
先生は短く頷いた。
授業の終わりを告げる鐘が鳴る。
教室の空気が少し緩む。
皆が調査票を鞄にしまい始めた。
俺はもう一度、紙の上の四つの文字を見た。
騎士。
魔法。
文官。
研究。
どれも、俺の未来につながっている。
だが、選べる軸は一つ。
飛び級を目指すことは決めた。
けれど、その先で何を軸にするのか。
それは、まだ決まっていない。
俺は調査票を丁寧に折り、教本の間に挟んだ。
迷っている時間も、本気で使え。
ベルンハルト先生の言葉を、胸の中で繰り返す。
進むことは決めた。
あとは、どの道を進むのか。
それを選ばなければならない。
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