第327話 外交デビュー?
三学期初日の朝。
学院の教室には、久しぶりに生徒たちの声が戻っていた。
机の上に教本を置く音。
冬休みの間にあった出来事を話す声。
俺が席に着くと、すぐにヴィクトルが近づいてきた。
「リオン」
「おはよう、ヴィクトル」
「ああ、おはよう。昨日の件だが、やはり父上には話す」
「朝一番にそれ?」
「朝一番に話すべきことだ」
ヴィクトルは真剣だった。
昨日、俺の部屋でリバーシを何局も打ったせいか、目が妙に生き生きしている。
「リバーシは売れる。これは間違いない」
「まだ授業も始まってないよ」
「だから今のうちに言っている。授業が始まったら話せないだろう」
「授業中は考えないでくれ」
「努力はする」
「するだけじゃなくて、集中して」
俺がそう言うと、近くにいた生徒が笑った。
「何の話だ?」
「リバーシって、例の夜会の?」
「トラウゼン侯爵家で評判になったやつだろ?」
その言葉に、教室の数人がこちらを見た。
思ったより話が広がっている。
俺は少し嫌な予感がした。
そこへ、ミラが近づいてきた。
「リオン。おはよう」
「おはよう、ミラ」
「冬休み明けから、もう話題の中心ね」
「俺は何もしてないよ」
ミラは楽しそうに目を細めた。
「それ、夜会でも似たような顔をしていたわ」
「そんな顔をしてた?」
「ええ。自分では普通に説明しているつもりなのに、周りがどんどん引き込まれていくのを、あまり分かっていない顔」
「……そんなつもりはなかったんだけど」
「だから余計に目立つのよ」
ミラはトラウゼン侯爵家の夜会にいた。
だから、俺がリバーシを紹介した時の空気を知っている。
俺からすれば、ただ遊び方を説明しただけだ。
だが、周囲はそう見ていなかったらしい。
教室の扉が開き、セレナが入ってきた。
ヴァレスト公爵家の令嬢らしく、背筋を伸ばし、足取りにも隙がない。
冬休み明けでも、その雰囲気は変わらなかった。
「久しぶりね、リオン」
「久しぶり、セレナ」
「冬休み中、ずいぶん社交的に動いていたようね」
「社交的?」
「トラウゼン侯爵家の夜会のことよ」
やはり、その話になるのか。
「リバーシを届けに行っただけだよ」
「届けに行っただけで、侯爵家の夜会で評判になる人はあまりいないわ」
セレナの声は落ち着いていた。
だが、少し面白がっているようにも聞こえる。
「お父様もリオンのことを呼びたがっていたわよ」
「ヴァレスト公爵が?」
「ええ。トラウゼン侯爵家で自然に振る舞えたなら、一度うちにも来てもらいたい、と」
「自然に振る舞えたというか……」
「リオン」
セレナが少しだけ顔を近づける。
「夜会で自然に振る舞えるというのは、それだけで価値があるのよ」
その言い方は、冗談ではなかった。
公爵家の娘として、本気でそう思っている顔だった。
「しかも、話題を作れる。場の空気を変えられる。初対面の相手にも説明できる。
そういう人は、どこの家でも欲しいわ」
「俺は外交官じゃないんだけど」
「今は違うわね」
「今は?」
「これからどうなるかは知らないわ」
さらりと言われて、返す言葉に困った。
ちょうどその時、エドガーが教室に入ってきた。
第二王子である彼は、いつも通り落ち着いている。
王宮から通学しているため、顔を合わせるのは冬休み前以来だった。
「久しぶりだな、リオン」
「久しぶり、エドガー」
「トラウゼン侯爵家の夜会の話は、王宮にも届いていた」
「王宮にも?」
思わず聞き返してしまった。
エドガーは静かに頷く。
「ああ。父上も興味を示していたぞ」
「陛下が?」
「新しい遊戯が評判になったこともそうだが、それ以上に、侯爵家の夜会で自然に人を集めたことに興味を持たれたようだ」
国王陛下。
その言葉が出た瞬間、話の重さが一段変わった。
俺はただ、トラウゼン侯爵家にリバーシを届けた。
その場で遊び方を説明した。
それだけのつもりだった。
だが、王宮に届いた話は、少し違う形になっているらしい。
「王宮で似た場があれば、声がかかるかもしれない」
「できれば、かからない方がありがたいんだけど」
「父上が興味を持たれた以上、可能性はある」
「重いな」
「王宮の話だからな」
エドガーは淡々と言った。
その淡々とした言い方が、余計に重い。
ヴィクトルが横から口を挟んだ。
「リオン、諦めろ」
「何を?」
「これはもう、ただの遊び道具の話じゃない」
「昨日は商材だって言っていたよね」
「商材でもあり、社交の道具でもあり、外交のきっかけでもある」
「増えてる」
「価値が増えているんだ」
ヴィクトルは楽しそうだった。
俺はまったく楽しくない。
そこへ、ガイルが近づいてきた。
「リオン」
「おはよう、ガイル」
「聞いたぞ。トラウゼン侯爵家の夜会で評判になったらしいな」
「評判と言われると大げさだけど」
「大げさなら、ここまで話は回らない」
ガイルは腕を組んだ。
「うちにも来い」
「急だな」
「父上が興味を持つ。騎士や領主たちが集まる場で、そういう話題を作れるなら役に立つ」
「リバーシの内容は知ってるの?」
「知らん」
「知らないのに?」
「評判になったのは知っている。勝負事らしいというのも聞いた。
なら、うちの者たちは好きだ」
それだけで判断するのが、ガイルらしい。
だが、彼の言葉には勢いだけではない。
辺境公家として、人を集める場をどう動かすかという視点も少し混じっていた。
「父上に話しておく。機会があれば来てくれ」
「また増えた」
俺が呟くと、ミラが笑った。
「人気者ね」
「そういう人気はいらないかな」
次に、クラウスが眼鏡の位置を直しながらこちらへ来た。
彼はいつも通り落ち着いている。
「リオン。俺の家でも、話題になっていた」
「クラウスの家でも?」
「ああ。詳しい内容は知らない。ただ、夜会で初対面の者同士の会話を生んだと聞いた」
「そこまで?」
「貴族の集まりでは、会話のきっかけは重要だ。
家同士の距離を測る場でもあるからな」
クラウスの言い方は淡々としていた。
だが、見るところが鋭い。
「うちの父も興味を持つと思う。機会があれば、紹介してほしい」
「紹介って、リバーシを?」
「それもある。だが、それ以上に、どうやって場を作ったのかを聞きたいはずだ」
「場を作ったつもりはないんだけど」
「作るつもりがなくても、作れたなら意味がある」
クラウスはそう言って、一歩下がった。
逃げ道をまた一つ塞がれた気がした。
そこへ、ナディアが静かに声をかけてきた。
「リオンさん」
「ナディア」
セルヴァン王国から来ている彼女は、いつも穏やかだ。
だが、今日は少しだけ目が明るい。
「すごく評判ですね」
「ナディアまで」
「詳しい遊び方までは存じません。
けれど、国や家の違う者同士が、同じものを囲んで会話できるのであれば、とても良いことだと思います」
ナディアは柔らかく微笑んだ。
「もし機会があれば、セルヴァン王国の夜会にも、ぜひお越しいただきたいです」
教室の空気が、一瞬だけ変わった。
国内の貴族家の誘いとは違う。
セルヴァン王国。
それは、国外だ。
「それは……さすがに大きすぎる話じゃないかな」
「はい。ですから、今すぐという意味ではありません」
ナディアは丁寧に言った。
「ただ、言葉だけでは届きにくいものがあります。
けれど、同じものを見て、同じ場を囲むことで、少し近づけることもあります」
その言葉に、俺は少し黙った。
リバーシの盤。
それを囲む人たち。
トラウゼン侯爵家の夜会で起きたことを、ナディアは国を越える場面に重ねている。
俺はそこまで考えていなかった。
「リオン、すごいな」
近くにいた生徒が小さく言った。
「王宮、他国の王家、公爵家、辺境公家まで出てきたぞ」
「本人は困っているけどな」
別の生徒が笑う。
俺は思わずため息をついた。
「俺は外交デビューをしたつもりはないんだけど」
その瞬間、ヴィクトルがにやりと笑った。
「した側が決めることじゃない」
「昨日も似たようなことを言っていたな」
「評判というのは、見た者が決める。見た者が“また呼びたい”と思ったなら、それはもう成果だ」
「商人っぽい言い方だ」
「商人だからな」
ミラが頷いた。
「でも、それは分かるわ。あの夜会で、リオンは本当に場の空気を変えていたもの」
「俺は説明しただけだよ」
「その“だけ”が難しいのよ」
ミラの声は柔らかかった。
だが、夜会で見ていたからこその説得力がある。
「初めて見るものを、相手に警戒させずに見せる。
遊んでみたいと思わせる。
周りの人が口を出したくなるくらい、場を温める。それは簡単じゃないわ」
セレナも静かに頷く。
「だから、お父様も呼びたがっているのよ」
エドガーが続ける。
「父上も同じような点に興味を持たれたのだろう」
ガイルは短く言った。
「うちでも使える」
クラウスは冷静に付け加える。
「場を作る力は、遊戯の内容とは別に価値がある」
ナディアは微笑んだまま言った。
「国が違っても、そういう力は必要です」
逃げ場がない。
完全に包囲されている。
その時、教室の扉が開いた。
空気が変わった。
ベルンハルト先生が入ってくる。
三年Sクラスの担任。
元騎士団らしい鋭さを持つ先生だ。
先生が教壇に立つと、教室のざわめきがすっと収まった。
「三学期初日から元気なのはよい」
ベルンハルト先生は教室を見渡した。
そして、俺たちの方で視線を止める。
「だが、授業前の教室で外交予定を組むな」
数人が肩を震わせた。
ヴィクトルが目をそらす。
俺も背筋を伸ばした。
「リオン・ハル」
「はい」
「冬休み中も、ずいぶん忙しかったようだな」
「少しだけです」
ベルンハルト先生は、わずかに眉を上げた。
「その“少しだけ”が本当に少しであったかは、後で確認する」
教室に小さな笑いが起きた。
俺は黙って頷くしかなかった。
「さて、三学期を始める」
先生の声で、教室の空気が切り替わった。
「三学期は、ただ一年の終わりではない。次の学年へ進むための準備期間でもある。
座学の復習、魔法制御、剣術、体術、班別課題。どれも軽く見るな」
ベルンハルト先生の視線が、教室全体をゆっくり動く。
「王都にいるからといって、危険と無縁ではない。
貴族であれ、王族であれ、商家の者であれ、自分の身と周囲を見る目を鍛えておけ」
その言葉を聞いて、俺は昨日の森を思い出した。
黒爪熊。
冬なのに動いていた熊型の魔物。
王都へ向かう街道近くに出た危険。
道があるから安全とは限らない。
王都に近いから安心とは限らない。
先生の言葉は、ただの注意ではなかった。
午前中は、冬休みの課題提出と三学期の予定確認で終わった。
初日とはいえ、ベルンハルト先生は甘くない。
課題の一部を忘れた生徒は、その場で静かに肩を落としていた。
ヴィクトルはさっきまでリバーシと商売のことで頭がいっぱいに見えたが、課題はきちんと提出していた。
セレナは当然のように整った書類を出す。
エドガーも静かに提出する。
クラウスは確認用の控えまで持っていた。
ガイルは少し紙が曲がっていたが、内容は出していた。
ナディアは文字まで丁寧だった。
ミラは俺の方を見て、小声で言った。
「本当に冬休みに休んでいたの?」
「休んだよ」
「どのあたりが?」
「……食事はした」
「それは休みとは言わないわ」
返す言葉がなかった。
◇
昼休み。
俺たちは学食に集まった。
冬休み明けの学食は、どこも話し声でいっぱいだった。
料理の湯気。
皿の音。
誰かの笑い声。
学院に戻ってきた、という感じがする。
「それで、リオン」
最初に切り出したのはセレナだった。
「冬休みは、実際には何をしていたの?」
「実際にはって」
「あなたは省略しそうだから」
「ハル領に戻って、領の様子を見て、トラウゼン侯爵家にリバーシを届けて、王都に戻った」
「省略したわね」
「かなり」
ミラがすぐに言った。
ヴィクトルも頷く。
「黒爪熊はどこへ行った」
「今その話をする必要はないかなと」
「あるだろう」
ガイルが身を乗り出した。
「黒爪熊を倒したのか?」
「一体だけだよ」
「一体だけ、という言い方がおかしい」
エドガーが静かに言った。
「王都南西部の森か?」
「うん。冒険者ギルドの依頼で」
「三学期前日に?」
「時間があったから」
その場が少し静かになった。
ミラが額に手を当てる。
「リオン、普通の学生は始業前日に黒爪熊を討伐しないわ」
「依頼だったから」
「理由になっているようで、なっていないな」
エドガーが淡々と言う。
ヴィクトルは楽しそうに笑っていた。
「やはり、リオンの冬休みは話題として強い」
「俺は話題になるために動いているわけじゃない」
「分かっている。だから余計に話題になる」
「嫌な仕組みだ」
セレナは呆れたように息を吐いた。
「ハル領に戻っただけでは終わらないと思っていたけれど、予想以上ね」
「セレナは?」
「私は王都の屋敷にいたわ。年始の挨拶、客人の対応、茶会、会食。休みというより、別の種類の授業ね」
セレナは淡々と言った。
けれど、その声には少しだけ疲れが混じっていた。
「公爵家も大変なんだな」
「大変というより、そういうものよ。ただ、学院の授業とは違う疲れ方をするわ」
彼女はそう言って、水を一口飲んだ。
強気なセレナでも、家の務めからは逃げられない。
エドガーが続いた。
「俺は王宮にいた。新年の儀礼と、いくつかの挨拶に同席した。騎士団の訓練も少し見た」
「王子も大変だな」
ヴィクトルが言うと、エドガーは視線を向けた。
「商会の跡取りも大変そうだが」
「俺は帳簿と倉庫と商談だ。荷の動きを見て、父上の話を聞いて、時々小言をもらっていた」
「休みだったのか?」
俺が聞くと、ヴィクトルは胸を張った。
「商人にとっては、見るもの全部が勉強だ」
「それを楽しそうに言えるのは、あなたらしいわね」
セレナが言う。
ヴィクトルは満足そうに笑った。
「楽しいからな」
ガイルは肉を口に運びながら言った。
「俺はほとんど稽古だった」
「ガイルらしい」
「父上が、休み中に腕が鈍るなと言った。だから剣を振っていた。あと、領地の見回りにも少しついていった」
「東側は冬も大変なのか?」
「寒い。だが、冬の方が見えるものもある。
道が悪い場所、荷が止まりやすい場所、村が困っている場所」
ガイルは短く言った。
剣だけではない。
辺境公家の嫡男として、領地を見ている。
クラウスは静かに匙を置いた。
「俺は父の書類整理を手伝った。あとは、学院の課題と魔法制御の復習だ」
「休みらしいことは?」
「効率よく終わらせた後、少し読書をした」
「クラウスらしいな」
「無駄に疲れるよりいい」
クラウスは真顔だった。
ミラが笑う。
「私は実家で過ごしていたわ。親族の集まりに出たり、課題を片付けたり。少なくとも、魔物は倒していないわね」
最後の一言だけ、こちらを見て言った。
「普通は倒さないのかな」
「普通は倒さないわ」
即答だった。
ナディアは穏やかに言った。
「私はセルヴァン王国から届いた書簡の整理を手伝っていました。
あとは、王都での冬の過ごし方を少し学んでいました」
「王都の冬?」
「はい。セルヴァンとは空気も人の動きも違います。
夜会や挨拶の場でも、その土地の季節感を知らなければ、会話に遅れてしまいますから」
ナディアらしい言葉だった。
静かだが、見る場所が深い。
食事が一段落しても、リバーシの箱は出さなかった。
今日は、それを見せる日ではない気がした。
すでに評判だけが先に広がっている。
そして、その評判はリバーシそのものよりも、俺自身の方へ向かい始めていた。
「リオン」
セレナが言った。
「お父様の件、本当に忘れないで」
「忘れたい気もする」
「忘れさせないわ」
エドガーも静かに続ける。
「王宮の件も、可能性として覚えておいてくれ」
「可能性だけで終わってほしい」
「それは父上次第だ」
ガイルが頷く。
「うちにも来い」
「ガイルは何度も言うな」
「必要なことは何度でも言う」
クラウスも短く言った。
「うちもだ」
ナディアは少しだけ頭を下げる。
「セルヴァン王国にも、いつか」
ヴィクトルが笑った。
「リオン、完全に外交デビューだな」
「違う」
俺は即答した。
ミラが楽しそうにこちらを見る。
「でも、周りはそう見ているみたいよ」
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
今の俺は、王立学院の一生徒だ。
けれど、それだけではいられなくなってきているのかもしれない。
「午後の授業に遅れるぞ」
エドガーの声で、俺は顔を上げた。
「分かってる」
俺は皆と一緒に、教室へ向かった。




