第325話 道を照らすもの
黒爪熊の爪を革袋へしまった後、俺はもう一度周囲を見回した。
森は静かだった。
倒れた黒爪熊の巨体以外に、近くで動くものはない。
討伐証明も取った。
このまま王都へ戻っても、依頼達成としては問題ないはずだ。
だが、まだ時間はある。
依頼には周辺調査も含まれている。
それに、浮遊魔法が森の中でどう使えるかも、もう少し試しておきたかった。
「もう少し見て回るか」
俺は黒爪熊が通ってきた跡を確認しながら、森の奥へ少し進んだ。
今度は最初よりも浮遊魔法の扱いが楽だった。
木と木の間を抜ける。
枝の下をくぐる。
足元の落ち葉も、木の根も、ぬかるみも関係ない。
ハル領にいた時から何度も繰り返したせいか、魔力の消費も思ったほど大きくない。
最初は浮くだけで余計な力が入っていた。
だが、慣れてくると、力を入れすぎない方が安定する。
裏庭で練習していた時より、森の方がずっと難しい。
けれど、その分だけ分かることも多い。
森では速さより静かさ。
高さより位置。
大きく飛ぶより、短く動く。
黒爪熊を倒したことで、その感覚が少し掴めた気がした。
俺は折れた枝や足跡を見ながら、森の中を調べていった。
さっき倒した黒爪熊のものと思われる足跡は、いくつか残っている。
だが、別の黒爪熊らしい足跡は見つからない。
爪痕も、同じ大きさのものばかりだ。
少なくとも、この周辺に複数体がいる様子はなかった。
ただ、ひとつ気になることがある。
「熊って、冬は眠るものじゃなかったか……?」
前世の知識では、熊は冬眠する。
もちろん、この世界の魔物を前世の動物と同じに考えるのは危ない。
黒爪熊は魔物だ。
普通の熊とは違う。
それでも、王都へ来る途中に出た熊型の魔物も、今回の黒爪熊も、冬の森で動いていた。
二度続くと、少し気になる。
魔物だから冬でも活動するのか。
それとも、森の奥で餌が足りなくなっているのか。
別の強い魔物に追われて、浅い場所まで出てきたのか。
王都へ向かう荷車が増え、食料の匂いに引かれているのか。
考えられる理由はいくつかある。
だが、今の俺には判断できない。
森全体を見たわけではないし、黒爪熊の生態にも詳しくない。
「報告には入れておいた方がいいな」
依頼を達成したかどうかだけなら、黒爪熊一体の討伐で十分だろう。
だが、冬に熊型の魔物が動いていること。
王都へ向かう街道近くに出ていること。
食品輸送の荷車が襲われたこと。
それらは別々に見えて、つながっている可能性もある。
俺はさらに少しだけ森を探した。
だが、新しい黒爪熊は見つからなかった。
他の大型魔物の気配もない。
日が傾き、森の奥が少しずつ暗くなり始める。
冬の森は暗くなるのが早い。
これ以上長居するのはよくない。
「戻ろう」
俺は森の出口へ向かった。
来た時より、浮遊魔法での移動はかなり安定している。
足音を立てずに進めるのは便利だ。
ただ、暗くなってくると枝や幹が見えにくい。
調子に乗って速度を上げると、すぐにぶつかりそうになる。
やはり森の中では、無理に速く動くべきではない。
しばらく進むと、木々の間が少し開けてきた。
森の外が近い。
俺は地面に降り、普通に歩いて森を出た。
街道までは、まだ少し距離がある。
周囲に人の姿はない。
森と街道の間には、低い草地とまばらな木立が広がっていた。
ここなら、森の中ほど障害物は多くない。
「少しだけなら……」
俺はもう一度、体を浮かせた。
今度は森の中より少し高く。
風を受けながら、前へ進む。
木の間を縫う必要がない分、動きやすい。
速度も少し出せる。
体が軽い。
地面の凹凸も、ぬかるみも関係ない。
風が頬を抜ける感覚が、思ったより気持ちよかった。
もちろん、まだ長く飛べるわけではない。
高度を上げすぎれば不安定になる。
速度を出しすぎれば、止まる時に体が流れる。
それでも、開けた場所なら森よりずっと動きやすい。
少しだけ、空を飛ぶという感覚に近かった。
街道が見えてきたところで、俺は高度を下げた。
人に見られるわけにはいかない。
地面へ下り、歩きに切り替える。
何事もなかったように街道へ出ると、夕方の乗合馬車を待った。
しばらくして、王都へ戻る馬車が来た。
俺はそれに乗り込み、王都へ向かった。
◇
馬車が王都に着いた頃には、すっかり夜になっていた。
門は閉まりかけていたが、まだ通ることはできた。
冒険者カードを見せて、王都の中へ入る。
夜の王都は、昼とは違う顔をしていた。
店じまいをする者。
急ぎ足で家へ帰る者。
酒場へ向かう者。
馬車の音。
遠くから聞こえる笑い声。
俺は冒険者ギルドへ向かうため、中央通りを歩いた。
その時、ふと足を止めた。
通りの脇に、街灯が立っている。
青白い光が、夜の石畳を照らしていた。
青輝石の灯り。
ハル領で作られた街灯だ。
エリアスから話は聞いていた。
王都にも、ハル領の街灯が設置され始めていると。
だけど、実際に見ると違う。
従来の灯よりも、明らかに明るい。
ただ足元を照らすだけではない。
光が少し先まで届いている。
通りの石畳。
店先の看板。
行き交う人の表情。
荷車の車輪の影。
それらが、青白い光の中にくっきりと浮かび上がっていた。
夜の道なのに、暗さが少し遠ざかっているように見える。
これまでの灯りなら、光の輪の外はすぐに暗く沈んでいたはずだ。
だが、ハル領の街灯は違う。
光が広がり、通りの先まで届いている気がする。
胸の奥が、少し熱くなった。
王都の夜道を、ハル領で作られた灯りが照らしている。
その下を、人が歩いている。
荷を運ぶ者が通っている。
店の前で話す人たちの顔が、青白い光に照らされている。
これは俺一人の成果ではない。
ハル領で手を動かした多くの人の仕事が、今、王都の通りを照らしている。
「……すごいな」
小さく呟いた。
俺はしばらく街灯を見上げていたが、やがて歩き出した。
冒険者ギルドには、まだ灯りがついていた。
夜に戻る冒険者もいるのだろう。
昼間ほどの賑わいはないが、受付には職員が残っている。
俺は受付へ向かった。
「依頼の報告をお願いします」
夜番の受付職員が顔を上げる。
「依頼書を確認します」
俺は依頼書を渡し、革袋から布に包んだ黒爪熊の爪を取り出した。
「王都南西部の森で黒爪熊を一体討伐しました。討伐証明です」
職員は布を開き、黒い爪を確認した。
「確かに、黒爪熊の爪ですね。状況を教えてください」
「森の浅い場所から少し奥で、不自然に折れた枝と足跡を見つけました。
その先で黒爪熊を一体確認。周囲を調べましたが、近くに他の個体らしい足跡や気配は見当たりませんでした」
「単体だった、ということですね」
「はい。ただ、冬に熊型の魔物が活動していることは少し気になります。
王都へ来る途中でも、似た熊型の魔物が食品輸送の荷車を襲っていました」
職員は表情を少し引き締め、書面に記録していく。
「森の奥に何か異常がある可能性もある、ということですか」
「可能性だけです。確証はありません。
ただ、追加で確認するなら、森の奥の状況も見た方がいいかもしれません」
「分かりました。報告に残しておきます」
職員は爪を確認し、依頼達成の処理を進めた。
「黒爪熊一体の討伐、および周辺調査。報酬はこちらになります」
小袋が差し出される。
俺は中身を確認し、受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、お疲れさまでした。夜道にお気をつけて」
「はい」
ギルドを出ると、夜の空気が頬に触れた。
中央通りには、まだ青白い街灯がともっている。
俺は街灯の下を通り、学院寮へ向かって歩き出した。




