第324話 音を立てずに
俺は南西の森へ入った。
依頼書によれば、黒爪熊の目撃地点は、森の浅い場所から少し奥へ入ったあたりらしい。
まずは普通に地面を歩きながら進む。
冬の森は静かだった。
木々は葉を落としているが、見通しが良いわけではない。
低い枝が視界を遮り、足元には落ち葉が厚く積もっている。
木の根が地面を盛り上げ、ところどころにぬかるみもあった。
一歩踏むたびに、かさり、と落ち葉が鳴る。
細い枝を踏めば、ぱきり、と乾いた音が響く。
自分では小さな音のつもりでも、静かな森の中ではよく聞こえた。
これでは、魔物が近くにいればすぐに気づかれる。
俺は立ち止まり、周囲を見回した。
人の気配はない。
冒険者らしき姿も見えなかった。
「……試してみるか」
俺は足元に魔力を流した。
体がゆっくりと地面から離れる。
腰の高さ。
胸の高さ。
そして、人一人分くらいの高さまで浮いた。
裏庭で何度も練習した感覚だ。
だが、ここは裏庭ではない。
前にも横にも木がある。
枝もある。
広く開けた場所ではない。
俺は枝に当たらないように気をつけながら、木と木の間をゆっくり進んだ。
音がしない。
落ち葉を踏まない。
枝を折らない。
地面のぬかるみも、木の根も関係ない。
これは思った以上に便利だった。
森の中で足音を消せる。
それだけで、探索のしやすさが大きく変わる。
ただし、良いことばかりではない。
少し速度を上げようとした瞬間、目の前の木の幹が思ったより早く近づいた。
「危ない」
慌てて止まる。
体がわずかに横へ流れ、細い枝が頬の近くをかすめた。
裏庭なら問題ない動きでも、森では危険だ。
木が多い。
枝も多い。
進める方向が限られている。
高く浮けば枝にぶつかる。
速く動けば幹に当たる。
森の中で自由に飛び回るのは、今の俺には無理だ。
なら、使い方を変えるしかない。
速く飛ぶためではない。
高く移動するためでもない。
低く、静かに、木の間を抜ける。
俺は動きを小さくした。
少し進む。
止まる。
体の向きを変える。
また少し進む。
枝の下を抜け、幹と幹の間を通る。
大きく曲がらず、短い距離をつなぐように移動する。
最初はぎこちなかった。
止まるたびに体が揺れる。
向きを変える時に、肩が枝に当たりそうになる。
だが、何度か繰り返すうちに、少しずつ分かってきた。
森では、速度よりも位置取りだ。
音を出さずに、見つかりにくい場所へ移動する。
足場を気にせず、少し高い位置から周囲を見る。
浮遊魔法は、森の中では移動速度を上げる魔法ではない。
音を消し、位置を取るための魔法だ。
そう考えた方がいい。
気づけば、森の少し深いところまで進んでいた。
そこで、俺は動きを止めた。
木の枝が、不自然に折れている。
風で折れた感じではない。
何か大きなものが体をぶつけたような折れ方だった。
近くの地面には、大きな足跡がある。
人のものではない。
熊に似ている。
だが、普通の熊より大きい。
爪の跡も深い。
「黒爪熊か」
俺は足跡の向きを確認した。
森の奥へ続いている。
地上からでは木や低い枝が邪魔で、先の様子は見えにくい。
俺は浮遊魔法で、もう少しだけ高く上がった。
枝に当たらない高さを探りながら、足跡の先を見る。
いた。
黒い毛。
盛り上がった肩。
長い爪。
大きな熊型の魔物が、木の根元を嗅ぎながらゆっくり歩いていた。
黒爪熊。
今回の依頼対象で間違いない。
まだ、こちらには気づいていない。
すぐに仕掛けることもできる。
だが、依頼には周辺調査も含まれている。
単体か。
群れか。
近くに別個体がいるのか。
それを確認せずに斬りかかるのは危ない。
俺は高度を下げ、黒爪熊の後を追った。
浮遊魔法で進むと、物音をほとんど立てない。
木の陰を使いながら、一定の距離を保つ。
黒爪熊は時折立ち止まり、鼻を動かしていた。
地面に残った匂いを探っているのかもしれない。
そのたびに俺も動きを止める。
息を浅くし、魔力の揺れも抑える。
黒爪熊はこちらを振り向かない。
しばらく追跡した。
他の足跡は見当たらない。
近くに別の気配もない。
木の幹についた爪痕も、一体分だけに見える。
どうやら、今回は単体らしい。
「なら、仕留める」
俺は剣に手をかけた。
黒爪熊の後方から、音を立てずに近づく。
一歩。
もう一歩。
浮いたまま、木の間を抜ける。
距離が縮まる。
あと少し。
その時、黒爪熊の耳がぴくりと動いた。
気づかれた。
黒爪熊が振り向く。
低い唸り声。
長い爪が持ち上がる。
俺は高度を落とした。
足先が地面に触れる直前、地面を蹴る。
同時に、足元へ風魔法を流した。
浮遊魔法で体を軽くする。
風魔法で一歩分だけ前へ押す。
長く飛ぶ必要はない。
一瞬でいい。
間合いが消えた。
黒爪熊の爪が振り下ろされるより早く、俺は懐に入る。
剣を抜く。
狙うのは首筋。
余計な力はいらない。
通る場所に、刃を置く。
剣が走った。
刃が肉を裂く。
黒爪熊の巨体が、前のめりに崩れた。
地面が重く震える。
俺はすぐに後ろへ下がり、剣を構え直した。
黒爪熊は動かない。
呼吸もない。
討伐完了。
俺はしばらく周囲を確認した。
他の魔物が近づいてくる気配はない。
追っていた足跡も、この一体のものだけに見える。
依頼としては、これで問題ないはずだ。
ただし、冒険者ギルドへ報告するには討伐証明が必要になる。
「爪を持っていくか」
俺は黒爪熊の前脚へ近づいた。
名前の通り、黒い爪は長く、太く、鋭い。
これを振り下ろされたら、普通の荷車や旅人ではまず防げない。
短剣を抜き、前脚から特に大きな爪を外す。
思ったより硬い。
根元に刃を入れ、少しずつ切り離していく。
一本。
討伐証明としては十分だろう。
俺は外した爪を布に包み、革袋へしまった。
それから、もう一度倒れた黒爪熊を見た。
うまくいった。
だが、課題もはっきりした。
森の中で、浮遊魔法を速く使うのは危ない。
木が多く、枝も多い。
少し体が流れるだけで、すぐにぶつかる。
高く浮くのも向いていない。
視界は少し広がるが、枝に囲まれて動きにくくなる。
けれど、音を消す。
足場を無視する。
少し高い位置から見る。
最後の一歩を風魔法で押す。
その使い方なら、十分に戦える。
浮遊魔法は、ただ空を飛ぶための魔法ではない。
戦い方そのものを、少し変えられる魔法だ。
俺は剣についた血を払い、倒れた黒爪熊に背を向けた。
低く、短く、確実に。
今の俺には、その使い方が合っている。
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