第323話 南西の森の依頼
学院寮に戻った翌朝。
俺は、いつもと同じくらいの時間に目を覚ました。
部屋は静かだった。
昨日、ミアが整えてくれた荷は、きちんと収まっている。
窓の外には、王立学院の庭が見える。
冬の朝の空気は冷たく、庭を歩く人影もまだ少ない。
三学期が始まるまで、あと二日ある。
寮に戻っている生徒も、まだ多くはないようだった。
廊下へ出ても、普段なら聞こえる足音や話し声がほとんどない。
クラスメイトたちも、まだそれぞれの実家から戻ってきていないのだろう。
学院に戻ったはずなのに、まだ学院の日常は始まっていない。
少しだけ、時間が浮いているような感覚があった。
「……今日は、どうするかな」
机の上の教本を見る。
もちろん、勉強を始めることもできる。
父上にも、学院での研鑽を怠るなと言われている。
だが、授業が始まる前の今だからこそ、できることもある。
俺は、裏庭で練習していた浮遊魔法のことを思い出した。
低い位置なら、前後左右だけではなく、斜めにも動けるようになってきた。
速度を上げすぎなければ、狙った場所の近くで止まることもできる。
着地も以前より安定している。
ただし、あれはあくまで裏庭での練習だ。
人目のない場所で、石や木を目印にして、何度も繰り返しただけ。
実戦で使えるかどうかは、まだ分からない。
森の中では木が多い。
高く浮けば枝にぶつかる。
速く動けば、かえって避けにくくなるかもしれない。
けれど、低い位置での短い移動ならどうだろう。
足場の悪い場所で、根や石を避ける。
魔物の攻撃を横にずらす。
踏み込みの補助に使う。
そういう使い方なら、戦闘でも役に立つ可能性がある。
試すなら、人目の少ない場所がいい。
俺は剣を確認し、冒険者カードを手に取った。
久しぶりに、冒険者ギルドへ行ってみるか。
◇
身支度を済ませ、寮を出る。
今日は一人だ。
学院の門を出て、王都の通りへ向かう。
朝の王都は、すでに動き始めていた。
店先を掃く者。
荷を運ぶ者。
小さな屋台の準備をする者。
冬休みの間に見てきたハル領やトラウゼン侯爵領とは、やはり人の密度が違う。
王都は大きい。
俺は通りを歩きながら、冒険者ギルドへ向かった。
ギルドの建物が見えてくると、少し懐かしい気持ちになった。
扉を開けると、朝のギルドらしいざわめきが聞こえてきた。
依頼掲示板の前には、何人かの冒険者が立っている。
酒場の席では、簡単な食事をとっている者もいる。
受付の奥では、職員たちが書類を確認していた。
俺は掲示板へ向かった。
自分は冒険者としてはB級だ。
本来なら、B級相当の依頼を受けることもできる。
だが、今日は討伐数を稼ぎたいわけではない。
危険な相手に挑みたいわけでもない。
試したいのは、浮遊魔法を戦闘の中でどう使えるかだ。
久しぶりの冒険者活動でもある。
なら、無理に高いランクの依頼を選ぶ必要はない。
俺はCランク相当の依頼が貼られているあたりを見た。
いくつか目を通していくうちに、一枚の依頼書で手が止まった。
王都南西部の森にて、黒爪熊の目撃情報あり。
周辺調査、および発見時の討伐。
推定危険度、Cランク。
「黒爪熊……」
黒い毛と長い爪を持つ熊型の魔物。
単体ならCランク相当。
ただし、力が強く、普通の旅人や護衛のいない荷車には十分危険な相手だ。
俺は、王都へ来る途中で倒した熊型の魔物を思い出した。
この依頼に書かれている被害報告は、あの件だろうか。
それとも、似たような被害が別にも出ているのか。
場所は王都南西部の森。
俺たちが通ってきた街道南側の森ともつながっている。
どちらにしても、放っておけばまた食品を運ぶ荷車や旅人が襲われるかもしれない。
しかも、浮遊魔法を戦闘で試す相手としても、悪くない。
「よし。これにしよう」
俺は依頼書を掲示板から外し、受付へ向かった。
受付嬢がこちらに気づき、少し驚いた顔をした。
「あら、リオンさん。お久しぶりですね」
「お久しぶりです」
「学院のお休みでしたか?」
「はい。冬休みでハル領へ戻っていました。昨日、王都へ戻ったところです」
「そうでしたか。お帰りなさい」
「ありがとうございます」
受付嬢は俺の持っている依頼書に目を落とした。
「こちらの依頼ですね。王都南西部の森の黒爪熊調査、および討伐依頼」
「お願いします」
「リオンさんはBランクですので、受注に問題はありません」
受付嬢は書類を確認しながら言った。
「ただ、久しぶりの依頼になりますよね。無理はなさらないでください」
「分かっています。今回は確認も兼ねています」
「確認、ですか?」
「少し、自分の動きを試したいことがありまして」
浮遊魔法のことは言えない。
受付嬢も深くは聞かなかった。
「黒爪熊は単体ならCランクですが、力はかなり強いです。
近距離では十分注意してください」
「分かりました」
「目撃情報は、王都南西部の森の浅い場所から少し奥に入ったあたりです。
周辺確認も依頼内容に含まれています」
「討伐対象が見つからなかった場合は?」
「痕跡の確認と報告で一部報酬が出ます。ただし、黒爪熊を発見した場合は、可能であれば討伐してください。
複数体の可能性がある場合は、無理をせず撤退して報告をお願いします」
「了解しました」
受付嬢は依頼票と簡単な地図を渡してくれた。
「森の入口までは、南西門から出る乗合馬車が使えます。
今からなら、昼前には着けると思います」
「ありがとうございます」
「お気をつけて」
「行ってきます」
依頼票を受け取り、俺はギルドを出た。
◇
王都南西門の近くには、いくつかの乗合馬車が並んでいた。
森近くの村へ向かうもの。
材木置き場の近くまで行くもの。
小さな荷を運ぶ商人向けのもの。
俺は御者に行き先を確認し、王都南西部の森の入口近くまで行く馬車に乗った。
乗客は数人いた。
薪を扱う仕事をしているらしい男。
小さな荷を持った商人。
森近くの村へ戻るらしい老婦人。
革鎧を着た若い冒険者も一人いる。
俺は目立たないように、端の席に座った。
馬車が動き出す。
王都の門を出ると、建物の数が少しずつ減っていった。
石畳の道から、土の道へ。
人の声が遠ざかり、馬の足音と車輪の音が目立つようになる。
窓の外では、畑と木立が交互に流れていく。
俺は依頼票をもう一度確認した。
黒爪熊。
Cランク相当。
王都南西部の森。
周辺調査、および発見時の討伐。
◇
馬車はしばらく走り、やがて森の入口に近づいた。
木々が増え、道の脇に影が濃くなる。
冬の森だというのに、奥は思ったより暗い。
乗合馬車が止まる。
「南西の森の入口だ。降りる者はここだぞ」
御者の声がした。
俺は礼を言って馬車を降りた。
冷たい風が頬に当たる。
王都の中とは違う空気だ。
森の入口には、簡単な立て札があった。
この先、魔物出没注意。
単独での深追いを禁ず。
俺は依頼票の地図を開き、目撃情報の場所を確認する。
森の浅い場所から、少し奥。
人が通る道を外れたあたり。
先日の熊型魔物は、助けを求める声に反応して斬った。
今回は違う。
自分の意思で、調査と討伐に来た。
そして、自分の力を確かめに来た。
俺は剣の柄に手を置き、森の奥を見た。
高く飛ぶ必要はない。
無理に速く動く必要もない。
低く、短く、確実に。
浮遊魔法は、戦いの中でどこまで使えるのか。
それを確かめるには、ちょうどいい依頼だった。
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