第321話 街道南の森
翌朝、俺たちはトラウゼン侯爵家を出発した。
玄関前では、トラウゼン侯爵が見送ってくれた。
「王都まで、気をつけて行くとよい」
「ありがとうございます。昨日はお世話になりました」
「こちらこそ、リバーシを届けてもらえて助かった。ハル家にも、改めて礼を伝えてくれ」
「はい。必ず伝えます」
侯爵夫人とご子息も、短く挨拶をしてくれた。
ご子息は最後までリバーシのことが気になっているようで、少し名残惜しそうに俺を見ていた。
「次にお会いする時までに、私も練習しておきます」
「楽しみにしています」
そう答えると、ご子息は嬉しそうに頷いた。
トラウゼン侯爵は、そんな息子を横目で見ながら、少しだけ笑っていた。
前回この屋敷を訪れた時は、貴族の集まりに出ることで頭がいっぱいだった。
今回は違う。
リバーシを届け、侯爵と対局し、夕食を共にした。
俺たちは馬車に乗り込み、王都へ向かって出発した。
◇
トラウゼン侯爵領を離れ、王都へ向かう街道を進む。
王都に近づくにつれて、人と荷の流れは少しずつ増えていった。
街道は整っているが、周囲がすべて安全というわけではない。
特に、街道の南側には森が続く場所があった。
道から少し離れただけで、木々が密になり、奥は暗く見える。
ノルは馬車の外で、いつもより周囲をよく見ているようだった。
王都が近いからといって、警戒を緩めてはいない。
俺は馬車の中から窓の外を見ていた。
ミアは向かいの席で、王都へ着いてからの荷を確認している。
道中の揺れの中でも、ミアの手つきは丁寧だった。
その時だった。
「助けてくれー!」
森の方から、叫び声が聞こえた。
馬車の中の空気が一瞬で変わる。
ミアが顔を上げた。
外ではノルがすでに反応している。
「止めろ!」
ノルの声で、馬車が止まった。
俺はすぐに剣へ手を伸ばした。
「リオン様」
ミアの声に、不安が混じる。
「ミアは馬車の中にいて。絶対に出ないで」
「はい」
俺は扉を開けて外へ出た。
ノルがすぐにそばへ来る。
「森側です」
「ああ。行こう」
「護衛二名は馬車を守れ。ミア殿を外へ出すな」
ノルが短く指示を出す。
俺とノルは、声のした方へ走った。
街道から少し外れた森際に、荷車が一台止まっていた。
荷台には、食品を入れた木箱や袋が積まれている。
麦の袋。
干し肉の束。
根菜の入った箱。
塩漬けの品らしき樽。
王都へ運ぶ途中だったのだろう。
だが、その荷車の周囲はひどく荒れていた。
箱が一つ落ち、中身が地面に散らばっている。
荷車のそばでは、男が一人、地面に倒れていた。
もう一人は木の陰に逃げ込むようにして、必死に身を縮めている。
そして、その前にいたのは、熊に似た魔物だった。
普通の熊より一回り大きい。
背中の毛は黒く、肩のあたりが盛り上がっている。
前脚は太く、爪が長い。
口の周りには、すでに血がついていた。
熊型の魔物は、倒れている男へ向かって前脚を振り上げた。
間に合う。
俺は剣を抜いた。
考えるより先に、体が動いていた。
魔物の視線。
前脚の角度。
倒れている男との距離。
一瞬で見て踏み込む。
魔物の前脚が振り下ろされるより早く、俺は横へ入った。
剣を低く構え、前脚の内側を抜ける。
熊型の魔物がこちらに気づき、頭を振った。
遅い。
俺は体を沈め、喉元へ向けて剣を走らせた。
刃が肉を裂く感触。
そのまま一歩抜ける。
魔物の巨体が、遅れて揺れた。
前脚が地面を引っかく。
だが、もう力は入っていない。
熊型の魔物は、低く唸るような音を漏らし、そのまま横倒しに崩れた。
地面が重く震える。
終わった。
俺は剣を構えたまま、数呼吸だけ魔物を見た。
動かない。
ノルがすぐに近づき、魔物の状態を確認した。
「討伐、確認しました」
「怪我人は?」
「はい」
ノルの声には、わずかな驚きが混じっていた。
だが、今はそれを聞いている場合ではない。
俺は倒れている男のそばへ膝をついた。
食品を運んでいた者の一人だろう。
年は三十代くらい。
左腕から血が出ている。
肩から胸にかけて、魔物に弾き飛ばされたような打撲もある。
顔色は悪いが、意識はある。
「聞こえますか」
「あ……ああ……」
「もう魔物は倒しました。動かないでください」
俺は《綻びの目》を使った。
視界の中で、男の体の悪い箇所が浮かび上がる。
≪左腕:裂傷≫
≪出血:多い≫
≪肩:打撲≫
≪肋骨:衝撃≫
ただ、骨が完全に折れているわけではなさそうだ。
命に関わる傷ではない。
だが、放っておけば出血と痛みで動けなくなる。
「少し痛むかもしれません」
俺は左腕に手をかざし、回復魔法を流した。
傷口を完全に消すのではなく、まず出血を抑える。
裂けた部分を閉じる。
痛みで動けなくならない程度に、魔力を通す。
次に、肩と肋骨の周辺。
深くは入れすぎない。
無理に治そうとすると、かえって体に負担がかかる。
痛みが強く出そうな箇所だけを整える。
男の呼吸が少し落ち着く。
「……痛みが、少し引いた」
「応急処置です。完全に治したわけではありません」
俺ははっきりと言った。
「痛むようなら、王都に着いてから必ず医者に診せてください」
「あ、ありがとうございます……」
「立てますか」
「少しなら……」
「無理はしないでください」
俺は木の陰にいたもう一人の男にも声をかけた。
「あなたは怪我を?」
「俺は、転んだだけです。腕を少し打ったくらいで……」
その男も食品を運んでいた者らしい。
服は土で汚れているが、大きな出血はない。
念のため《綻びの目》で見る。
≪右腕:軽い打撲≫
≪膝:擦り傷≫
大きな問題はなさそうだ。
「あなたも王都で痛みが増すようなら、診てもらってください」
「はい……はい、本当に助かりました」
男は震える声で答えた。
ノルは熊型魔物の周囲を見ていた。
足跡。
森から出てきた跡。
荷車の周囲に散らばった食料。
「森の奥から出てきたようです」
「餌を探して?」
「おそらく。荷の匂いに引かれた可能性もあります」
食品輸送の男が、青ざめた顔で頷いた。
「王都へ運ぶ食料でした。森の横を通ったところで、急に……」
「護衛は?」
「雇う余裕がなくて……王都も近いから、大丈夫だと思って……」
男は悔しそうに唇を噛んだ。
王都が近い。
だから大丈夫。
その気持ちは分からなくもない。
俺も転移魔法でハル領と王都を行き来していると、道中の危険を忘れそうになる。
一瞬で移動できる力があると、道の上を進む人たちの現実が見えにくくなる。
荷を積み、時間をかけ、森の横を通り、宿場を越えて、王都へ向かう。
その途中で、魔物と遭遇することもある。
王都の近くであっても。
街道のそばであっても。
森が近ければ、危険はある。
食品の箱が一つ、地面に落ちて割れていた。
中の根菜が散らばっている。
別の袋は爪で裂かれ、麦がこぼれていた。
人が無事だったからよかった。
だが、もし俺たちが通らなければ、この荷車は壊され、人も死んでいたかもしれない。
「ノル」
「はい」
「この魔物、街道側へ出てくる可能性はあった?」
「十分にあります。今回は荷車が森際へ寄っていたため、そこで襲われたのでしょう。
放置すれば、街道へ出ていたかもしれません」
「そうか」
ノルは俺の方を見た。
「リオン様」
「何?」
「先ほどの踏み込み、以前よりかなり速くなっています」
「そうかな」
「はい。剣の振りだけではありません。体の運びが変わっています」
ノルは淡々と言った。
だが、その目は真剣だった。
見抜かれている。
浮遊魔法のことは知らないはずだ。
それでも、体の使い方が変わったことには気づくらしい。
裏庭での練習。
空中で姿勢を保つ感覚。
止まるための力の使い方。
それが、踏み込みや重心の移動にも少し影響しているのかもしれない。
「剣の練習も続けてるから」
「それだけではない気もしますが」
ノルの視線が少し鋭い。
俺は軽く咳払いした。
「今は怪我人と荷車を戻すのが先だよ」
「……承知しました」
助けた食品輸送の二人は、何度も頭を下げてきた。
「本当に、ありがとうございました。あのままでは、どうなっていたか……」
「礼は大丈夫です。それより、荷車を街道へ戻しましょう。
もう一人の方を乗せて、王都まで無理をしないでください」
「はい」
「応急処置はしましたが、痛みが残るようなら、王都で医者に診せてください。
特に左腕と胸の痛みは、無理に動かさない方がいいです」
「分かりました」
男たちは頷いた。
護衛の一人を呼び、荷車を街道側へ戻すのを手伝わせる。
落ちた食品のうち、使えるものは拾い直した。
割れた箱や裂けた袋は、簡単にまとめる。
すべてが無事ではない。
だが、荷車そのものは動かせる。
人も、生きている。
それだけで十分だった。
俺たちが馬車へ戻ると、ミアが心配そうに待っていた。
「リオン様」
「大丈夫。魔物は倒した」
ミアは俺の服を見て、少し表情を硬くした。
血が少しついている。
魔物のものだ。
「お怪我は」
「俺はしていないよ」
「本当ですか」
「本当」
ミアはまだ不安そうだったが、俺の様子を見て少しだけ息を吐いた。
ノルが短く言う。
「リオン様に怪我はありません」
「ありがとうございます」
ミアはようやく少し安心したようだった。
馬車が再び動き出す。
王都へ向かう街道に戻ると、さっきまでと同じように人と荷が流れていた。
何事もなかったように、馬車が進み、荷車が揺れ、旅人が歩いている。
だが、俺の中では少し見え方が変わっていた。
転移魔法を使えば、ハル領と王都の距離はほとんど消える。
だから、忘れそうになる。
道があるだけでは、人は安全に進めない。
その道を通る人と荷を、どう守るのか。
それもまた、領を治める者が考えなければならないことなのだろう。
俺は窓の外に続く街道を見つめた。
王都は近い。
学院へ戻る日も近い。
けれど、その前に俺はもう一度思い知らされた。
人と荷が動く場所には、必ず守るべきものがあるのだ。
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