第320話 十組のリバーシ
トラウゼン侯爵領の領都へ入ると、前回見た景色が少しずつ戻ってきた。
街道沿いに並ぶ宿。
荷を積み替える商人。
馬車を誘導する者たち。
王都方面へ向かう人と、王都方面から来た人が、同じ道の上で行き交っている。
ハル領を出た時とは、やはり空気が違う。
人と荷が通ることを前提に動いている領都だ。
馬車はそのままトラウゼン侯爵家の屋敷へ向かった。
◇
馬車が門を通り、玄関前に止まった。
すぐに屋敷の使用人たちが動き出す。
荷台に積んでいたリバーシ十組は、布で丁寧に包まれている。
護衛と屋敷の使用人が、慎重にそれを下ろしていった。
俺は馬車を降り、ミアも続く。
ノルは周囲を確認しながら、少し後ろに控えた。
玄関広間には、前回も俺たちを案内してくれた家令が待っていた。
「リオン様。お待ちしておりました」
「お世話になります。トラウゼン侯爵閣下へお届けする品をお持ちしました」
「はい。侯爵閣下も、楽しみにしておられました」
家令の声は落ち着いている。
だが、その言葉の奥に、少しだけ柔らかいものが混じっていた。
楽しみにしていた。
その一言で、俺の緊張も少し和らぐ。
案内されて玄関広間の奥へ進むと、そこにトラウゼン侯爵が立っていた。
前回と同じく、落ち着いた佇まいだ。
だが、その表情は前よりも少し明るい。
「よく来てくれた、リオン殿」
「お招きいただき、ありがとうございます」
俺は礼をした。
「父よりの返書と、ご希望いただいたリバーシ十組をお持ちしました」
「うむ。首を長くして待っていたぞ」
侯爵はそう言って、少し笑った。
その言い方があまりに自然だったので、俺は一瞬返事に迷った。
本当に楽しみにしていたらしい。
俺は革袋から、父上の返書と納品書を取り出した。
「こちらが父からの返書です。それから、リバーシ十組の内容をまとめた書面になります」
「ありがたく受け取ろう」
侯爵は家令へ目配せした。
家令が丁寧に返書と納品書を受け取る。
その間に、リバーシ十組が広間の脇へ並べられた。
布を外された箱は、工房長がかなり気を遣って仕上げたものだ。
派手すぎない。
だが、侯爵家へ納める品として粗くもない。
木目が揃い、角もきれいに整えられている。
家令が一箱を開けた。
中には盤、駒、駒入れ、説明書、予備の駒が収められている。
侯爵は箱の中を覗き込み、盤を手に取った。
「夜会で見たものより、さらに整っているな」
「工房長とエリアスが、かなり気を遣ってくれました」
「エリアス殿とは、ハル家の文官だったな」
「はい。今回の納品書や説明書の手配も、エリアスが整えてくれました」
「なるほど。良い仕事をする」
「ありがとうございます。戻りましたら、本人にも伝えます」
侯爵は盤の線を見て、次に駒を一つ手に取った。
白と黒の面を返しながら、満足そうに頷く。
「これなら客人にも出しやすい。説明書もあるのか」
「はい。初めての方でも分かるように、基本の置き方と、挟んだ駒を返すことを書いてあります。
角については少しだけ触れる程度にしています」
「なぜ少しだけなのだ」
「最初から全部書きすぎると、遊ぶ前に疲れてしまいますので」
侯爵は一瞬きょとんとした後、声を出して笑った。
「たしかに、その通りだ。あまり親切すぎる説明も、興を削ぐか」
「はい。まず遊んでいただくことが大事かと」
「面白い考え方だ」
侯爵は盤を家令に戻した。
そして、俺を見た。
「ところで、リオン殿」
「はい」
「せっかく来てもらったのだ。一局、相手をしてもらえないか」
「今から、ですか」
「うむ。あの夜会以来、少し練習していたのだ」
侯爵の表情は真面目だった。
俺は思わず、少しだけ目を見開いた。
練習していたのか。
侯爵家の当主が、夜会の後にリバーシを練習していた。
その姿を想像すると、少し不思議な気分になる。
「それは、光栄です」
「前回は負けたからな。今度は少しは良い勝負にしたい」
「では、よろしくお願いいたします」
応接室へ移動することになった。
家令が素早く盤を用意する。
ミアは少し後ろに控え、ノルは部屋の入口近くで静かに立った。
侯爵は席に着くと、盤を前にして楽しそうに目を細めた。
さっきまで侯爵として品を受け取っていた人が、今は対局相手として盤を見ている。
やはり、リバーシという遊びは不思議だ。
向かい合った瞬間、身分や立場の空気が少しだけ変わる。
「では、始めよう」
「はい」
最初の四つを並べ、対局が始まった。
数手進めて、すぐに分かった。
トラウゼン侯爵は、前回より明らかに上手くなっている。
目の前で多く返せる場所へ、すぐ飛びつかない。
角の近くを警戒している。
序盤に取りすぎないようにしている。
盤全体を見る時間も増えていた。
本当に練習していたのだ。
「侯爵閣下、かなり打ち方が変わりましたね」
「分かるか」
「はい。前回より、角の周りをよく見ておられます」
「角を取られると苦しいことは、よく分かったからな」
侯爵は少し得意そうに言った。
「夜会の後、家の者を相手に何度か試した。皆、最初はたくさん返すことばかり考える」
「最初はそうなりやすいです」
「私もそうだった」
侯爵は盤を見つめる。
次の手を考えている。
悪くない。
いや、かなり良い。
ただし、それでもまだ差はある。
前世で休憩時間や寝る前にスマホでリバーシをやり込んでいた俺とは、経験量が違う。
ここで本気を出せば、かなり一方的になる。
だが、そんなことをしても意味はない。
これは勝負ではある。
同時に、侯爵にリバーシをもっと楽しんでもらう場でもある。
俺は少しだけ手を緩めた。
露骨に負けるのではない。
侯爵が考えられる余地を残す。
良い場所を見つけられるように、盤を急に狭めすぎない。
それでも、要所は押さえる。
侯爵が長く考え、一手を置いた。
「ここでどうだ」
「良い手です」
「本当か」
「はい。そこを取られると、私は次に少し動きにくくなります」
「ふむ」
侯爵は満足そうに頷いた。
ただ、その次の次で、侯爵は角の近くに少し危ない形を残した。
俺はそこをすぐには突かず、別の場所へ置いた。
侯爵は首を傾げる。
「今、そちらへ来ると思ったのだが」
「そこもあります。ただ、こちらを先に見た方がよいかと」
「なぜだ」
「この後、ここを開けると、逆に侯爵閣下が角を取りやすくなります」
俺が盤の流れを指で示すと、侯爵はじっと見た。
そして、しばらくしてから頷いた。
「なるほど。すぐ返せる場所だけ見ていると、見落とすな」
「はい。少し先の形を見る遊びです」
「面白い。やはり面白いな」
侯爵は楽しそうだった。
対局は中盤から終盤へ進んだ。
侯爵は前回より粘った。
角も一つ取った。
端の取り方もかなり良くなっている。
だが、最終的には俺が勝った。
盤の上には、俺の色が多く残っている。
侯爵はしばらく盤を見つめ、それからゆっくり息を吐いた。
「ふむ。以前よりは良くなったと思っていたのだがな」
「かなり良くなられていました」
「しかし、まだ差がある」
「経験の差かと」
「それだけではない気もするが」
侯爵の目が少しだけ鋭くなる。
俺は内心で少し焦った。
こういうところが、さすがに侯爵だ。
ただ遊んでいるだけではない。
相手の慣れ方や考え方も見ている。
「私は、この遊びを考えた側ですので」
俺はそう答えた。
嘘ではない。
この世界でリバーシを持ち込んだのは俺だ。
前世でやり込んでいたことまでは言えないが。
「なるほど。考えた者は、見えているものが違うというわけか」
「そうかもしれません」
侯爵は少し笑った。
「よし。次にリオン殿が来るまでには、もう少し腕を磨いておこう」
「楽しみにしております」
「その時は、もう少し驚かせてみせる」
侯爵は負けたのに、どこか満足そうだった。
盤を挟んでいる間だけ、侯爵の表情が少し若く見えた。
それから、侯爵は家令に盤を片付けさせず、そのまま近くに置かせた。
まだ後で使うつもりなのかもしれない。
「リオン殿」
「はい」
「せっかく立ち寄ってもらったのだ。今夜は夕食を共にしていかないか」
「よろしいのですか」
「もちろんだ。王都へ向かう途中で無理をさせるつもりはない。客室も用意してある」
用意してある。
つまり、最初から泊めるつもりだったらしい。
俺は少し驚いたが、すぐに礼をした。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」
「うむ。道中は急ぐより、余裕を持つ方がよい」
侯爵はそう言って、家令へ視線を送った。
「客室の準備を」
「すでに整えております」
家令は落ち着いた声で答えた。
本当に準備済みだった。
ミアが少しだけ驚いた顔をしている。
ノルは表情を変えないが、たぶん警備の確認を頭の中で始めている。
その後、俺たちは客室へ案内された。
荷を置き、服を整え、夕食の時間を待つ。
ミアはすぐに、トラウゼン侯爵家の夕食に出るための服を確認し始めた。
「リオン様。夕食には、こちらの上着がよろしいかと」
「分かった」
「髪も整え直します」
「お願い」
馬車で二日揺られてきた後だ。
そのまま侯爵家の夕食に出るわけにはいかない。
ミアがいてくれて本当に助かる。
夕食の席には、トラウゼン侯爵のほかに、侯爵夫人とご子息が同席していた。
侯爵夫人は穏やかな雰囲気の女性だった。
侯爵と同じく落ち着いているが、こちらを見た時の目は柔らかい。
ご子息は十歳くらいだろうか。
俺より年下で、まだ幼さが残っている。
だが、席に着く姿勢はきちんとしていた。
「リオン・ハルでございます。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「ようこそ、リオン殿」
侯爵夫人が穏やかに言った。
「夫が、あなたのお持ちになるリバーシをとても楽しみにしておりました」
「夫人」
侯爵が少しだけ咳払いをした。
「そこまでではない」
「かなり楽しみにしておられましたよ」
夫人は微笑んだままだ。
ご子息も隣で頷く。
「父上は、夜会の後から何度もリバーシの話をしていました」
「お前まで言うのか」
侯爵は困ったように眉を上げた。
その様子を見て、俺は少し驚いた。
夜会で見た侯爵とは違う。
ここにいるのは、領を治める侯爵であると同時に、夫であり、父でもある人だった。
「本日、リバーシを拝見しました」
ご子息がこちらを見た。
「私も遊べますか」
「もちろんです。ルール自体は難しくありません」
「父上は難しいと言っていました」
「勝とうとすると、少し難しくなります」
そう答えると、ご子息は目を輝かせた。
「では、私も覚えたいです」
「後で父上に教えていただくとよいかと」
「父上は、リオン殿に負けたのですよね」
侯爵がまた咳払いをした。
「まだ練習中だ」
「では、私も練習します」
夫人が楽しそうに笑う。
食卓の空気は、思っていたよりずっと和やかだった。
料理は、前回の夜会ほど華やかではない。
だが、温かく、丁寧に作られている。
焼いた肉。
根菜の煮込み。
香草の入ったスープ。
柔らかいパン。
長旅の後には、こういう食事がありがたい。
食事の間、話題はいくつか移った。
リバーシのこと。
ハル領の街灯のこと。
王立学院のこと。
トラウゼン侯爵領の街道のこと。
ご子息は、王立学院に強い関心を持っているようだった。
「王立学院は、やはり広いのですか」
「かなり広いです。最初は教室の場所を覚えるだけでも大変でした」
「授業は難しいですか」
「難しいものもあります。でも、先生方はしっかり教えてくださいます」
「リオン殿は、飛び級されたと聞きました」
「はい。ですが、周囲の方々に助けられている部分も多いです」
そう答えると、侯爵が少しだけこちらを見た。
たぶん、俺が自分の功績だけにしない言い方をしていることに気づいたのだろう。
侯爵夫人は穏やかに言った。
「王都で学び、領に戻って働く。若い方には大変なことも多いでしょう」
「はい。まだ分からないことばかりです」
「分からないことを分からないと言えるなら、十分立派です」
「ありがとうございます」
その言葉は、母上の言葉にも少し似ていた。
分かったふりをしないこと。
それは、どこでも大切なのかもしれない。
食事の終わり頃、侯爵が言った。
「リオン殿。王都へは明日出るのだな」
「はい。その予定です」
「ならば、今夜はゆっくり休むとよい。道中で無理をしてもよいことはない」
「ありがとうございます」
「それと、リバーシの件は本当に助かった。あれは、次の集まりでも良い話題になるだろう」
「そう言っていただけると、工房の者たちも喜びます」
「ハル家の工房にも、礼を伝えてくれ」
「必ず伝えます」
夕食が終わると、家令が客室へ案内してくれた。
ミアは控えの間へ。
ノルは、屋敷側の警備担当と短く確認を交わしていた。
客室に入ると、静かな空気が満ちていた。
窓の外には、トラウゼン侯爵家の庭が見える。
夜の空気は冷たい。
俺は椅子に座り、今日のことを思い返した。
リバーシ十組を届けた。
侯爵と再戦した。
侯爵夫人とご子息にも会った。
前回は、夜会の主催者としてのトラウゼン侯爵を見た。
今回は、リバーシを楽しみに待っていた一人の人としての侯爵を見た。
そして、家族と食卓を囲む父としての顔も見た。
外との関係というのは、書面や挨拶だけでできているわけではないのかもしれない。
同じ盤を挟む。
同じ食卓につく。
同じ話題で笑う。
そういう小さな時間が、少しずつ距離を縮めていく。
リバーシ一つで、ここまで空気が変わるとは思わなかった。
俺は窓の外を見た。
明日は王都へ向かう。
学院へ戻る日が、少しずつ近づいている。
だがその前に、トラウゼン侯爵領で得たこの一日も、きっとハル家にとって意味のあるものになる。
そう思いながら、俺は静かな客室で息をついた。
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