第319話 馬車の中のリバーシ
ハル領を出てから、馬車はトラウゼン侯爵領を目指して進んでいた。
今回は、まっすぐ王都へ向かうわけではない。
トラウゼン侯爵家へ、リバーシ十組を届ける。
その後、王都へ向かう予定だ。
馬車の揺れは、相変わらず体に残る。
以前より慣れてきたとはいえ、長時間座っていると、どうしても腰や肩が固くなる。
窓の外には、冬の街道が続いていた。
葉を落とした木々。
固く締まった土の道。
時折すれ違う荷車。
護衛の馬の足音。
ノルは馬車の外で、いつも通り周囲を確認しながら進んでいる。
馬車の中には、俺とミアがいた。
学院へ戻る荷。
トラウゼン侯爵家へ渡す書面。
そして、丁寧に包まれたリバーシ十組。
積まれている箱を見ていると、少し不思議な気分になる。
もともとは、ただ遊ぶために考えたものだった。
それが今では、侯爵家へ届ける品になっている。
外との縁をつなぐ荷になっている。
大げさに言えば、外交の一部だ。
そう思うと、ただの木の盤と駒には見えなくなってくる。
◇
しばらくして俺は窓の外を一度確認した。
護衛は外にいる。
ノルも馬車のそばだ。
今、馬車の中を見ている者はいない。
「じゃあ、少し休憩にしよう」
「休憩、ですか?」
「ああ」
俺は小さく息を吐き、亜空間収納魔法を使った。
手元の空間に、見えない棚を開くような感覚。
そこから、小さな木箱を取り出す。
ミアの目が大きくなった。
「リオン様。今、それは……どこから?」
「亜空間収納魔法」
「亜空間収納……」
「みんなには内緒だよ」
「はい。それはもちろんですが……」
ミアはまだ驚いた顔で、俺の手元の箱を見ている。
無理もない。
何もないところから物を取り出したように見えるのだから。
俺は膝の上に木箱を置いた。
「これは、贈呈用のリバーシじゃないよ」
「では、そちらは?」
「遊ぶ用の簡易版」
「遊ぶ用、ですか」
「うん。エリアスに頼んで、贈呈用とは別に一組だけ作ってもらっていたんだ」
箱は、トラウゼン侯爵家へ届けるものほど立派ではない。
装飾も少ない。
木の仕上げも簡素だ。
けれど、盤の線はきちんと見える。
駒も白黒が分かる。
遊ぶ分にはまったく問題ない。
「リオン様は、こういうことを本当に楽しそうになさいますね」
ミアが少し呆れたように言った。
「楽しいよ。遊び道具なんだから、遊ばないと」
「ですが、馬車の中でですか?」
「馬車の中だからだよ。暇だろう?」
俺は座る位置を少し変え、ミアの横に盤を置けるだけのスペースを空けた。
「さぁ、ミア」
「私が、リオン様とですか?」
「他に相手がいないからね」
「ノル様は……」
「馬車の外で護衛中だよ。呼んだら怒られると思う」
「怒りはしないと思いますが、困られるとは思います」
「じゃあ、ミアで決まりだ」
ミアは少し戸惑っていたが、やがて小さく頷いた。
「では、少しだけ」
「うん。少しだけ」
俺は盤を広げ、駒を並べた。
馬車が揺れるので、駒が滑らないように布を敷く。
完璧ではないが、ゆっくり遊ぶ分には何とかなる。
「まず、真ん中に四つ置く」
「はい」
「自分の色で、相手の色を挟む。挟んだ駒は自分の色に変わる」
「それは説明書を読んで覚えました」
「そっか。じゃあ、やってみよう」
最初は、ミアが黒を持った。
ミアはかなり真剣な顔で盤を見つめている。
そして、置ける場所を見つけると、すぐに駒を置いた。
「ここでよろしいでしょうか」
「置ける場所としては合っているよ」
俺は白の駒を返す。
ミアは少し嬉しそうにした。
「取れました」
「うん。でも、最初にたくさん返せばいいわけじゃないんだ」
「そうなのですか?」
「うん。序盤に取りすぎると、相手に良い場所を渡すことがある」
「遊びなのに、難しいのですね」
「だから面白いんだよ」
数手進むと、ミアは目の前で多く返せる場所を選び始めた。
分かりやすい。
最初は誰でもそうなる。
俺は角の近くを指差した。
「ここは気をつけた方がいい」
「なぜですか?」
「角を取られると、その駒はほとんど返されない。だから、角のすぐ隣に不用意に置くと危ないんだ」
「角は強いのですね」
「そう。かなり大事」
ミアは真剣に頷いた。
それからは、角の周りを見るようになった。
ただし、見すぎて別の場所が甘くなる。
俺がそこを取ると、ミアは小さく息をのんだ。
「そこも危なかったのですね」
「うん。でも今のは悪くないよ。角を意識できていたから」
「難しいです」
「最初から上手な人はいないよ」
一局目は、俺が大きく勝った。
ミアは盤を見ながら、少し悔しそうな顔をしている。
「もう一度、お願いします」
「もちろん」
二局目。
ミアはさっきより慎重になった。
目の前の駒をたくさん返せる場所だけでなく、次に俺がどこへ置けるかを考えている。
まだ読めているわけではない。
だが、考え方が変わった。
「ここは……置かない方がよろしいのですよね」
「どうして?」
「角の隣だからです」
「正解」
ミアは少しだけ嬉しそうにした。
その表情を見て、俺も少し楽しくなる。
リバーシは、ただ勝つためだけにやるものではない。
相手が少しずつ分かっていくのを見るのも面白い。
二局目も俺が勝った。
ただし、一局目ほど差は開かなかった。
「ミア、かなり良くなってる」
「本当ですか?」
「うん。さっきよりずっと考えていた」
「リオン様に教えていただいたからです」
「教えただけでできるなら十分だよ」
三局目に入る頃には、馬車の揺れにも慣れてきた。
盤の上の駒が少しずれるたびに、ミアが丁寧に直す。
俺が少し油断して置いた手に、ミアが思ったより良い返しをした。
「あ」
思わず声が出た。
ミアが不安そうにこちらを見る。
「今のは、まずかったでしょうか」
「いや、逆。良い手だった」
「良い手、ですか」
「うん。俺が少し油断した」
ミアの表情が明るくなる。
「では、少しは強くなったのでしょうか」
「かなり」
「かなり、ですか」
「少なくとも、さっきよりは」
「それは、まだあまり強くないということでは」
「そこに気づくのも成長だね」
「リオン様」
ミアが少しだけむくれたように俺を見る。
思わず笑ってしまった。
馬車の中の空気が、少し柔らかくなる。
リバーシ十組を届けに行く旅。
トラウゼン侯爵家への挨拶。
王都へ戻る準備。
考えることは多い。
だが、盤を挟んでいる間だけは、少し気持ちが軽くなった。
やがて、馬車が休憩のために止まった。
俺は盤を片付け、駒の数を確認する。
ミアも一緒に数えた。
「六十四個、あります」
「ありがとう」
「この確認も、大事なのですね」
「うん。一つでも足りないと遊べないから」
「工房の方々も、これを何度も確認されたのでしょうね」
「たぶんね」
ミアは、布に包まれた簡易版のリバーシを見た。
「遊んでみると、贈呈用の十組がどれだけ丁寧に作られているのか、少し分かる気がします」
「そうだね」
自分で遊ぶと、必要なことが見える。
駒が持ちやすいか。
盤の線が見やすいか。
箱にしまいやすいか。
説明が分かりやすいか。
それは、外から眺めているだけでは分からない。
休憩の後、馬車はまた進んだ。
その日は宿場に泊まった。
翌日も朝から街道を進んだ。
馬車の中では、またリバーシを広げた。
ミアは一日目よりも、さらに慎重になっていた。
置く前に、盤全体を見る。
角の近くを確認する。
俺の次の手を少し考える。
もちろん、まだ俺が負けるほどではない。
だが、油断すれば少し面倒な形を作られる。
「ミア、本当に上達してるね」
「馬車の中でずっと考えておりました」
「そんなに?」
「はい。角の近くに置いてはいけない、ということを忘れないように」
「それだけ覚えていれば、かなり違うよ」
「ですが、リオン様はそれ以外の場所でも私を困らせます」
「それがリバーシだから」
ミアは盤を見つめ、慎重に駒を置いた。
今度は、俺が少し考えさせられる位置だった。
「……いいね」
「今のは良い手ですか?」
「うん。かなり良い」
ミアは嬉しそうに微笑んだ。
その顔を見ると、リバーシを一組余分に用意しておいてよかったと思う。
トラウゼン侯爵家の広間では、リバーシは場の空気を変えた。
馬車の中では、長い移動の時間を少し柔らかくした。
場所が変わっても、盤を挟めば会話が生まれる。
それが、この遊びの強さなのかもしれない。
休み、遊び、また休み、馬車は進んだ。
二日目の昼過ぎ。
窓の外に、見覚えのある道が見えてきた。
街道沿いの宿。
行き交う荷車。
王都方面へ向かう商人たち。
そして、遠くに見える領都の屋根。
「リオン様」
ミアが窓の外を見た。
「トラウゼン侯爵領ですね」
「ああ」
前回は、招かれて緊張しながら来た場所だった。
今回は、ハル領の品を届けるために来た。
馬車は、トラウゼン侯爵領の領都へ向かって進んでいく。
今度は客として招かれたのではない。
ハル領の品を届けるために、俺はもう一度この地へ戻ってきた。
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