第312話 リバーシの輪
広間の方から、もう一度大きな笑い声が聞こえた。
さっきまでの夜会とは、明らかに空気が違う。
礼儀正しい挨拶や、探るような会話ではない。
もっと素直な驚きと、楽しそうな声だった。
「戻ってみましょうか」
ミラが広間の扉の方を見ながら言った。
「ああ」
俺も頷いた。
長く外にいるわけにもいかない。
ミラと一緒に広間へ戻ると広間の奥に、人だかりができていた。
トラウゼン侯爵。
ハーウェイ侯爵。
周辺領の貴族たち。
若い後継者らしき者たち。
その中心には、見覚えのある盤が置かれていた。
リバーシだ。
俺が手土産として持ってきたものが、卓の上に広げられている。
白と黒の駒が、盤の上にいくつも並んでいた。
家令が説明書を手にしている。
周囲の者たちは、その盤を覗き込みながら、あれこれ言っていた。
「つまり、自分の色で相手の駒を挟めばよいのか」
「挟まれた駒は、裏返る」
「なるほど。ルールは分かりやすい」
「だが、置ける場所が限られるのだな」
ただの遊び道具として眺めているのではない。
すでに何人かは、盤面を真剣に見ていた。
トラウゼン侯爵が俺に気づき、手招きした。
「リオン殿。ちょうどよいところへ戻ってきた」
俺は人だかりの前へ進み、礼をした。
「何か、不明な点がございましたか」
「不明というより、面白くなってきたところだ」
トラウゼン侯爵は盤を見下ろしながら言った。
「このリバーシという遊戯、思ったより考えるな」
「ルールは簡単ですが、進め方によってかなり形が変わります」
「そのようだな」
侯爵は盤の隅を指した。
「ここに置いた駒は、挟まれにくいのか?」
「はい。角に置いた駒は、基本的に裏返されません」
「ほう」
周囲の貴族たちが、少し身を乗り出した。
ハーウェイ侯爵も盤を見ながら言う。
「つまり、角を取ると有利になるわけか」
「はい。かなり有利になります」
「ただ多く返せばよいわけではない、ということだな」
「その通りです。序盤に多く返しすぎると、かえって相手に良い場所を渡してしまうこともあります」
俺がそう説明すると、トラウゼン侯爵は楽しそうに目を細めた。
「なるほど。簡単に見えて、欲を出すと悪くなるわけだ」
「はい」
「それは面白い」
周囲から小さな笑いが起きた。
さっきまでの堅い笑いとは違う。
盤の上の一手に対して、自然に反応している笑いだ。
トラウゼン侯爵は、俺を見た。
「リオン殿。一局、相手をしてもらえるか」
「私でよろしければ」
「手土産に持ってきた本人が、どの程度できるのか見てみたい」
周囲の視線が、俺に集まった。
少し困った。
リバーシなら、俺はかなりできる。
前世で、かなりはまっていたからだ。
仕事の合間や、寝る前。
スマホで何度もリバーシを遊んでいた。
その感覚は、今でもかなり残っている。
だが、ここは勝ちを見せつける場ではない。
トラウゼン侯爵に、この遊びを楽しんでもらう場だ。
俺は席につき、盤を挟んでトラウゼン侯爵と向かい合った。
周囲の貴族たちが、少し距離を詰める。
ミラも近くに立って、盤を見ていた。
「では、始めましょう」
最初の数手は、穏やかに進んだ。
トラウゼン侯爵は慎重だった。
ただ駒を多く返す手には飛びつかない。
盤面を見て、何度か手を止める。
「ここに置けば、三つ返せる」
侯爵がそう言った。
「ですが、次にこちらへ置かれると、角に近い場所が空きます」
俺は盤の隅の一つ手前を指した。
「角の隣は、場合によっては危険です」
「なるほど。角を取らせる入口になるのか」
「はい」
トラウゼン侯爵は少し考えた後、別の場所に駒を置いた。
周囲から、感心したような声が漏れる。
「ただ返す数だけではないのだな」
「これは、思ったより難しい」
「だが、分かりやすい」
その声を聞きながら、俺は盤を進めた。
勝つだけなら、もっと早く形を作れる。
けれど、それでは面白さが伝わらない。
俺は侯爵が考えやすい形を残しながら、少しずつ有利な盤面を作っていった。
「ここで角が取れます」
中盤、俺はあえてそう言った。
「ほう。良いのか、教えてしまって」
「この遊戯は、角の大切さが分かってからの方が面白くなりますので」
「なるほど」
トラウゼン侯爵は嬉しそうに笑い、角に駒を置いた。
周囲から声が上がる。
「おお」
「これは強そうだ」
「もう裏返らぬのか」
「基本的には」
俺は頷いた。
「ですが、角を取っても、他の場所で崩れることはあります」
「では、油断はできないな」
「はい」
そこから、侯爵はさらに真剣になった。
盤の上をじっと見つめ、手を伸ばしかけては止める。
周囲の若い貴族たちも、思わず口を出しそうになっている。
だが、トラウゼン侯爵が手で制した。
「待て。これは自分で考えたい」
その言葉に、周囲が笑った。
夜会の場で、侯爵が盤を前に悩んでいる。
その姿に、貴族たちの表情も柔らかくなっていた。
終盤に入ると、俺は少しずつ逃げ道を狭めた。
侯爵もかなり善戦した。
だが、最後の数手で盤面は大きく変わる。
白と黒の数を確認する。
俺の勝ちだった。
「むう」
トラウゼン侯爵は盤を見下ろし、少し悔しそうに唸った。
だが、すぐに笑った。
「負けたか」
「ありがとうございました」
「いや、これは面白い。最初は単純な遊びかと思ったが、考えるほど深い」
トラウゼン侯爵は駒を一つ手に取り、裏表を返した。
「駒を返すだけで、ここまで流れが変わるとはな」
その時、ハーウェイ侯爵が口を開いた。
「トラウゼン殿。次は私が試してもよいかな」
「おお。ハーウェイ殿もやるか」
「見ているだけでは、どうにも落ち着かなくなってきた」
周囲から笑いが起きた。
ハーウェイ侯爵が席につく。
ミラが父親の横に立ち、盤を見た。
「父上、リオンはかなり強いと思います」
「それは先に言ってほしかったな」
ハーウェイ侯爵がそう言うと、さらに笑いが広がった。
俺は少し困りながら、駒を初期位置に戻した。
「では、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
ハーウェイ侯爵は、トラウゼン侯爵との対局を見ていた分、最初から慎重だった。
序盤に取りすぎない。
角の近くに不用意に置かない。
こちらが良い場所を取れないように、置ける場所を絞ってくる。
なるほど。
ただ見ていただけではない。
きちんと学んでいる。
「そこに置かれると、こちらは少し困ります」
俺が言うと、ハーウェイ侯爵は静かに笑った。
「困らせるために置いた」
「さすがです」
ただし、それでも盤面全体の読みでは俺の方が上だった。
前世のスマホで、何度も負け、何度もやり直した感覚がある。
相手が置きたい場所。
置きたくない場所。
終盤に残すべき場所。
それらが、自然に目に入る。
だが、ここでも一気に潰す必要はない。
俺はハーウェイ侯爵がリバーシの面白さを感じられるよう、いくつかの場面で説明を挟んだ。
「ここで多く返すこともできますが、そうすると次に置ける場所が減ります」
「なるほど。少なく返す方が良い場合もあるのか」
「はい。終盤までは、駒の数だけで判断しない方がよいことが多いです」
「これは、性格が出る遊戯だな」
ハーウェイ侯爵が言う。
トラウゼン侯爵が横から笑った。
「私は少し欲を出しすぎたようだ」
「私も今、出しかけていた」
周囲がまた笑う。
さっきまで互いに距離を測っていた貴族たちが、同じ盤を覗き込み、同じ一手に反応している。
若い後継者たちも、目を輝かせている。
「そこではないのか」
「いや、そこに置くと角が危ない」
「では、こちらか」
「挟めていない」
「難しいな」
声が重なる。
けれど、不快な騒がしさではない。
夜会の堅い空気が、盤を中心に少しずつ柔らかくなっていた。
ハーウェイ侯爵との対局も終盤に入った。
侯爵は最後まで崩れなかった。
しかし、残り数手で俺が角から辺を固めると、盤面が一気にこちらへ傾いた。
最後に駒を数える。
俺の勝ちだった。
「参ったな」
ハーウェイ侯爵は盤を見て、穏やかに笑った。
「これは、もう一局やりたくなる」
「分かる」
トラウゼン侯爵が頷いた。
「負けると悔しい。勝っても、次はもっと良い手がある気がする」
「そこが面白いところかと」
俺がそう言うと、トラウゼン侯爵は満足そうに頷いた。
「リオン殿。また面白い遊戯を考えたものだ」
「ありがとうございます」
「ただ珍しいだけではない。簡単に始められる。だが、考え始めると深い」
トラウゼン侯爵は周囲を見た。
そこには、年配の貴族も、若い後継者も、商会関係者らしき者もいた。
皆が同じ盤を見ている。
さっきまでのように、家ごとの距離だけで立っているわけではなかった。
ハーウェイ侯爵も頷く。
「冬の集まりには、ちょうどよいな。堅い話ばかりでは、人も疲れる」
「まったくだ」
トラウゼン侯爵が笑った。
その笑いに、周囲もつられる。
俺はその光景を見ていた。
交渉をしたわけではない。
何かを売り込んだわけでもない。
けれど、一つの盤を囲んだことで、場の空気が変わった。
相手を探る視線が、同じ一手を考える視線に変わる。
家の距離が、ほんの少しだけ近づく。
遊びには、そういう力もあるのかもしれない。
その後も、リバーシの盤の周りには人が集まり続けた。
トラウゼン侯爵とハーウェイ侯爵の対局を見ていた若い者たちが、今度は自分たちで試し始める。
年配の者が横から口を出す。
別の家の若者が、それに反論する。
そしてまた笑いが起きる。
夜会の終わりが近づく頃には、広間の空気は最初よりずいぶん柔らかくなっていた。
挨拶もあった。
探るような言葉もあった。
警戒の視線もあった。
だが、それだけではなかった。
同じ盤を囲み、同じ一手に驚き、悔しがり、笑う時間もあった。
トラウゼン侯爵が、最後に俺へ声をかけた。
「リオン殿。今夜は来てくれてよかった」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございました」
「父君にもよろしく伝えてくれ」
「ありがたく、父に伝えます」
侯爵は小さく頷いた。
「それと、このリバーシもなかなか良い。今夜の集まりを、良い形で締めてくれた」
「ありがとうございます」
夜会が終わりに近づき、客たちが少しずつ退出の準備を始める。
俺は広間を見渡した。
今日、俺は多くのものを見た。
好意。
警戒。
期待。
探るような言葉。
そして、堅い空気が一つの盤を囲んで柔らかくなる瞬間。
外との付き合いは難しい。
言葉一つにも気をつけなければならない。
自分の名前が、自分の知らないところで広がっている怖さも知った。
けれど、ただ怖いだけではない。
人が集まり、話し、笑う瞬間もある。
ハル家の外側にある世界は、思っていたよりずっと複雑だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
続きが気になったら、ブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




