第311話 広がっていた噂
夜会は続いていた。
広間の中では、あちらこちらで短い挨拶と会話が交わされている。
笑顔。
礼。
軽い冗談。
探るような質問。
一見すると穏やかな場だ。
けれど、そこにある言葉のすべてが、そのままの意味とは限らない。
俺はトラウゼン侯爵に紹介された後、周辺領の貴族たちと順に挨拶を交わしていた。
「ハル家のリオン殿ですか。王立学院でお名前を聞いたことがあります」
「首席で入学されたとか」
「一年から三年へ飛び級で進まれたと聞いております」
「三年でも、ずいぶん良い成績を収めておられるそうですな」
どこへ行っても、似たような話が出る。
最初のうちは、王立学院のことだけだと思っていた。
だが、それだけではなかった。
「王のローヴェル伯爵領行きにも同行されたとか」
「青輝石を灯りに活用する方法を考えられたのは、リオン殿だと聞いております」
「ハル領の街灯は、周辺の領にも評判が届いておりますよ」
「領西部の未開の森を開いているという話も耳にしました。若いのに大したものですな」
次から次へと、俺の知らないところで広がった話が出てくる。
ローヴェル伯爵領のことまで知っている者がいるとは思わなかった。
青輝石。
街灯。
西の森。
どれも確かに俺が関わったことではある。
だが、俺一人で成し遂げたことではない。
「いえ。私一人で進めたものではありません」
俺は何度もそう答えた。
「父や領の者たちが支えてくれています」
「まだ整えている途中です」
「周囲に恵まれているだけです」
相手は笑っている。
けれど、その笑顔の奥には、それぞれ違うものがある。
好意。
興味。
警戒。
値踏み。
期待。
同じ言葉で近づいてきても、意味は同じではない。
何人かと挨拶を終えたところで、少し会話が途切れた。
俺は広間の端へ移動し、エリアスに小声で聞いた。
「エリアス」
「はい」
「俺のことは、そんなに知られているのか」
エリアスは少し考えてから、静かに答えた。
「恐れながら、リオン様のなさっていることは、同世代の貴族の方々と比べても規格外です」
「規格外……」
「王立学院への主席入学。一年から三年への飛び級。その上での成績。
さらに、王のローヴェル伯爵領行きへの同行、青輝石を灯りに活用する工夫、街灯の整備、西の森の開拓」
エリアスは、言葉を選ぶように続けた。
「それらが個別に伝わるだけでも十分に目立ちます。
それが一人の方の名に結びついているのですから、噂が広まるのも致し方ないかと」
「そんなつもりはなかったんだけどね」
「承知しております。ですが、外から見れば、意図とは別に名は広がります。
良いことも、悪いことも」
エリアスの声は、いつも通り落ち着いていた。
「名が知られることは、悪いことばかりではありません。
話を聞いてもらいやすくなります。ただし、その分、期待も警戒も集まります」
期待と警戒。
俺は広間の人々を見た。
笑顔で近づいてくる者。
褒めるような言葉をかける者。
何気なく探るように質問してくる者。
その全部が、同じ意味とは限らないのだ。
「外に出ると、こうなるんだな」
俺がそう言うと、エリアスは小さく頷いた。
「はい。領内で起きたことも、商会や来客、学院での話を通じて外へ伝わります。
こちらが思うより早く、形を変えて広がることもあります」
「形を変えて、か」
「はい。正確に伝わるとは限りません。誰かの期待や都合が混ざることもあります」
それは少し怖いことだと思った。
領内では、一つ一つの現場が見える。
誰が動いたか。
どこで困ったか。
何を直したか。
細かい流れを知ることができる。
だが、外では違う。
複雑なものが、分かりやすい話にまとめられる。
青輝石を灯りに使った。
街灯を作った。
西の森を開拓した。
学院で飛び級した。
それらが全部、俺の名前に集まってくる。
自分で思っている以上に、俺は見られているのかもしれない。
「エリアス、少し外の空気を吸ってきてもいいか?」
エリアスが広間の方を見てから、静かに言った。
「長く離れすぎなければ、問題ないかと。今のうちに少し休まれるのもよろしいかもしれません」
俺は小さく息を吐いた。
「では、少しだけ外に出るよ。長くは離れない」
「お願いします」
広間の横にある扉から、外へ出る。
そこは庭に面したベランダだった。
冷たい空気が肌に触れる。
広間の灯りと音が、扉を一枚隔てただけで少し遠くなる。
庭には小さな灯りが並び、冬の木々の影が静かに伸びていた。
俺は手すりの近くまで歩き、ゆっくり息を吐いた。
疲れた。
ただ、笑い、礼をし、言葉を選び、相手の目を見ていただけだ。
それなのに、頭の奥が重い。
「やっぱり、疲れていたのね」
後ろから声がした。
振り向くと、ミラがいた。
広間の灯りを背に、少しだけ笑っている。
「ミラ」
「少し外に出るのが見えたから」
「見られていたのか」
「ええ。リオン、顔に出やすいもの」
「そんなに?」
「学院では、もう少し分かりやすいわ。今日はかなり頑張って隠している方ね」
それは褒められているのかどうか分からない。
だが、ミラの声を聞くと、少しだけ気が楽になった。
「正直に言うと、かなり疲れた」
「でしょうね」
ミラは隣に来て、広間の方を少し振り返った。
「ああいう場は、慣れていても疲れるもの。
リオンみたいに、全部真面目に受け止める人ならなおさらよ」
「真面目に受け止めすぎなのかな」
「悪いことではないわ。でも、全部を正面から受け止めていたら疲れるわよ」
「それは、今日よく分かった」
俺はベランダの手すりに目を向けた。
広間からは、まだ話し声と音楽が聞こえてくる。
あの中に戻れば、また笑顔と挨拶が続く。
「ミラ」
「何?」
「俺のことは、そんなに噂になっているのか」
ミラは少しだけ目を丸くした後、すぐに納得したように頷いた。
「今日、何度も言われたのね」
「ああ。いろいろ知られていた」
「それは知られるわよ」
ミラはあっさり言った。
「リオン、自分で思っているよりずっと目立っているもの」
「目立っているつもりはないんだけどね」
「だから余計に目立つのかもしれないわね」
「どういうこと?」
「目立とうとしている人は、周りもそういう目で見るでしょう。
でも、リオンはそうじゃないのに、結果だけ見ると目立つことをしているの」
ミラは指折り数えるように言った。
「王立学院に主席で入る。一年から三年へ飛び級する。
三年でも上位を取る。領では青輝石や街灯、西の森の開拓にも関わっている。
王のローヴェル伯爵領行きにも同行している」
「並べられると、落ち着かないな」
「落ち着かないでしょうね」
ミラは少し笑った。
「でも、それが外から見たリオンよ」
外から見た俺。
自分の中では、一つ一つ目の前の問題に向き合ってきただけだった。
学院で勉強した。
父上の体調を支えるために領のことを見た。
青輝石を使って灯りを考えた。
街灯を整えた。
西の森の問題に取り組んだ。
だが、外から見ると、それらは一つの名前につながっている。
リオン・ハル。
その名前が、俺の知らないところで広がっている。
「父も、あなたには興味津々よ」
ミラが言った。
「ハーウェイ侯爵が?」
「ええ。学院での話も聞いているし、ハル領の話も耳にしているもの。
今日あなたに会うのを、楽しみにしていたと思うわ」
「それは、少し困るな」
「でしょうね」
ミラは楽しそうに笑った。
「リオン、注目されるのは得意じゃなさそうだもの」
「得意ではないね」
「でも、知られていること自体は悪いことばかりではないわ」
ミラは少し真面目な声になった。
「エリアスにも同じことを言われた」
「エリアスさんは、よく見ている方ね」
「ああ。助かっている」
「期待している人もいる。警戒している人もいる。
面白がっている人もいる。
全部、同じような笑顔で近づいてくるから、少し面倒なの」
「……本当に面倒だね」
「ええ。面倒よ」
ミラはあっさり言った。
その言い方が、少しおかしかった。
「ミラは慣れているのか」
「慣れているというより、そういうものだと思っているわ。
侯爵家の娘として人前に出れば、相手はこちらだけを見るわけではないもの。
父のこと、家のこと、昔からの関係、これからの利害。
いろいろなものを重ねて見てくる」
「学院とは違うね」
「違うわ。でも、学院での関係が消えるわけでもない」
ミラは俺を見た。
「私はリオンを学院の友人として見ている。でも、ここではハーウェイ侯爵家の娘としても話している。どちらか一つだけではないの」
「難しいな」
「そうね。でも、リオンなら分かると思うわ」
「どうして?」
「あなたは、相手を一つの役割だけで見ようとしないから」
そう言われて、俺は少し黙った。
そんなつもりはなかった。
ただ、領の中で人を見る時に、役職だけでは分からないことが多かった。
レナードは西の森を整える文官だ。
だが、それだけではない。
真面目で、失敗を恐れながら、それでも人の暮らしを考えて動く人だ。
エリアスは帳面を見る文官だ。
だが、数字だけではなく、その先にある領都や取引を見ている。
ノルは護衛だ。
だが、危険を見つけるだけでなく、人が安全に暮らすための道を見ている。
ミアは使用人だ。
だが、俺の様子を誰よりよく見ている。
人は、肩書きだけではない。
けれど、外の場では肩書きも無視できない。
その両方を見なければならない。
「リオン」
ミラが少し柔らかい声で言った。
「全部を一度に分かろうとしなくていいわ。今日は初めてでしょう?」
「ああ」
「なら、疲れて当然よ」
「少し安心した」
「安心していいわ。ただし、戻ったらまた少し笑顔を作る必要はあるけれど」
「やっぱり戻らないといけないか」
「もちろん。ハル家の代理でしょう?」
「そうだった」
俺が苦笑すると、ミラも笑った。
その時、広間の方から少し大きな笑い声が聞こえた。
続いて、驚いたような声。
誰かが楽しそうに何かを言っている。
それまでの落ち着いた夜会の空気とは、少し違う。
人が一か所に集まり、声が弾んでいるような気配だった。
ミラが広間の方を見た。
「何かしら」
俺も扉の向こうへ視線を向ける。
さっきまでとは違う種類の盛り上がり。
何が起きているのだろう。
その声の中心に何があるのか。
その時の俺は、まだ知らなかった。
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