第310話 冬の集まり
控えの部屋に戻ってから、しばらく時間があった。
夜の集まりが始まるまで、まだ少しあるらしい。
窓の外は、少しずつ暗くなり始めていた。
トラウゼン侯爵家の庭には、ところどころに灯りがともっている。
屋敷の廊下からは、使用人たちが行き来する気配が伝わってきた。
食器の触れ合う音。
誰かが小声で指示を出す声。
遠くから聞こえる楽器の音。
昼間の屋敷とは、空気が変わっている。
いよいよ、冬の集まりが始まるのだ。
「リオン様。襟元は大丈夫です」
ミアが俺の前に立ち、服装を確認してくれた。
「袖も乱れていません。手袋も問題ありません」
「ありがとう」
「目線も、落ちていません」
「そこまで見るんだね」
「奥様から、よく見るようにと言われていますので」
ミアは真面目な顔でそう言った。
母上らしい。
エリアスは、机の上に置いた目録を閉じた。
「リオン様。今夜は、こちらから取引の話を持ち出す必要はありません」
「ああ。分かっている」
「ただ、青輝石、街灯、青葉草について尋ねられる可能性は高いかと」
「その時は、答えすぎない」
「はい。詳しい話は、父上や担当の者と相談の上で、と留めてよろしいかと思います」
エリアスは落ち着いている。
こういう時、文官が一人いるだけでかなり違う。
俺が答えすぎそうになれば、後ろで気づいてくれるだろう。
「それと、グレイヴ伯爵領の話が出た場合ですが」
エリアスが少し声を落とした。
「こちらから深く踏み込まない方がよろしいかと」
「分かった」
「関係が良くないことは、周辺領にもある程度知られているはずです。
ですが、この場で不満を口にする必要はありません」
「母上にも言われたよ。他家の悪口や不仲は口にしないようにって」
「奥様のおっしゃる通りです」
ノルは部屋の扉近くに立っていた。
「私は広間の出入口と護衛の位置を確認します」
「頼む」
「リオン様は、私から見える範囲にいてください」
「できるだけそうする」
「できるだけではなく、お願いします」
ノルはいつもの調子で言った。
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
やがて、家令が控えの部屋へやって来た。
「リオン様。夜の集まりの準備が整いました。ご案内いたします」
「ありがとうございます」
俺は立ち上がった。
ミアが一歩下がり、エリアスが書簡袋を持つ。
ノルが扉の外を確認する。
俺は一度だけ息を吐いた。
父上と母上の言葉を胸の中で繰り返してから、俺は家令の後に続いた。
廊下を歩く途中、すでに何人かの貴族や従者とすれ違った。
家紋の入った上着。
落ち着いた色のドレス。
後ろに控える従者。
話し声はあるが、大きな声はない。
誰もが、自分の立つ位置と相手との距離を分かっているように見える。
俺はそれを見ながら、父上の言葉を思い出していた。
誰が誰と話しているか。
どの話題で空気が変わるか。
どの家が重く扱われているか。
広間に入る前から、見るべきものは多い。
大きな扉の前で、家令が立ち止まった。
「こちらでございます」
扉が開かれる。
広間の中から、明るい光と人の声が流れてきた。
俺はゆっくりと中へ入った。
高い天井。
壁沿いに並ぶ灯り。
中央で話す貴族たち。
端に控える使用人。
飲み物を運ぶ者。
奥では、小さな楽団が静かに音を奏でている。
料理の香りもする。
だが、食事を楽しむだけの場ではない。
人が集まり、話し、互いの様子を探る場だ。
トラウゼン侯爵家に近い位置で話す家。
少し距離を置いて様子を見ている家。
商会関係者らしき者と自然に言葉を交わしている家。
若い者を連れて、別の家に紹介して回っている家。
ただ人が集まっているわけではない。
ここにも、見えない道がある。
街道を扱うトラウゼン侯爵家の屋敷らしく、人の流れにも秩序があった。
「リオン様」
エリアスが小声で言った。
「あちらが、街道沿いの宿場を持つ子爵家です。
向こうにいらっしゃるのは、王都方面へ麦を運ぶ商会と関わりの深い男爵家かと」
「よく分かるね」
「家紋と、立っている位置である程度は」
そういう見方があるのか。
俺は会場をもう一度見た。
服装や顔だけではない。
誰がどこに立っているか。
誰と話しているか。
どこへ自然に人が集まっているか。
それらも情報なのだ。
その時、広間の少し奥に、見覚えのある姿を見つけた。
ミラだった。
王立学院で見る時とは違う。
夜会用の衣装を身につけ、背筋を伸ばし、父親らしき男性のそばに立っている。
いつものように近い距離で話しかけてくるミラではない。
ハーウェイ侯爵家の令嬢として、そこにいる。
俺が少し驚いていると、ミラもこちらに気づいた。
目が合う。
ほんの一瞬、学院で見る時の表情になった気がした。
だが、すぐにミラは父親の方へ顔を向け、何かを小さく伝えた。
父親らしき男性がこちらを見る。
ミラはその隣に並び、礼儀を整えた歩き方でこちらへ来た。
「リオン」
ミラはいつものように俺の名を呼んだ。
けれど、すぐに少しだけ表情を整える。
「リオンも来ていたのね」
「ああ。父上の代理で来ている」
「ミラも来ていたんだね」
「ええ。トラウゼン侯爵家とは、昔から家族ぐるみの付き合いがあるの」
トラウゼン侯爵とハーウェイ侯爵は、ただの主催者と招待客ではない。
もっと近い関係なのだろう。
ミラの隣にいた男性が、穏やかに笑った。
「君がリオン・ハル殿だね」
「はい。リオン・ハルです」
俺は姿勢を正して頭を下げた。
「ハーウェイ侯爵閣下にお目にかかれて光栄です」
「娘から、王立学院での話は聞いている」
ハーウェイ侯爵はそう言った。
声は穏やかだが、トラウゼン侯爵とはまた違う落ち着きがある。
「ミラが学院でお世話になっているようだ」
「いえ。こちらこそ、ミラさんには多く助けられています」
これは本当だ。
学院では、ミラの明るさや距離の近さに助けられることが何度もあった。
だが、この場では言い方に気をつけなければならない。
友人を軽く扱ってはいけない。
家の名を背負う相手としても、失礼があってはいけない。
ハーウェイ侯爵は、俺の返答を聞いて小さく頷いた。
「今日はハル家の代理として来られたとのこと。若いのに大役だな」
「まだ学ぶことばかりです」
「なるほど」
ハーウェイ侯爵は少し笑った。
「トラウゼン侯爵が君に興味を持つのも分かる」
俺は一瞬、返答に迷った。
興味を持つ。
それは、良い意味だけとは限らない。
俺がどう答えるかを見られている気がした。
「ありがたいことです。ですが、まだ至らぬことばかりです」
「慎重だな」
ハーウェイ侯爵はそう言って、楽しそうに目を細めた。
ミラが横で少しだけ笑っている。
学院なら、もっと気軽に言葉を返していただろう。
だが、ここは学院ではない。
ミラも、俺も、それぞれの家の名を背負ってここにいる。
「リオン」
ミラが少し声を落とした。
「あとで少し話しましょう。
夜会の間は、あまり長く一人の相手と話しすぎない方がいいから」
「ああ。ありがとう」
「リオン、こういう場で器用に立ち回るのは苦手そうだもの。無理に慣れているふりをしなくていいわ」
ミラはそう言って、少しだけいたずらっぽく笑った。
いつものミラの顔が、少し戻った。
そのことに、俺は少し安心した。
ハーウェイ侯爵とミラが離れていくと、エリアスが小声で言った。
「ハーウェイ侯爵家とトラウゼン侯爵家は、かなり近いようですね」
「ああ。ミラも、昔から家族ぐるみの付き合いがあると言っていた」
「今夜、その関係が見える場面は多いかもしれません」
「見るようにする」
俺は広間を見渡した。
さっきより、少しだけ見え方が変わっていた。
学院の友人も、ここでは家の名を背負っている。
そして俺も同じだ。
ただの学院生ではない。
ハル家の嫡男として、この場に立っている。
父上が言っていた言葉を思い出す。
友人を取引の道具のように見てはいけない。
ミラは友人だが、この場ではハーウェイ侯爵家の令嬢でもある。
そこを間違えないようにしなければならない。
その後、トラウゼン侯爵が俺を周囲の数人に紹介してくれた。
「ハル家のリオン殿だ。父君の代理として来られた」
周囲の視線が、俺に向く。
好奇心。
探るような目。
少しだけ警戒するような空気。
それらが混ざっている。
「王立学院で名を聞いたことがありますな」
年配の男が言った。
「一年から三年へ進まれたとか」
「ありがたいことに、先生方と周囲に恵まれています」
俺は落ち着いて答えた。
「まだ学ぶことばかりです」
「ほう。若いのに謙虚ですな」
相手の口元は笑っていたが、目は笑っていない。
こういう場では、褒め言葉もただの褒め言葉ではない。
俺はそれ以上、自分の成績の話を広げなかった。
次に、青葉草の話をする者がいた。
「王都でも、青葉草の香りが評判だと聞いております」
「ありがとうございます。まだ生産量や品質を整えている途中です」
「ハル領では、ずいぶん新しいものが出てきますな」
「領の者たちがよく動いてくれています」
自分の手柄のようには言わない。
父上と母上、レナード、エリアス、マリウス、工房の者たち。
俺一人で動かしているわけではない。
別の家の者は、街灯に興味を示した。
「街灯の話はこちらにも届いております。
宿場の夜道にも使えるものなのでしょうか」
「場所や管理の仕方によると思います。
ハル領でも、設置して終わりではなく、点検や部品交換まで含めて考えています」
「なるほど。明かりだけでなく、管理も必要ということですか」
「はい。長く使うなら、そこまで考える必要があると思います」
答えながら、俺は相手の反応を見た。
興味を持っている。
だが、今すぐ話を進めたいわけではなさそうだ。
この場では、話題として触れているだけ。
深入りしない。
その距離を間違えないようにする。
少し離れた後、エリアスが小声で言った。
「今の返答は良かったかと。売り込みには聞こえませんでした」
「それならよかった」
「相手は宿場の夜道に関心があるようでした。
後日、正式に話が来る可能性はあります」
「覚えておこう」
会場の中を見ているうちに、ふと気づいた。
グレイヴ伯爵領の者が見当たらない。
ハル家とは関係が良くない家。
この周辺領の集まりなら、来ていてもおかしくないのではないか。
「エリアス」
「はい」
「グレイヴ伯爵領の者は来ていないのかな」
エリアスは会場を静かに見回した。
「招待は出ているはずです。ただ、近年はご当主もご嫡男も出席されていないと聞いております」
「そうなのか」
「はい。形式的な返礼だけで済ませているようです」
来ていない。
それも、情報だ。
この集まりは、周辺領の家々が顔を合わせる場だ。
春以降の通行や物資の流れについて、互いの様子を知る場。
そこに来ていないということは、輪の外にいる、あるいは距離を置いているということでもある。
ハル家との関係が悪いだけではないのかもしれない。
だが、今ここで深く考えすぎても仕方がない。
俺は小さく頷くだけにした。
「来ている家だけでなく、来ていない家も見る必要があるんだね」
「その通りかと」
エリアスが静かに答えた。
しばらくすると、広間の一角で小さな笑い声が上がった。
見ると、トラウゼン侯爵が数人の客に何かを話している。
家令が、俺たちの持ってきたリバーシの箱を近くの卓に置いていた。
「ハル家から、面白い遊び道具をいただいた」
侯爵の声が少し聞こえた。
「遊び道具ですか」
「リバーシというらしい。簡単な説明書も添えてある」
周囲の者たちが興味深そうに箱を見ている。
まだ実際に遊ぶわけではない。
だが、リバーシはすでに話題になり始めていた。
母上の言葉を思い出す。
物だけではなく、相手の家で過ごす時間を贈るもの。
会話のきっかけを贈るもの。
少なくとも、その役割は果たし始めているらしい。
俺は少しだけ安心した。
夜会は続いていく。
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