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45歳社長、転生先でハズレスキル「綻びの目」を武器に没落領地を再建する  作者: アカメノコバチ
第14章 王立学院三年 二学期

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第308話 トラウゼン侯爵領へ

 トラウゼン侯爵領へ向かう朝、屋敷の中はいつもより少しだけ慌ただしかった。


 馬車の準備。


 護衛の確認。


 持っていく書簡と手土産の確認。


 そして、俺の服装の確認。


「リオン。襟元が少し曲がっています」


 母上がそう言って、俺の襟元を直した。


「はい」


「袖も、もう少し整えましょう」


「はい」


「返事は短くてもいいけれど、投げやりに聞こえてはいけません」


「……はい」


 俺が少しだけ苦笑すると、母上も小さく笑った。


「緊張しているの?」


「していない、と言えば嘘になります」


「それでいいわ。緊張していることを自分で分かっているなら、まだ大丈夫です」


 母上は俺の上着の肩を軽く払った。


 今日はハル家の嫡男として、父上の代理で他家の集まりへ向かう日だ。


 応接室の机の上には、完成したリバーシが置かれていた。


 工房で仕上げられたものだ。


 試作品とは違い、盤の線は細く彫り込まれている。


 表面は丁寧に磨かれ、手で触れても引っかかりがない。


 駒は丸く形がそろえられ、片面は木の白さを残し、もう片面はきれいに焼かれて黒くなっている。


 駒と盤を収める箱も作られていた。


 箱の隅には、小さくハル家の紋章が入っている。


 大きすぎず、小さすぎず。


 母上の言う通り、控えめに。


 その横には、エリアスが整えた遊び方の説明書も添えられていた。


「余り材から作ったとは思えませんね」


 ミアが箱を見ながら言った。


「工房長たちが丁寧に仕上げてくれたからね」


「きっと、トラウゼン侯爵家の方々にも喜んでいただけると思います」


「そうだといいけど」


 俺はリバーシの箱を見つめた。


 青輝石の卓上灯のように高価ではない。


 青葉草のように食べればなくなるものでもない。


 街灯のように、何かを売り込むものでもない。


 遊ぶ時間と、会話のきっかけを贈るもの。


 母上がそう言っていた。


 そう考えると、この箱がただの木箱ではなく、少し違って見える。


「リオン様」


 ミアが小さな声で言った。


「今日は、浮かずにお願いいたしますね」


「……今日は浮かないよ」


「本当ですね?」


「本当だよ」


 小声でそんなやり取りをしていると、母上がこちらを見た。


「何か言ったかしら」


「いえ。何でもありません」


 ミアがすぐに答えた。


 俺も黙って頷く。


 母上は少しだけ不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。


 危なかった。


 屋敷の玄関前では、馬車が用意されていた。


 ノルが護衛の確認をしている。


 エリアスは書簡と贈り物の目録を見直していた。


 今日の同行者は、ノル、エリアス、ミア。


 ノルは護衛として。


 エリアスは書簡や贈り物、相手との距離感を見るため。


 ミアは俺の身の回りと、手土産や荷物の補助として同行する。


 俺一人で行くわけではない。


 そう思うだけで、少しだけ心が落ち着いた。


「リオン様」


 エリアスが頭を下げた。


「書簡、贈り物の目録、手土産の説明書、すべて確認済みです」


「ありがとう、エリアス」


「リバーシについては、尋ねられた場合に簡単にご説明できるよう、私も内容を確認しております」


「助かる」


 エリアスは控えめに頷いた。


 その横で、ノルが俺を見た。


「護衛は二名、馬車の前後につけます。私は馬車の近くに控えます」


「分かった。頼む」


「はい」


 ノルの返事はいつも通り短い。


 だが、その短さが今はありがたい。


 余計な言葉がない分、安心できる。


 出発前に、俺は父上の部屋へ向かった。


 父上は椅子に座っていた。


 以前より顔色は戻っているが、まだ長く外へ出るのは難しい。


 だから今日は、俺が代理で行く。


「父上。行ってまいります」


 俺が頭を下げると、父上はゆっくり頷いた。


「うむ」


 母上も後ろに立っている。


 父上は俺をしばらく見てから言った。


「リオン。今回は何かを決めに行く必要はない」


「はい」


「相手の言葉を聞け。分からないことを、分かったふりするな」


「はい」


「そして、見てこい。誰が誰と話しているか。どの話題で空気が変わるか。どの家が重く扱われているか」


 母上と同じことを言われた。


 俺は背筋を伸ばす。


「礼を尽くし、場を見る。そうですね」


「そうだ」


 父上は少しだけ口元を緩めた。


「それができれば十分だ」


「はい。ハル家の嫡男として、行ってまいります」


「気負いすぎるな」


 父上はそう言った。


「おまえは一人で行くのではない。ノルも、エリアスも、ミアもいる。困った時は、周りを見ろ」


「はい」


 俺はもう一度頭を下げた。


 父上の部屋を出ると、母上が俺の隣に並んだ。


 廊下を歩きながら、母上は静かに言った。


「リオン。覚えているわね」


「交渉に行くのではない。礼を尽くし、話を聞き、場を見る」


「ええ。それから、言葉を急がないこと」


「はい」


「使用人にも失礼のないように」


「はい」


「贈り物は押しつけないこと」


「はい」


 母上は俺を見て、少し笑った。


 玄関前に戻ると、ミアが荷物の最終確認をしていた。


 リバーシの箱は布に包まれ、別の箱に丁寧に収められている。


 説明書も一緒だ。


 エリアスが目録に印をつける。


「すべて積み込みました」


「ありがとう」


 母上はミアに向き直った。


「ミア。リオンをお願いね」


「はい。奥様」


 ミアは深く頭を下げた。


「必ずお側でお支えいたします」


 その言葉を聞いて、少し胸が温かくなった。


 母上は俺だけを送り出すのではない。


 ミアにも俺のことを託している。


 俺は、本当に一人で行くわけではないのだ。


「行ってまいります」


 俺がそう言うと、母上は穏やかに頷いた。


「行ってらっしゃい。気をつけていってくるのよ」


「はい」


 俺は馬車に乗り込んだ。


 中にはエリアスとミアが乗る。


 ノルは外で護衛につく。


 馬車がゆっくり動き出した。


 屋敷が少しずつ遠ざかる。


 窓の外に、見慣れたハル領の景色が流れていく。


 冬の畑。


 道沿いの木々。


 遠くに見える領都の屋根。


 西の森へ向かう道とは違う。


 王都方面へ伸びる街道。


 トラウゼン侯爵領へ続く道だ。


「リオン様」


 エリアスが静かに口を開いた。


「トラウゼン侯爵領は、王都方面への道として重要な位置にあります」


「ああ」


「今後も関わることが増える可能性があります。ただ、現時点で関係が深いわけではありません」


「だから、今日はいきなり踏み込まない」


「はい。それが良いかと」


 エリアスの言葉は落ち着いていた。


 帳面を見る時と同じように、相手との距離も慎重に見ている。


「トラウゼン侯爵家は、どのような家なのかな」


「王都方面の街道を押さえる家ですので、通行、商会、宿場、馬車の管理などに強いです。

古くからの家で、格式もあります」


「格式か」


「はい。ですので、礼儀には特に気をつけた方がよろしいかと」


 また礼儀だ。


 思わず息を吐きそうになったが、途中で止めた。


 言葉を急がない。


 息を急がない。


 母上の声が頭に浮かぶ。


 ミアが俺の様子に気づいたのか、小さく微笑んだ。


「リオン様、大丈夫です」


「そう見える?」


「少し緊張していらっしゃいます」


「隠せていないか」


「はい」


 正直だ。


 だが、ミアらしい。


「でも、母上様の稽古をちゃんと受けていらっしゃいましたから」


「直されてばかりだったけどね」


「直されても続けることが大切なのだと思います」


 そう言われると、少しだけ肩の力が抜けた。


 ◇


 翌日も馬車はゆっくり進んでいく。


 やがて、道沿いの景色が少し変わった。


 ハル領の見慣れた畑や村から、少しずつ他領へ向かう街道の雰囲気に変わっていく。


 道幅が広くなり、行き交う荷馬車の数も増えた。


 商会の荷を積んだ馬車。


 旅人を乗せた馬車。


「ここから先は、トラウゼン侯爵領になります」


 エリアスが言った。


「馬車の数が増えましたね」


 ミアが窓の外を見ながら言う。


「王都方面へ向かう道だからね」


「はい。人と荷が通る道を押さえていることが、トラウゼン侯爵家の強みです」


 エリアスが補足した。


 人と荷が通る道。


 ハル領も、これから外とのつながりが増えていく。


 父上が苦手だと言っていた外との付き合い。


 その一つ目の場に、俺は向かっている。


 馬車の揺れが、いつもより少し大きく感じた。


 ◇


 その日はトラウゼン侯爵領都内の宿に泊まった。


 翌朝、領都の中央通りをしばらく進むと、遠くに大きな屋敷の屋根が見えてきた。


 高い塀。


 整えられた道。


 門の前に立つ人影。


 エリアスが静かに言った。


「リオン様。間もなく、トラウゼン侯爵家の屋敷です」


 俺は窓の外を見た。


 トラウゼン侯爵家か。


 膝の上の手を一度だけ握る。


 そして、ゆっくり息を吐いた。


 まずは、礼を尽くす。


 そして、見る。


 父上と母上の言葉を胸に、俺は侯爵家の門を見つめた。



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