第306話 浮遊魔法の練習
母上の礼儀稽古は、翌日も続いた。
母上は優しい。
けれど、決して甘くはない。
「今の言い方は少し事務的です」
「目線が落ちすぎています」
「そこは、もう少し短くていいわ」
「急がないこと。言葉を急ぐと、相手も落ち着かなくなります」
何度も直されるうちに、体ではなく頭の奥が疲れてきた。
剣を振ったわけではない。
魔法を使ったわけでもない。
ただ、立ち、歩き、頭を下げ、言葉を選んでいるだけだ。
それなのに、妙に疲れる。
夕方近くになって稽古が終わると、俺は自室に戻らず、屋敷の裏庭へ向かった。
気分転換がしたかった。
屋敷の裏庭は、表の庭ほど手入れされていない。
冬の草が低く残り、古い木が何本か立っている。
屋敷の者が頻繁に通る場所ではないが、まったく人が来ないわけでもない。
だから俺は、周囲に人の気配がないことを確認してから、木々の陰になる場所へ移動した。
転移魔法ほどではないにしても、浮遊魔法を人前で使うのは避けたい。
人が空に浮くところを見られれば、騒ぎになる。
それに、母上に見つかれば、きっとこう言われる。
礼儀稽古の後に、なぜ屋敷の裏庭で浮いているのですか、と。
その説明は、少し面倒だ。
「気分転換に少しだけ浮こう」
誰に言うでもなく、俺は小さくつぶやいた。
俺は足元に魔力を流した。
地面を押すのではなく、自分の体を下から支える感覚。
強すぎると上がりすぎる。
弱すぎると落ちる。
体の前側に魔力が寄れば前のめりになり、後ろに寄れば仰け反る。
何度も失敗して、ようやく少しずつ分かってきた。
魔力を薄く広げる。
足元だけではなく、腰のあたりまで支える。
体の中心を意識する。
ゆっくりと息を吐く。
ふわりと、足が地面から離れた。
冬の草が少し遠くなる。
視線の高さが変わる。
地面から離れる感覚は、何度味わっても少し不思議だ。
俺は人ひとり分ほどの高さで止まった。
ここまでは、もう大きく崩れない。
問題は移動だ。
前へ進もうとして、少しだけ魔力の流れを傾ける。
体がゆっくり前へ動いた。
歩くよりも遅い。
走ることなど到底できない。
だが、足を動かさずに空中を進む感覚は、やはり面白い。
裏庭の木の間を、ゆっくりと移動する。
枝に近づきすぎないように、少し右へ。
今度は左へ。
止まろうとすると、体が少し揺れる。
「……止まる方が難しいな」
動くよりも、止まる方が難しい。
力を抜きすぎると下がる。
止めようとしすぎると、逆に揺れる。
俺は軽く眉を寄せた。
何事も、ちょうどよくが一番難しい。
母上の声が頭の中で響いた気がした。
前に出しすぎると、押しつけがましく見える。
控えすぎると、自信がないように見える。
礼儀の話だったはずなのに、浮遊魔法にも同じことが言える。
「結局、加減か」
母上の稽古から逃げるように裏庭へ来たはずなのに、ここでも同じことを考えている。
少しおかしくなって、俺は小さく笑った。
もう一度、ゆっくり進む。
今度は木の周りを回るように移動した。
速さはない。
だが、これなら高い場所を確認する時や、足場の悪い場所を越える時には使えるかもしれない。
川を渡るにはまだ危ない。
人を抱えて移動するのも無理だ。
けれど、自分一人が少し浮いて移動するだけなら、使い道はある。
たとえば、西の森で高い場所から住宅区画を見る。
道や排水の流れを確認する。
あるいは、荷車が通れない場所を少し越える。
戦闘で使うには遅すぎる。
だが、逃げる時や落下を防ぐ時には役に立つかもしれない。
そう考えたところで、俺は首を振った。
今は、そこまで考えなくていい。
今日は気分転換のつもりだった。
俺は体を少し上げた。
木の枝の高さより少し下。
いつもならここで止める。
これ以上上がると、落ちた時が怖い。
けれど、少しだけ試したくなった。
もう少しだけ。
魔力を少し強める。
体がふわりと上へ動く。
その瞬間、横から弱い風が吹いた。
「うわっ」
体が少し流れた。
慌てて魔力を戻す。
だが、戻しすぎた。
体が斜めに傾き、足が空中でばたつく。
情けない姿勢のまま、俺はゆっくり落ちた。
幸い、高さはそれほどない。
地面に片足をつき、少しよろける程度で済んだ。
「危ない……」
思わず息を吐く。
調子に乗ると、すぐこれだ。
浮けるようになったとはいえ、まだ安定しているとは言えない。
高く上がるより、低い位置で確実に動ける方が大事だ。
俺はもう一度、地面に立ったまま呼吸を整えた。
「もう一回」
俺は再び魔力を流した。
今度は、さっきより低く。
人ひとり分の高さ。
そこからゆっくり前へ進む。
右へ。
左へ。
止まる。
少し下がる。
もう一度止まる。
魔力を強く出すのではなく、薄く広げる。
体の中心をずらさない。
視線を落としすぎない。
目線が落ちすぎています。
また母上の声が頭に浮かんだ。
俺は苦笑しながら、前を見た。
社交の稽古でも、浮遊魔法でも、目線は大事らしい。
前を見る。
焦らない。
急がない。
ゆっくりでいい。
そう思いながら、俺は裏庭の端から端まで、ゆっくりと浮いて移動した。
地面に足はついていない。
けれど、今度は大きく揺れなかった。
最後に、木のそばで静かに止まる。
数秒。
ただ浮かんでいるだけの数秒。
それでも、さっきより安定している。
俺は少しだけ満足した。
その時、屋敷の方から人の気配がした。
俺は慌てて地面に降りる。
足が草を踏む。
少し遅れて、角の向こうからミアが顔を出した。
「リオン様?」
「ミア」
危なかった。
もう少し遅ければ、完全に浮いているところを見られていたかもしれない。
いや、もしかすると少し見られていたかもしれない。
ミアは盆を持っていない。
どうやら俺を探しに来たわけではなく、何か用事の途中だったようだ。
「こちらにいらしたのですね」
「ああ。少し気分転換をしていた」
「気分転換、ですか」
ミアは俺の足元と、少し乱れた服を見た。
それから、裏庭の木の枝を見上げる。
「……リオン様」
「何かな」
「今、少し浮いていらっしゃいませんでしたか」
見られていた。
俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
「少しだけね」
「少しだけ……」
ミアは目を丸くした。
「人は、少しだけでも普通は浮かないと思います」
「それはそうだね」
ごまかせなかった。
ミアは驚いているようだったが、騒ぐ様子はなかった。
むしろ、心配そうに俺を見ている。
「危なくはないのですか」
「高くは浮いていないから、大丈夫だよ」
「でも、落ちたら痛いです」
「それは間違いない」
俺がそう言うと、ミアは少し眉を寄せた。
「奥様には……」
「できれば、まだ内緒で」
「また、そういうことをおっしゃる」
ミアは困ったように笑った。
怒っているわけではない。
でも、心配してくれているのは分かった。
「無茶はしないよ。今日は礼儀稽古で疲れたから、少し気分を変えたかっただけだ」
「礼儀稽古、お疲れになりましたか」
「かなり」
正直に答えると、ミアは小さく笑った。
「奥様は優しいですが、稽古は厳しいですものね」
「本当にそうだね」
「でも、リオン様が頑張っていらっしゃるのを、奥様はとても嬉しそうに話していました」
「母上が?」
「はい。リオンは苦手なことも正直に認めて練習している、と」
少し照れくさくなった。
できていないところを何度も直されているだけだと思っていた。
けれど、母上はそう見てくれていたらしい。
「そうか」
「はい」
ミアは裏庭を見回してから、もう一度俺を見た。
「浮く練習も、ほどほどになさってくださいね」
「分かった」
ミアはまだ少し疑うような目をしていたが、やがて小さく頭を下げて屋敷の方へ戻っていった。
俺はその背中を見送り、もう一度裏庭を見た。
母上の稽古から逃げるように来たはずだった。
けれど、浮遊魔法も結局は同じだった。
礼儀も、魔法も、難しいのは力を出すことではない。
ちょうどよく、自分を支えることだ。
俺は足元に残る冬の草を見下ろしながら、小さく息を吐いた。
トラウゼン侯爵家へ向かう日まで、あと2週間。
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