第305話 母上の礼儀稽古
西の森では、住宅区画の準備が進み始めていた。
レナードは定住希望者の名簿を作り、候補地の確認も始めている。
ノルは巡回路と灯りの位置を見ている。
領都では、夜間学校の準備も進んでいた。
エリアスが役場の一室を押さえ、マリウスが教材として使えそうな荷札や古い帳面を集めている。
俺が一つ一つ細かく指示しなくても、それぞれが自分の持ち場で動いてくれている。
父上が言っていた通りだ。
任せて、見て、必要な時に支える。
その意味が、少しずつ分かってきた気がする。
そうしているうちに、トラウゼン侯爵家の冬の集まりまで、あと2週間になっていた。
この集まりには俺がハル家の嫡男として代理で出席する。
同行者や贈り物については、父上とエリアスが相談を進めている。
準備は順調、そう思っていた。
その日の午後、母上に呼ばれるまでは。
「リオン。少し時間はあるかしら」
母上は、屋敷の小さな応接室にいた。
父上の部屋ほど重くはなく、客を迎える前の打ち合わせなどに使う部屋だ。
机の上には、数枚の布と、小さな箱が置かれている。
「はい。大丈夫です」
俺が椅子に座ると、母上は穏やかに微笑んだ。
「トラウゼン侯爵家へ伺う準備は進んでいるようね」
「はい。父上とエリアスが、贈り物や同行者の確認を進めてくれています」
「そう」
母上は頷いた。
「では、あなた自身の準備は?」
「俺自身、ですか」
「ええ。初めて正式に他家の集まりへ招かれるのよ。挨拶、立ち居振る舞い、話し方。
大丈夫かしら」
俺はすぐに答えられなかった。
書簡のことは父上に教わった。
贈り物も相談している。
同行者も決まりつつある。
けれど、実際に侯爵家の屋敷へ行き、侯爵本人や他の貴族たちと顔を合わせる。
そこでどう振る舞えばいいのか。
正直、詳しくはない。
「……あまり、大丈夫ではないかもしれません」
俺がそう答えると、母上は少しだけ目を細めた。
「正直でよろしい」
「こういう場は、詳しくありません。たぶん、苦手です」
貴族同士の社交は分からないことが多すぎる。
母上は柔らかく笑った。
「分からないなら、今から練習しましょう」
「今から、ですか」
「ええ。あと2週間あるもの。遅すぎることはないわ」
母上はそう言うと、机の上の布を一枚手に取った。
「まず、覚えておきなさい。礼儀は、相手を怖がるためのものではありません」
「怖がるためではない?」
「ええ。相手に不快な思いをさせず、こちらの敬意をきちんと伝えるためのものです」
母上の声は穏やかだった。
けれど、その言葉には芯があった。
「あなたはハル家の嫡男として向かいます。
けれど、交渉をしに行くのではありません」
「はい。父上にも、まずは挨拶をして、場を見てくればいいと言われています」
「その通りです。だからこそ、最初の挨拶が大事なの」
母上は立ち上がった。
「まず、部屋に入るところから始めましょう」
「部屋に入るところからですか」
「もちろん。扉の前で慌てる人は、中に入ってからも慌てます」
思っていたより本格的だった。
母上は応接室の入口を示した。
「あなたは、トラウゼン侯爵家の屋敷へ招かれたハル家の嫡男。
私は、侯爵家の者だと思いなさい」
「母上が侯爵家の者……」
「今はそういうことにします」
母上はにこりと笑った。
その笑顔は優しい。
だが、逃げ道はなさそうだった。
俺は扉の前に立ち、軽く息を整えた。
部屋に入り、母上の前まで歩く。
そして頭を下げた。
「お招きいただき、ありがとうございます。
父に代わり、リオン・ハルが参りました。
本日はよろしくお願いいたします」
母上は少し黙った。
そして、首を傾げる。
「悪くはないわ」
「本当ですか」
「でも、報告書を読んでいるみたいね」
「報告書……」
「用件は伝わります。でも、招いてくださった相手への敬意が少し薄いわ」
どこかで聞いたような指摘だった。
返書を書いた時、父上にも似たことを言われた気がする。
「もう一度。今度は、招いていただいたことへの感謝を先に置きなさい」
「はい」
俺はもう一度、扉の前へ戻った。
入室し、母上の前で立ち止まる。
「このたびは、ハル家を冬の集まりへお招きいただき、誠にありがとうございます。
父は体調が整わず伺うことができませんが、父に代わり、ハル家嫡男として参りました。
リオン・ハルです。本日はよろしくお願いいたします」
母上は頷いた。
「先ほどより良いわ。ただし、少し硬いわね」
「硬いですか」
「緊張しているのが伝わります」
「緊張はすると思います」
「それは仕方ありません。でも、緊張していても、急がないこと。
言葉を急ぐと、相手も落ち着かなくなります」
母上は俺の姿勢を見た。
「肩に力が入っています。背筋は伸ばす。
でも、胸を張りすぎない。偉そうに見えます」
「難しいですね」
「ええ。だから練習するのです」
母上は当然のように言った。
それから何度も、入室、挨拶、名乗りを繰り返した。
最初は事務的すぎる。
次は丁寧にしようとして、言葉を飾りすぎる。
さらに次は、父上の欠席を詫びる言葉が長すぎると言われた。
「詫びることは大切です。でも、長く詫びすぎると、相手も返事に困ります」
「なるほど……」
「父上が出席できないことは事実です。
けれど、体調の詳しい話をこちらから長々とする必要はありません」
「聞かれたら答える、くらいですか」
「ええ。必要以上に事情を広げないこと」
母上は次に、小さな箱を手に取った。
「次は贈り物です」
「贈り物の渡し方ですか」
「そうです」
母上は箱を俺に持たせた。
「贈り物は、ただ差し出せばよいものではありません」
「重すぎても、軽すぎてもいけないと聞きました」
「その通り。品物そのものにも距離感があります。
でも、渡し方にも距離感があります」
母上は俺の手元を見た。
「前に出しすぎると、押しつけがましく見えます。
控えすぎると、自信がないように見えます」
「ちょうどよく、ですか」
「ええ。何事も、ちょうどよくが一番難しいの」
俺は思わず苦笑した。
本当にその通りだ。
商売でも、内政でも、社交でも、結局はちょうどよい距離が難しい。
母上は贈り物を受け取る役になり、俺は何度か渡し方を練習した。
「言葉は短くていいわ。ハル領より、心ばかりの品をお持ちいたしました。
お納めいただければ幸いです。これくらいで十分です」
「品の説明はしなくていいのですか」
「聞かれたら答えなさい。最初から長く説明すると、売り込みのようになります」
「売り込み……」
「あなたは商会の者ではなく、招かれた客です」
母上の言葉に、俺は背筋を伸ばした。
そうだ。
俺はトラウゼン侯爵家に、品物を売りに行くわけではない。
関係を作りに行く。
顔を見せ、礼を尽くし、場を見る。
それが目的だ。
「話題にも気をつけなければなりません」
母上は続けた。
「こちらから取引や条件の話を出してはいけません」
「王都方面の道や食料の話もですか」
「相手から聞かれれば、差し障りのない範囲で答えなさい。
でも、こちらから急に話すと、何かを頼みに来たように見えます」
「たしかに」
「それから、他家の悪口や、他領との不仲を口にしてはいけません」
母上は少しだけ真面目な表情になった。
「たとえば、グレイヴ伯爵領との関係が良くないとしても、その場でこちらから不満を言ってはいけません」
「分かりました」
「相手が話題にしたとしても、言葉を選びなさい。
困っている、難しい、慎重に見ている。そのくらいに留めるのです」
これは難しい。
思ったことをそのまま言えばいいわけではない。
だが、嘘をつけばいいわけでもない。
相手に余計な材料を与えず、こちらの立場も崩さない言い方を選ぶ。
社交の場とは、思っていた以上に神経を使う。
「使用人への態度も大切です」
母上は言った。
「侯爵家の当主や奥方にだけ丁寧にして、使用人に横柄にする者は、すぐに見られます」
「使用人にも、ですか」
「ええ。むしろ、使用人への態度にその家の本当の姿が出ます」
その言葉は、母上らしいと思った。
ミアたちを大切にしている母上だからこそ、自然に出る言葉なのだろう。
「ハル家の者として恥ずかしくない態度を取りなさい。
相手が誰であっても、必要な礼は尽くすこと」
「はい」
「ただし、媚びる必要はありません」
「媚びる必要はない」
「ええ。礼と媚びは違います」
母上の声は優しい。
けれど、言っていることは厳しい。
相手を立てる。
だが、自分の家を軽く見せてはいけない。
丁寧にする。
だが、へりくだりすぎてはいけない。
立派に見せようとしすぎてもいけない。
幼く見られてもいけない。
「母上」
「何かしら」
「社交というのは、難しいですね」
俺が正直に言うと、母上は少し笑った。
「ええ。難しいわ」
「母上でもですか」
「もちろん。慣れているように見える人も、皆、考えながら動いています」
「そうなんですね」
「ただ、慣れている人は、それを顔に出さないだけです」
母上はもう一度、俺の姿勢を見た。
「リオン。無理に立派に見せようとしすぎなくていいの」
「はい」
「けれど、幼く見られてもいけません」
「難しいです」
「だから、あなたは誠実に、落ち着いて、相手の話を聞きなさい」
聞く。
その言葉で、父上とミアの言葉を思い出した。
人は、話を聞いてもらえると思えば、考えるようになる。
話を聞いてもらえるだけで、嬉しいこともある。
領内で必要だったことは、外の場でも同じなのかもしれない。
相手の話を聞く。
言葉を急がない。
分からないことを分かったふりしない。
それは、俺にもできることだ。
「分かりました。まずは、きちんと聞くことを意識します」
「それでいいわ」
母上は柔らかく微笑んだ。
「あなたは、誰かを言葉で言い負かしに行くのではありません。
ハル家の者として、礼を尽くしに行くのです」
「はい」
「そして、場を見るのです。誰が誰と話しているか。
どの話題で空気が変わるか。どの家が重く扱われているか」
「父上にも同じことを言われました」
「でしょうね」
母上は少しだけいたずらっぽく笑った。
「あなたの父上は、社交が得意ではないと言いながら、大事なことは分かっている人です」
「母上は得意なのですか」
「得意、というほどではありません」
母上は小さく首を振った。
「でも、見てきました。誰かが一言で場を和ませることもあれば、一言で空気を冷やすこともある。
だから、言葉と振る舞いは大切なのです」
それからもしばらく、稽古は続いた。
入室。
挨拶。
名乗り。
贈り物の渡し方。
聞かれた時の答え方。
話題を広げすぎない返し方。
相手に褒められた時の受け方。
父上の体調を尋ねられた時の答え方。
俺は何度も言葉に詰まり、そのたびに母上に直された。
「そこは、もう少し短く」
「それでは少し事務的です」
「今の言い方は悪くありません。ただ、目線が落ちすぎています」
「焦らなくていいの。ゆっくりで大丈夫」
母上は優しい。
だが、決して甘くはない。
終わる頃には、思っていた以上に疲れていた。
剣を振ったわけでもない。
魔法を使ったわけでもない。
帳面を読み込んだわけでもない。
ただ、歩き、立ち止まり、頭を下げ、言葉を選んだだけだ。
それなのに、妙に疲れた。
「今日はここまでにしましょう」
母上が言った。
「ありがとうございました」
「明日も少しやりましょうね」
「明日もですか」
「もちろん」
母上はにっこり笑った。
「あと2週間しかないのですから」
俺は返事をしながら、少しだけ覚悟を決めた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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