第303話 マリウスへの相談
エリアスの提案を受けた翌日、俺は領都のローデン商会ハル領支店へ向かった。
同行しているのはエリアスだ。
領都で夜間学校を始める。
文字の読み書きと計算を中心にし、荷札や品目札、数量の記録、代金の確認、簡単な帳面まで扱う。
その方針は決まった。
だが、始めるには教師役がいる。
エリアス一人で見ることもできるだろうが、領都の役場の仕事もある。
長く続けるには、協力者が必要だ。
その相談相手として、エリアスが名前を挙げたのがマリウスだった。
「西の森の夜間学校では、ローデン商会の者にも教師役として協力してもらっていたんだよね」
道を歩きながら俺が言うと、エリアスは頷いた。
「はい。ローデン商会は、読み書きと計算ができる者の重要性をよく理解しています。
西の森でも、実務に近い教え方をしてくれたと聞いております」
「領都でも同じように協力してくれるといいな」
「マリウスなら、話は早いかと」
エリアスはそう言った。
いつも通り落ち着いた声だ。
けれど、その言葉には少しだけ期待が混じっているように聞こえた。
ローデン商会ハル領支店に着くと、店先には荷を積んだ馬車が止まっていた。
商会員たちが荷札を確認しながら、袋や木箱を運んでいる。
店の中からは、品物の数を読み上げる声が聞こえた。
布。
保存食。
青葉草。
工具。
小麦の袋。
領都の暮らしと、西の森の食堂を支えるものが、ここを通って動いている。
「リオン様。ようこそお越しくださいました」
奥から出てきたマリウスが、すぐに頭を下げた。
「マリウス。今日は少し相談があって来た」
「私に、でございますか」
「ああ。エリアスから話す」
俺がそう言うと、エリアスが一歩前に出た。
「マリウス殿。領都で夜間学校を始めたいと考えております」
「夜間学校でございますか」
マリウスは少し目を細めた。
驚いてはいる。
だが、戸惑っているというより、すぐに頭の中で何かを計算し始めたような顔だった。
「西の森で行っているものを、領都にも広げるということでしょうか」
「そのまま広げるわけではありません」
エリアスは落ち着いて説明した。
「西の森では、安全札や作業場所、道具の貸し出しなど、現場を動かすための文字が中心です。
領都では、読み書きと計算を中心にしたいのです」
「読み書きと計算」
「はい。荷札を読む。品目札を読む。数量を記録する。代金を間違えない。
簡単な帳面をつける。そういった内容です」
マリウスの表情が、はっきりと変わった。
商人の顔になった。
「それは、商会としても大変ありがたい話です」
「そう思っていただけますか」
「もちろんです」
マリウスは即答した。
「荷を運ぶ者はいます。力仕事ができる者もいます。
ですが、荷札を読み、数を間違えず、帳面に残せる者は限られます」
エリアスが俺に向けて小さく頷いた。
昨日話していたことと同じだ。
領都で本当に必要とされているのは、ただ文字を読める者ではない。
仕事の中で文字と数を使える者なのだ。
「そこで、ローデン商会にお願いしたいことがある」
俺はマリウスを見た。
「領都の夜間学校で、教師役として協力してくれる者を探してもらえないだろうか」
「教師役、ですか」
「ああ。西の森でも協力してもらっていたと聞いている。
領都でも、商会の実務を知っている人に教えてもらえれば助かる」
マリウスは少し考えた。
すぐに答えない。
指先で軽く帳面の端を押さえながら、静かに言った。
「一つ、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「夜間学校で優秀な者が出た場合、ローデン商会が優先的に声をかけることをお認めいただけますか」
俺は少し驚いた。
横を見ると、エリアスは驚いた様子を見せなかった。
むしろ、そう来るだろうと分かっていたような顔をしている。
商会としては当然なのかもしれない。
人を育てるなら、その先に商会で働いてほしい。
ただの善意だけでは動かない。
けれど、それは悪い話ではなかった。
「本人の意思を無視しないこと」
俺はゆっくりと言った。
「それから、ハル家の役場で必要な者まで、一方的に連れていかないこと。
その二つを守ってくれるなら、優秀な者に声をかけることは構わないよ」
マリウスは深く頷いた。
「もちろんでございます。本人の意思を無視しても、良い働き手にはなりません」
「商会らしい考えだな」
「商会は人で動きますので」
マリウスは少しだけ笑った。
「無理に連れてきた者より、自分で働きたいと思って来た者の方が、長く続きます」
その言葉には説得力があった。
読み書きや計算を覚えた先に、働く場所がある。
それは夜間学校に通う者にとっても希望になる。
同時に、商会にとっても人材を得る道になる。
ハル家にとっても、領内に文字と数を扱える者が増える。
それぞれに利がある。
「分かった。その条件で考えよう」
俺がそう言うと、マリウスはもう一度頭を下げた。
「ありがとうございます。でしたら、教師役についてですが」
「ああ。誰か心当たりがあるのか」
「私が務めましょう」
その言葉に、俺は思わず聞き返した。
「マリウスが?」
「はい」
マリウスは落ち着いて頷いた。
「最初の教師役であれば、私が務めるのがよいかと存じます」
エリアスも少し驚いたようだった。
「支店の仕事は大丈夫なのですか」
「毎日では難しいでしょう。ですが、週に数回、仕事後の短い時間であれば調整できます」
マリウスは穏やかな口調で続けた。
「それに、読み書きと計算を教えるだけでなく、商会でどう使うのかを教える必要があるのでしょう。
でしたら、私が最初に形を作った方が早い」
「教えた経験があるのか」
俺が尋ねると、マリウスは少しだけ背筋を伸ばした。
「はい。私は王立学院で学んだことがあります」
「王立学院で?」
「Sクラスではございませんでしたが」
マリウスは少し苦笑した。
「それでも、基礎の読み書き、計算、帳面の扱いは学びました。
商会に入ってからは、若い者に荷札の読み方や帳面のつけ方を教えることもありました」
王立学院で学んだ経験がある。
商会で実務も積んでいる。
若い者に教えたこともある。
領都の夜間学校の教師役として、これ以上ない人材かもしれない。
俺はエリアスを見た。
エリアスも同じことを考えているようだった。
「マリウス殿が務めてくださるなら、こちらとしては大変助かります」
エリアスが言った。
「ただ、負担が大きくなりすぎないようにする必要があります」
「承知しております。最初は私が教えますが、慣れてきたら商会内から補助役を出すことも考えます」
「それなら続けやすい」
俺は頷いた。
「授業では、何から教えるつもりだ?」
マリウスは少し考え、すぐに答えた。
「まずは、自分の名前を書くことです」
「名前?」
「はい。自分の名前を書けなければ、荷の受け渡しも、仕事の記録も残せません」
たしかにそうだ。
西の森でも、名前を書くことは最初の一歩だった。
「次に、品物の名前を読むこと。数を数えること。足し算と引き算。そして、帳面に残すことです」
「実務的だな」
「商会で使わないことを教えても、続きませんので」
マリウスは少しだけ笑った。
「たとえば、小麦十袋、青葉草三束、工具二箱。それを見て、読み、数え、間違えずに記録する。最初はそれで十分です」
エリアスが頷いた。
「領都役場でも、その程度の記録を正しくできる者が増えるだけで助かります」
「商いで一番困るのは、読めないことより、読めたつもりで間違えることです」
マリウスの声が少しだけ引き締まった。
「数字を一つ間違えれば、荷が足りなくなる。
代金を間違えれば、信用を失う。帳面を誤魔化せば、商会からも領からも信用されなくなる」
「信用か」
「はい」
マリウスは俺を見た。
「読み書きと計算は大事です。ですが、商会で働くなら、数字をごまかさないことが何より大切です」
その言葉は、静かだが重かった。
父上も言っていた。
外との関係は、人との信頼でできている。
商会の中でも同じなのだろう。
数字をごまかさない。
帳面を正しくつける。
それは単なる作業ではなく、信用を守ることなのだ。
「夜間学校でも、それを教えたいと思います」
マリウスは続けた。
「字を覚えた者が、字を使って人を騙すようでは困ります。
数を覚えた者が、数をごまかすようでは意味がありません」
「その通りだ」
俺は頷いた。
「読み書きと計算だけじゃなく、信用も教える必要があるんだな」
「はい。少なくとも、商会ではそう考えます」
エリアスが静かに言った。
「領の役場でも同じです。記録を扱う者が信用できなければ、仕組みそのものが崩れます」
夜間学校は、文字と数を教える場所になる。
けれど、それだけでは足りない。
記録を扱う者として、信用を守ること。
それも教えなければならない。
思っていたより、夜間学校の意味は大きい。
「マリウス」
「はい」
「教師役、頼めるか」
「喜んでお引き受けいたします」
マリウスは深く頭を下げた。
「ただし、商会としての条件は先ほど申し上げた通りです」
「分かった。ただし、本人の意思を最優先にする」
「もちろんでございます」
「エリアス、領都役場側との調整を頼む」
「承知いたしました」
「マリウスは、授業で使う荷札や帳面の見本を用意できるか」
「すぐに準備いたします。古い帳面や使い終えた荷札なら、教材として使えるでしょう」
「助かる」
話が一気に進んでいく。
エリアスが提案し、マリウスが条件を出し、自分で教師役まで引き受けた。
俺一人で考えていたら、ここまで早くは進まなかっただろう。
それぞれが自分の立場から考え、必要なものを出してくる。
ハル領が動き始めている。
その実感があった。
「開始時期はどうしましょう」
エリアスが聞いた。
「準備に時間はかかるか」
「教材だけなら、すぐにそろいます」
マリウスが答える。
「ただ、参加者を集めるには、少し時間を置いた方がいいでしょう。
工房や倉庫にも声をかける必要があります」
「なら、まずは希望者を集めよう」
俺は言った。
「最初から多すぎても困る。小さく始める。続けられる人数でいい」
「承知いたしました」
エリアスとマリウスが同時に頷いた。
その様子を見て、少しだけ笑いそうになる。
二人とも真面目だ。
けれど、見ている場所は違う。
エリアスは領の記録と仕組みを見る。
マリウスは商会の実務と人材を見る。
その二人が同じ方向を向いている。
それは、とても心強いことだった。
ローデン商会を出る頃には、領都の夜間学校の形がかなり見えていた。
場所は領都役場の一室。
教師役はマリウスを中心に、エリアスと役場の者が補助する。
内容は読み書きと計算。
教材には、実際の荷札や帳面を使う。
領都の夜間学校は、ただ文字を教える場所ではない。
人が次の仕事へ進むための入口になる。
そして、その入口に立つ最初の教師は、思っていた以上に心強い人物だった。
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