第302話 エリアスの提案
西の森で住宅区画の候補地を見た後、俺は屋敷へ戻った。
まだ何も建っていない土地。
切り株が残り、冬の草が見えるだけの場所。
けれど、そこに家が並び、井戸ができ、夜には小さな灯りがともるかもしれない。
そう考えると、不思議な感覚があった。
ただ、家を建てる前に決めることが、思っていた以上に多い。
自室の机に木板を並べながら、俺は一つずつ確認していた。
定住希望者の名簿はレナードが作る。
住宅区画の候補地は、地面の傾きと水場の位置を見て絞る。
巡回路と灯りの位置はノルにも見てもらう。
最初から大きくしない。
まずは数家族分。
そこで問題を見ながら広げる。
そう考えていると、扉の外から声がした。
「リオン様。エリアスです」
「入っていいよ」
「失礼いたします」
扉が開き、エリアスが静かに入ってきた。
相変わらず服装に乱れはない。
手には、きれいにまとめられた書類を持っていた。
「トラウゼン侯爵家への返書は、予定通り使者に持たせました」
「ありがとう。父上の確認も終わったんだな」
「はい。問題なく出しております」
エリアスはそこで一度言葉を切った。
いつものように淡々としている。
けれど、今日は少しだけ雰囲気が違った。
何かを言う前に、考えを整えているように見える。
「他にも何かあるのか」
俺が聞くと、エリアスは小さく頷いた。
「はい。リオン様に、一つご提案したいことがございます」
「提案?」
「領都でも、夜間学校を始められないでしょうか」
俺は少し驚いた。
「領都で?」
「はい」
エリアスは持っていた書類を机の上に置いた。
その表情は落ち着いている。
けれど、目はいつもより少し真剣だった。
「以前、西の森を視察した際、夜間学校の成果を見ました。
文字を覚えた者が、道具の貸し出しや食堂の人数確認を補助していました」
「ああ。俺も見た」
「札や名簿があることで、現場の混乱も減っております。
文字と数を扱える者が増えるだけで、仕事の流れは大きく変わるのだと感じました」
エリアスの声には、静かな熱があった。
大きく感情を出す人ではない。
だが、この話には強い関心を持っているのが分かる。
「西の森でうまくいったから、領都でも同じように、ということか」
「同じように、ではございません」
エリアスはすぐに首を振った。
「西の森では、安全と作業のための文字でした。
危険札、退避札、荷車道、道具の貸し出し、作業場所の確認。
あちらでは、現場を安全に動かすための学びが中心です」
「領都では違う?」
「はい。領都では、商いと記録のための文字になります」
エリアスは書類の一枚を開いた。
そこには、簡単な項目が並んでいた。
荷札を読む。
品目札を読む。
数量を記録する。
代金を間違えない。
簡単な帳面をつける。
俺はその項目を目で追った。
「かなり実務寄りだな」
「領都で必要とされているものです」
エリアスは頷いた。
「今、領都では文字と数を扱える者が足りておりません。
商会、工房、倉庫、役場。どこでも、記録を補助できる者がいれば助かります」
「たしかに」
「荷物を運べる者はいます。品物を作れる者もいます。
ですが、何をいくつ運んだのか、どこへ納めたのか、いくら受け取ったのかを正しく残せる者は限られます」
エリアスの言葉は淡々としている。
だが、その一つ一つが現場を見た人間の言葉だった。
帳面の上だけで考えているのではない。
領都の店や倉庫で、実際にどこが詰まっているのかを見ているのだ。
「今は、少数の者に記録が集中しています」
エリアスは続けた。
「その者たちが倒れたり、忙しすぎて確認が遅れたりすれば、取引全体に影響が出ます」
「記録できる人を増やす必要があるわけだ」
「はい」
エリアスは、そこで少しだけ言葉を選ぶように目を伏せた。
「それに、学んだ先に仕事が見えれば、人は続けやすくなります」
その言葉に、俺は顔を上げた。
エリアスの声は静かだった。
けれど、そこには確かな思いがあった。
「ただ文字を覚えろと言うだけでは、長く続かない者もいるでしょう。
ですが、文字を覚えれば倉庫の記録を手伝える。
計算ができれば工房の納品数を確認できる。
優秀であれば、役場の記録係補助や文官見習いとして採ることも考えられます」
「ローデン商会にも紹介できるかもしれないな」
「はい。ローデン商会ハル領支店でも、読み書きと計算ができる若い者は欲しいはずです」
エリアスはそこで、少しだけ表情を緩めた。
「もちろん、すぐに正式採用という話ではありません。
まずは補助です。ですが、道が見えることは大切です」
道。
その言葉が胸に残った。
西の森では、住宅区画の道を考えていた。
そして今、エリアスが話しているのは、領に住む人のキャリアという道だった。
文字を覚える。
数を覚える。
記録を手伝う。
その先に、別の働き方が見える。
前世でも、学びが仕事につながる時、人は本気になる。
ただ勉強しろと言うより、覚えた先に何ができるのかが見えた方がいい。
それは、この世界でも同じなのだろう。
「エリアスは、いつから考えていたんだ」
俺が聞くと、エリアスは少しだけ視線を落とした。
「西の森を見た時からです」
「そんなに前から?」
「はい」
エリアスは静かに答えた。
「あの場所では、文字を覚えた者が、自分の仕事の中で文字を使い始めていました。
それを見て、領都でも同じことができるのではないかと考えました」
そこまで言ってから、少しだけためらうように続ける。
「ただ、私の立場で勝手に始めるには大きい話です。
リオン様が戻られた時に、ご相談しようと思っておりました」
俺はエリアスを見た。
嬉しかった。
これは俺が思いついた案ではない。
エリアスが見て、考え、必要だと思って持ってきた提案だ。
ハル領の中で、自分で考えて動く人が増えている。
そのことが、何より嬉しかった。
「良い提案だと思う」
俺がそう言うと、エリアスの肩から少し力が抜けたように見えた。
「ありがとうございます」
「ただ、大きく始めるのは避けたい」
「私も同じ考えです」
エリアスはすぐに頷いた。
「まずは試験的に始めるべきかと」
「対象は?」
「領都役場の下働き、倉庫で働く若い者、工房の見習い、商店で働く者。
あとは、本人が望むなら出稼ぎの者も受け入れられます」
「場所は?」
「領都役場の一室を使うのがよいでしょう。夜間に空いている部屋があります」
「教師は?」
エリアスはそこで少し考えた。
「最初は私と、領都役場で記録を扱える者が交代で見る形にします。
ただ、毎日では続きません。
まずは週に数回、仕事後の短い時間から始めるのが現実的です」
「無理なく続けられる形にするわけだな」
「はい。西の森の夜間学校も、最初から大きくしたわけではないと聞いております」
「そうだね」
俺は西の森の夜間学校を思い出した。
食事小屋の一角。
夕食後の短い時間。
木板と炭。
危険札、退避札、水場、荷車道。
最初は本当に小さな場だった。
それが今では、道具の貸し出しや食堂の記録を支えるようになっている。
「レナードにも話しておこう」
俺が言うと、エリアスは少し意外そうに顔を上げた。
「レナードに、ですか」
「西の森で始めたものが、領都でも役に立つと知れば、喜ぶと思う」
「……そうですね」
エリアスは小さく頷いた。
「西の森で積み上げたものを、そのまま真似るのではなく、領都に合わせて変える形にしたいと思っております」
「その方がいい」
「レナードにも、敬意を払うべきですね」
エリアスの言葉に、俺は少し笑った。
エリアスは真面目だ。
帳面や制度だけでなく、誰が積み上げたものなのかも考えている。
「内容は、読み書きと計算を中心にしよう」
「はい、その方が参加者も続けやすいでしょう」
「優秀な者は、記録係の補助に回せるかもしれない」
「はい。いずれは文官見習いとして採ることも考えられます」
エリアスは、書類の別の部分を指した。
「また、ローデン商会にも話を通しておけば、読み書きと計算ができる者を見習いとして受け入れる可能性があります」
「マリウスに相談するか」
「はい。商会側にも利があります。
こちらで基礎を教え、見込みのある者を紹介できれば、商会にとっても人材確保になります」
ハル領にとっても、働く者にとっても、商会にとっても意味がある。
もちろん、すぐにうまくいくとは限らない。
途中で来なくなる者もいるだろう。
仕事で疲れて、学ぶ余裕がない者もいるはずだ。
けれど、始めなければ何も変わらない。
「エリアス」
「はい」
「この提案、進めよう」
エリアスはまっすぐに俺を見た。
「承知いたしました」
エリアスは深く頷いた。
「参加者の候補、場所、教師役、必要な木板や炭、簡単な教材について整理してまいります」
「頼む」
「それから、ローデン商会にも話を聞いておきます。マリウスなら、必要な人材について具体的に教えてくれるでしょう」
「そうしてくれ」
エリアスは書類をまとめた。
その手つきはいつも通り丁寧だった。
エリアスは頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まった後、俺は机の上に残った木板を見た。
西の森では、家族が住むための区画を作る。
領都では、文字と数を学ぶ場所を作る。
住む場所があれば、人は残れる。
学ぶ場所があれば、人は次の仕事を目指せる。
エリアスの提案は、ただの学校作りではなかった。
ハル領の中に、人が育つ道を作る話だった。
西の森も、領都も、少しずつ変わり始めている。
俺一人が何かを決めるのではなく、レナードが考え、ノルが見て、エリアスが提案する。
ハル領は、俺が思っているよりも確かに前へ進んでいた。
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