第30話 自分の綻び
翌朝の空気は、ひどく冷たく感じた。
ヴァレスト公爵家の庭の一角には、昨日と同じように簡易的な的と、水晶板、それから魔力の流れを見るための薄い銀線の張られた台が並べられている。
グレインは朝から一切の無駄がなかった。
「では、昨日の続きから参ります」
そう言って、最初に俺へ視線を向ける。
その目は厳しいが、馬鹿にしているわけではない。そこはありがたかった。
むしろ困るのは、真面目に見られていることのほうだ。
真面目に見られてなお、全然できないのだから。
セレナはすでに支度を終えていた。
髪を軽くまとめ、昨日と同じように落ち着いた顔でこちらに立っている。
「今日は基礎運用の反復です」
グレインが言う。
「火種。水滴。灯り。この三つを繰り返します。王立学院を受ける受験者であれば、少なくとも一つは安定して扱えるのが普通です」
そこで一度だけ、俺のほうを見た。
「申し上げておきますが、魔法が苦手な者そのものは珍しくありません」
たしかにそうだろう。
この世界で魔法があるからといって、全員がばんばん火球を飛ばしているわけではない。
ハル領にいた時だって、そんな人間は見なかった。
グレインは続ける。
「一般に、魔法をまったく扱えない者もおります。生活補助程度で止まる者も多い。ですが――」
一拍置く。
「王立学院の受験では不利です」
やっぱりそこだ。
世間的には珍しくない。
でも、学院受験者の中では足りない。
それが今の俺の立ち位置らしい。
「始めます」
最初にセレナが火種を出した。
小さな火だ。
派手な炎ではない。だが、揺れが少なく、安定している。
次に水滴。空中にふわりと丸い雫が浮かび、そのまま器の中へ落ちた。
最後に灯り。掌の上に柔らかい光がともる。
どれも大技ではない。
でも、基礎としては十分すぎるほど綺麗だった。
「良好です」
グレインの評価は短い。
セレナは軽く息を吐いただけで、誇る様子もない。
たぶんこのくらいは、彼女にとって当然なのだろう。
「次、リオン様」
「はい」
前へ出る。
火種。
詠唱を思い出す。言葉は覚えた。意味も理解している。
でも、指先に熱を集めるという感覚が、やっぱりまるで掴めない。
詠唱が終わっても、何も起きない。
「もう一度」
グレインが言う。
やる。
出ない。
「水滴」
やる。
出ない。
「灯り」
やる。
出ない。
沈黙が、昨日より痛かった。
ミアは隅で見学していたが、どう声をかけていいかわからない顔をしている。
セレナはじっとこちらを見ていた。
グレインは水晶板へ手を向けた。
「魔力の反応自体は、やはりゼロではありません」
銀線の台の上に手を置かされる。
薄い光が、指先から手首のあたりへほんの少しだけ走る。だが途中で揺れ、散る。
「……不思議ですね」
グレインが珍しく独り言のように漏らした。
「発動のための理解が足りない、という段階でもない。詠唱も記憶も正確です。魔力も皆無ではない。なのに、出力だけが綺麗に噛み合わない」
俺は黙っていた。
その表現はたぶん正しい。
できないことはできない。だが、何もない感じではないのだ。
何かがある。
でも、それが外に出てこない。
「リオン様」
グレインが正面から俺を見る。
「火を灯す時、何を思い描いていますか」
「火を出すこと、です」
「それはセレナ様も同じです」
そりゃそうだ。
「もっと具体的には?」
「……熱い、とか、燃える、とか」
「曖昧ですね」
言い方が痛い。
でも事実だった。
曖昧なのだ。
火がどういうものか知っているつもりでも、魔法として“出す”イメージが全然まとまらない。
セレナがそこで口を開いた。
「あなた、魔法を“出す”感覚がないのね」
「ないね」
「でも、問題を解く時は迷いがない」
たしかにそうかもしれない。
帳面。
地図。
倉の匂い。
道の歪み。
そういうものを見る時は、むしろ頭が勝手に進む。
でも魔法になると駄目だ。
「感覚が違うのかしら」
セレナは自分へ言うように呟いた。
グレインはそれを否定もしなかった。
「本日はここまでにします」
少し早い打ち切りだった。
「学科は問題ありません。ですが、魔法運用については通常の受験者と同じ訓練では非効率でしょう。別の切り口が必要です」
それはそうだろう。
通常の反復でどうにかなるなら、昨日今日でもう少しマシになっているはずだ。
「明日も続けます」
グレインは淡々と言った。
「今は、できないことを知る段階です」
できないことを知る段階。
あまり嬉しい言葉ではないが、必要なのはわかる。
◇
その日の夕方、俺は妙に疲れていた。
身体が、というより頭だ。
剣や体術で叩きのめされたわけでもない。魔力切れを起こしたわけでもない。
ただ、うまくいかない。
自分のやり方が通じない。
それだけで、思った以上に消耗する。
夕食の席でも、ルークが何か言っていた気がするが半分も頭に入らなかった。
セレナはちらりとこちらを見たが、変に気遣うことはなかった。
それは助かった。
自室へ戻り、扉を閉める。
机の上には今日使った詠唱の控えが置いてある。
火種。水滴。灯り。
短い言葉だ。覚えるのは難しくない。
理屈もわかる。少なくとも言葉の意味としては理解している。
でも、出ない。
「……なんなんだよ」
誰に向けるでもなく、小さく吐いた。
窓の外はもう暗い。
王都の灯りはハル領よりずっと多く、それなのに妙に遠く見えた。
俺は詠唱紙を持ち上げ、もう一度読む。
火。
熱。
灯り。
水。
この世界では、それが感覚として繋がっているのかもしれない。
でも俺には、そこへ飛べない。
火を出せと言われても、頭の中に出てくるのは「火そのもの」じゃない。
熱。燃焼。酸素。拡散。
水と言われても、流体、重さ、形のなさ、そういう方が先に浮かぶ。
考えすぎなのかもしれない。
でも、感覚でやれと言われても、その感覚がない。
ふと顔を上げると、部屋の隅に置かれた姿見が目に入った。
ヴァレスト家の客室にあるものだから、ハル領のものよりずっと大きく、映りもいい。
鏡の中に、自分がいる。
黒髪の十二歳。
顔立ちはまだ幼い。身体も細い。
でも、中身は四十五歳の男だ。
……いや、中身がどうとか、今は関係ないか。
問題は、こいつの魔法がまるで使えないことだ。
俺は鏡の前まで歩いていった。
自分の手を見る。
指先。手首。肩。胸。
その時だった。
視界の端に、薄青い文字が浮かんだ。
《魔力流路:分散》
《出力点:不安定》
《詠唱同期:不一致》
《火属性出力適性:低》
《観測適性:高》
息が止まる。
「……自分にも、出るのか」
今まで外にしか向かなかった《綻びの目》が、初めて自分自身に反応していた。
鏡の中の自分を凝視する。
文字は消えない。
《魔力流路:分散》
《出力点:不安定》
つまり、魔力がないわけじゃない。
だが流れが散っている。
火を出そうとしても、一点に集める前に崩れている。
さらに、
《火属性出力適性:低》
低い。ゼロではない。
でも、向いていない。
代わりに、
《観測適性:高》
そこだけは、はっきり高いと出ている。
思わず、鏡の中の自分を見たまま立ち尽くした。
そういうことか。
俺は魔法が使えないんじゃない。
少なくとも、魔力そのものが空っぽなわけじゃない。
ただ、普通の火や水を“出す”型に、まるで噛み合っていない。
感覚で一点にまとめ、形にして放つ。
そのやり方に向いていない。
でも――観測適性は高い。
「だったら……」
小さく呟く。
鏡の前の自分は、当然何も答えない。
でも頭の中では、別の線がつながり始めていた。
火が出せない。
その理由の一つは、火を“感覚”でしか捉えられていないからだ。
でも俺は、感覚で火を出せない代わりに、火という現象を別の形で知っている。
熱。燃焼。拡散。
水なら流れ。重さ。形の変化。
前世の知識は、少なくともそこを理解する助けにはなる。
普通の受験生が「火を灯す」と感覚で掴んでいるところを、俺は現象として組み立てればいいんじゃないか。
鏡の前で、ゆっくりと息を吐く。
「自分は感覚で火を出せない」
それはもう認めるしかない。
「でも……現象として理解すれば、イメージの補助になるのでは?」
口にした瞬間、胸の奥で何かが少しだけ動いた気がした。
まだ成功ではない。
火種一つ出ていない。
水滴も、灯りも、何もない。
でも、初めてただの行き止まりじゃなくなった。
突破口の形が、ぼんやり見えた。
鏡の中の自分は相変わらず十二歳の顔をしている。
けれど、その目の奥には、さっきまでより少しだけはっきりしたものがあった。
やり方を変える。
普通の子どもと同じ感覚型で駄目なら、別の道を通す。
俺には、俺のやり方がある。
窓の外では、王都の夜が静かに深まっていた。
入試まで三か月。
状況はまだ大ピンチのままだ。




