第299話 父上の苦手なこと
西の森から戻った後も、俺の頭の中には、見てきたものが残っていた。
領都では、家が建ち、商会が動き、人が集まっていた。
西の森では、役場が形を持ち、夜間学校で覚えた文字が現場を支え始めていた。
どちらも、俺が学院にいる間に少しずつ変わっている。
それは嬉しいことだった。
けれど同時に、考えるべきことも増えていた。
人が増えれば、食料が必要になる。
仕事が増えれば、道具も荷車も薪も必要になる。
領都や西の森を広げるには、領内だけを見ていればいいわけではない。
外から入ってくるものがある。
外へ出ていくものがある。
他領との道があり、商会との取引があり、貴族家との関係がある。
夕食後、俺は父上の部屋へ向かった。
母上からは、あまり長く話し込まないようにと言われている。
父上の体調は前より良くなっているが、まだ本調子ではない。
それでも、今聞いておきたいことがあった。
「父上。リオンです」
「入れ」
部屋に入ると、父上は寝台の上で上体を起こしていた。
昼間よりは顔色が落ち着いている。
「西の森はどうだった」
「かなり形になっていました。レナードがよく見てくれています」
「そうか」
父上は静かに頷いた。
「レナードは真面目な男だ。西の森のように一つずつ積み上げる場所には向いている」
「はい。現場で判断できることは現場で判断する形になってきています。夜間学校の成果も出ていました」
「それは良いことだ」
父上は少しだけ目を細めた。
「お前が始めたことが、お前のいない場所でも動いているのだな」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなる。
けれど、今日話したいのはそれだけではなかった。
「父上。少し聞いてもいいですか」
「何だ」
「ハル領は、これから他領とどう付き合っていくべきなのでしょうか」
父上はすぐには答えなかった。
部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
それから父上は、少し困ったように息を吐いた。
「……難しいことを聞くな」
「すみません」
「いや、聞くべきことだ」
父上は俺を見る。
「正直に言えば、私はそのあたりが得意ではない」
父上は、見栄を張らなかった。
「領民の暮らしを見ることなら、まだ分かる。
道が悪い。食料が足りない。働く場所がない。
そういう問題なら、何を見ればいいか分かる」
そこで父上は、少しだけ眉を寄せた。
「だが、貴族同士の腹を探るようなやり取りや、相手の面子を読みながら進める交渉は得意とは言えない」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ前世のことを思い出した。
前世の俺も、経営者同士の付き合いや、腹の探り合いのような場が得意だったわけではない。
もちろん、必要なら会食にも出た。
取引先とも話した。
頭を下げることもあった。
けれど、本当に好きだったのは、社内で新しいサービスを作ることや、目の前の課題を一つずつ解決していくことだった。
今世でも、他の学院生と比べれば、俺は自分から広く人と関わりに行く方ではない。
セレナたちとはよく話す。
けれど、それも何か目的があって近づいたわけではなかった。
父上は外交が得意ではない。
そして俺にも、たぶん似たところがある。
親子というのは、なんやかんやで似るものなのかもしれない。
そう思うと、父上の言葉が少しだけ自分のことのようにも聞こえた。
「グレイヴ伯爵領とは、あまり良い関係ではないですね」
「ああ。昔から折り合いが良くない」
父上の声が少し重くなる。
「こちらから争いを広げるつもりはない。だが、深く頼る相手でもない。
近いからといって、安心して任せられるわけではないのだ」
「エリアスも、条件が良いものばかりではないと言っていました」
「そうだろうな」
近い相手ほど、頼れれば強い。
けれど、関係が悪ければ、その近さが不安にもなる。
「王都方面は、トラウゼン侯爵領を通る道が大事になるんですよね」
「ああ。王都へ向かうなら、避けて通れない」
「父上は、トラウゼン侯爵と面識があるのですか」
「挨拶程度だ。深い付き合いがあるとは言えない」
父上は正直に答えた。
「通行に大きな問題はない。だが、困った時にすぐ相談できる関係かと問われれば、そうではない」
グレイヴ伯爵領とは近いが頼りにくい。
トラウゼン侯爵領は王都への道として重要だが、関係は深くない。
ヴァレスト公爵家とは縁ができ始めている。
ローデン商会には助けられている。
けれど、商会に頼りきるのも危うい。
外との関係は、ただ増やせばいいものではない。
誰と、どの距離で、何を任せるのか。
そこを考えなければならない。
「ところでリオン」
父上が、少し話題を変えるように言った。
「王立学院では、他の貴族家の者と親しくしているのか」
「はい。
セレナやエドガー、ナディアとはよく話しますね。他にもベイルン辺境公家のガイル、レインフォード家のクラウス、ハーウェイ侯爵家のミラともよく話します」
「ハーウェイ侯爵家か」
父上は少し考えるように目を細めた。
「ハーウェイ侯爵領は、南の王家直轄領の横にある。ハル領から見ても近い方だな」
「そうですね」
「あの辺りは穀物がよく採れる。今すぐではないが、いずれ食料の取引で名前が出るかもしれない」
ミラの顔が頭に浮かんだ。
学院では、普通に話している相手だ。
文化祭でも一緒に動き、試験の結果も一緒に見た。
けれど、その家の領地は、ハル領のこれからと無関係ではないのかもしれない。
「ベイルン辺境公家は、東の警備を担う強い家だ。レインフォード家も、長く王国に仕えてきた家だ」
「はい」
「学院で得た縁は、将来どこで生きるか分からない」
父上はそこで、少し声を低くした。
「ただし、リオン」
「はい」
「友人を取引の道具のように見てはいけない」
俺は顔を上げた。
父上の目は、穏やかだが真剣だった。
「縁は大切にするものだ。利用しようとすれば、すぐに相手にも伝わる」
「……はい」
「学院で得た縁は、まず人として大切にしろ。
その上で、いつか家同士の話になることもある。
それくらいに考えておけばいい」
父上は外交が得意ではないと言った。
けれど、人との付き合い方を知らないわけではない。
むしろ、父上はそこを大事にする人だ。
だからこそ、駆け引きの多い場が苦手なのかもしれない。
「ヴァレスト公爵家との縁も同じだ」
父上は続けた。
「ヴァレスト公爵家との取引は、今のハル領にとってありがたいものだ。
だが、セレナ嬢がお前の同級生だからといって、そこへ甘えるべきではない」
「分かっています」
「礼を失えば、せっかくの縁も壊れる。
外との関係は、品物や道だけでできているわけではない。人との信頼でできている」
信頼。
その言葉が胸に残った。
エリアスの帳面には、取引先の名と数字が並んでいた。
けれど、その向こうには人がいる。
ヴァレスト公爵家。
ローヴェル領。
ローデン商会。
王都直轄領。
グレイヴ伯爵領。
トラウゼン侯爵領。
そして、学院で話している友人たちの家。
全部が、ただの名前ではない。
「父上は、ハル領はまず何を考えるべきだと思いますか」
俺が聞くと、父上は少し考えた。
「まずは、今あるつながりを粗末にしないことだ」
「今あるつながり」
「ローデン商会には助けられている。ヴァレスト公爵家との縁も大事にすべきだ。
ローヴェル領との取引も、始まったばかりなら丁寧に続ける必要がある」
「はい」
「その上で、食料や道に関わる相手を少しずつ見ていく。
焦って広げる必要はない。だが、見ないままでいていい状況でもない」
父上は、先日言っていたことを繰り返すように言った。
「外との関係は、一度こじれると簡単には戻らない」
「はい」
「だから、まず知れ。誰とどうつながっているのか。
どこが弱いのか。誰に頼りすぎているのか。誰とは距離を置くべきなのか」
父上は一つ一つ、確かめるように言った。
「お前はまだ若い。いきなり交渉の場に立つ必要はない。
だが、見ておくことはできる。聞いておくこともできる」
「分かりました」
「そして、忘れるな」
父上は俺を見た。
「領を大きくすることが目的ではない。領で暮らす者たちが、安心して働き、食べ、眠れるようにすることが目的だ」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
外との関係も、結局そこへ戻るのだ。
領民が働き、食べ、眠れるようにする。
そのために、売る相手がいる。
買う相手がいる。
道を通す相手がいる。
礼を尽くす相手がいる。
「父上」
「何だ」
「俺は、外との付き合いを難しく考えすぎていたかもしれません」
「簡単なものではないぞ」
「はい。でも、結局は人との信頼なんですね」
父上は少しだけ笑った。
「それが一番難しいのだがな」
「……確かに」
俺がそう言うと、父上は小さく息を吐いた。
少し疲れが見える。
話しすぎたかもしれない。
「今日はこのくらいにしましょう。母上に怒られます」
「そうだな。母上には勝てない」
父上は穏やかに笑った。
「リオン」
「はい」
「よく見て、よく考えろ。お前が冬休みに見るものは、すべて将来の判断材料になる」
「はい」
俺が頷くと、父上は少し考えるように目を伏せた。
「外との付き合いにも、いくつか形がある」
「形、ですか」
「ああ。書簡を送る。贈り物を添える。挨拶に出る。招かれた場で顔を見せる。
相手を屋敷でもてなす。必要なら、正式な交渉の場を持つ」
父上は一つずつ確かめるように言った。
「最初から大きな交渉をする必要はない。むしろ、いきなり条件の話をすれば警戒される。
まずは、礼を尽くし、相手を見ることだ」
「相手を見る……」
「誰が誰と話しているか。どの家が近いのか。
どの話題に触れ、どの話題を避けているのか。
席順、贈り物、言葉の選び方。そういうものにも意味がある」
父上はそこで、少し苦笑した。
「私は、そういう場が得意ではない。だが、意味があることは分かっている」
父上は枕元に置かれた書簡へ目を向けた。
「実はな、トラウゼン侯爵家から一月後にある冬の集まりへの招待が来ている」
「トラウゼン侯爵家から?」
「ああ。王都方面へ向かう道を考えれば、いずれ関係を深めなければならない相手だ。
私は体調を理由に断るつもりだった」
父上は俺を見る。
「だが、お前に代理で出てもらうのも一つの手かもしれない」
「俺が、ですか」
「交渉をしてこいと言っているわけではない。
まずは挨拶をし、場を見てくればいい。ハル家の嫡男として顔を見せる。
それだけでも意味がある」
急に胸の奥が少し重くなった。
学院の教室で話すのとは違う。
文化祭で客を迎えるのとも違う。
他領の貴族たちが集まる場に、ハル家の者として出る。
それは、俺が今まで避けてきた種類の場所なのかもしれない。
「もちろん、無理にとは言わない」
父上は静かに言った。
「ただ、外との付き合いを知りたいなら、帳面や道を見るだけでは足りない。
人が集まる場を見ることも必要になる」
俺は少し黙った。
父上は外交が得意ではないと言った。
そして俺にも、似たところがある。
だからこそ、避けてはいけないのだと思った。
「行きます」
俺はそう答えた。
「交渉はできません。でも、見てくることはできます」
父上は穏やかに頷いた。
「それでいい。まずは見ることだ。何を話すかより、何を見てくるかを考えろ」
「はい」
「明日、招待状を見せよう。返事の書き方も、一緒に確認する」
書簡。
贈り物。
挨拶。
招かれた場で顔を見せること。
父上が言った外交の形が、急に自分の前に置かれた気がした。
ハル領の外側には、まだ俺の知らない難しさがある。
その最初の一つが、トラウゼン侯爵家の冬の集まりになるのかもしれなかった。
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