第292話 今できることを
寮の自室に戻ってから、俺は机の前に座った。
目の前には、期末試験の範囲表がある。
今やることは一つだ。
俺は試験範囲の紙を広げ、深く息を吐いた。
飛び級するかどうか。
四年Sクラスへ進むのか。
それとも別の道を考えるのか。
その答えは、まだ出さなくていい。
まずは、目の前の試験で結果を出す。
それから考えればいい。
◇
期末試験初日。
王立学院の教室には、いつもより張り詰めた空気が流れていた。
文化祭の時とは違う緊張だ。
机の上には筆記用具だけ。
余計なものは置けない。
ヴィクトルはいつになく真剣な顔で席に座っていた。
「なんか、緊張するな」
「当然でしょう」
セレナが前を向いたまま言う。
「今日は呼び込みでごまかせないもの」
「ごまかしてないだろ」
「声量で押していた場面はあったわね」
「試験前に思い出させるなよ」
ミラが小さく笑う。
「でも、ヴィクトルもちゃんと勉強してたよね」
「まあな。やるだけはやった」
ガイルは腕を組んで目を閉じている。
「寝てるの?」
ナディアが心配そうに聞く。
「復習している」
「目を閉じて?」
「頭の中で」
エドガーが静かに言った。
「試験直前に新しいことを詰め込むよりはいい」
「本当に復習ならね」
セレナが淡々と付け加えた。
クラウスは試験開始までの時間を確認していた。
ライオネルとオルドも、それぞれ集中した表情をしている。
全員が、それぞれの進路を考えた。
でも、今やることは同じだった。
期末試験で、今の力を出す。
ベルンハルト先生が教室へ入ってきた。
手には試験用紙の束がある。
教室の空気がさらに静かになった。
「始める前に一つ言っておく」
先生は俺たちを見渡した。
「今は試験だ。余計なことを考えるな」
短い言葉だった。
けれど、今の俺には十分だった。
「目の前の問題を見ろ。分かることを確実に書け。以上だ」
試験用紙が配られる。
紙の擦れる音だけが教室に響いた。
「始め」
その声と同時に、全員が筆を取った。
初日は筆記試験だった。
歴史。
法制。
基礎魔法理論。
領地運営。
計算を含む実務問題。
◇
午前の試験が終わった時、教室のあちこちから小さな息が漏れた。
「重い……」
ヴィクトルが机に突っ伏す。
「まだ初日よ」
セレナが言う。
「その言い方が一番重い」
ガイルは答案用紙を回収されるのを見ながら、小さく呟いた。
「書けた気はする」
「よかったです」
ナディアがほっとしたように微笑む。
「でも、最後の問題は少し迷いました」
「俺も迷った」
クラウスが言う。
「正解が一つではない問題が多かった」
「だからこそ、理由が見られる」
エドガーが言った。
ミラは手を軽く振っていた。
「筆記だけなのに、手が疲れた」
「それだけ書いたならいいことだろ」
ライオネルが言う。
オルドは少し青い顔をしていたが、それでも頷いた。
「できることは書きました」
俺も同じだった。
完璧かどうかは分からない。
だが、今の自分に書けるものは書いた。
その日は、残りの筆記試験を終えるだけで、頭がかなり重くなった。
寮に戻った後も、翌日の範囲を確認した。
けれど、無理に詰め込みすぎることはしなかった。
必要なことを整理し、早めに休む。
それも試験の一部だ。
翌日。
今日は応用試験と実技試験。
まずは応用試験からだ。
机の上に配られた問題は、昨日よりもさらに実践に近いものだった。
限られた人員と予算で、領内の整備をどの順番で進めるか。
全てを同時にはできない。
何を先に見るか。
何を後に回すか。
後に回す場合、どんな危険が残るか。
ただ理想を書く問題ではなかった。
現実にできる順番を考えなければならない。
俺は、すぐに筆を動かさなかった。
頭の中で、ハル領の各所でのできごとを思い浮かべる。
全部を一度に直せるなら、それが一番いい。
でも、実際にはそんなことはできない。
なら、まず安全に関わる場所。
次に、物流の詰まり。
その次に、教育と記録の仕組み。
ただし、教育は後回しにしすぎると、現場判断がいつまでも育たない。
文化祭で学んだことを思い出す。
自分が全部を見るのではない。
皆が自分の役割を考えられるようにする。
それは、領地でも同じだ。
俺は答案に、優先順位だけでなく、現場で判断できる仕組みを作る必要性も書いた。
応用試験が終わる頃には、頭の中が熱を持っていた。
次は実技試験だった。
訓練場へ移動すると、すでにいくつもの試験用の標的や魔力測定用の石板が並べられていた。
今回の実技試験は魔法が中心となる。
試験では、単に強い魔法を放てばいいわけではない。
魔力制御。
属性の扱い。
補助魔法。
防御。
そして、指示された条件の中で安全に魔法を使えるか。
それが見られる。
ヴィクトルが標的を見て、少し顔を引き締めた。
「こういうのは分かりやすくていいな」
「分かりやすいからこそ、ごまかせないわよ」
セレナが言う。
ガイルは手を握ったり開いたりしている。
「魔力の流れは悪くない」
ナディアが横で言った。
「力を入れすぎないでくださいね」
「分かった」
クラウスは防御の課題を確認している。
エドガーは試験順を見ながら、自分の出番までの時間を計算していた。
ミラは少し緊張しているようだったが、深呼吸して落ち着こうとしていた。
俺の番が来る。
試験官の一人が指示を出した。
「まずは指定位置から標的への魔力弾。威力よりも精度を見る」
「はい」
俺は手を上げる。
強く撃つ必要はない。
必要な分だけ魔力を流す。
浮遊魔法の練習で覚えた感覚が、ここでも役に立った。
押しすぎない。
乱さない。
まっすぐ流す。
魔力弾が標的の中心に当たる。
石板が淡く光った。
次は、防御壁。
一定の衝撃を受け止め、割れないように保つ。
強く張ればいいわけではない。
固すぎれば、衝撃が一点に集まって割れる。
薄すぎれば、そもそも受け止められない。
俺は、浮遊の時と同じように考えた。
押し返すのではなく、受け止める。
力を逃がす。
防御壁に衝撃が当たる。
一瞬、表面が揺れた。
だが、割れない。
試験官が頷く。
「次。補助魔法。指定された石を、魔力で支えたまま台の上へ移動させろ。
落下させた場合は減点」
机の上に、小さな石が置かれている。
研究所の金属片を思い出した。
あれよりは軽い。
だが、試験中に不自然なことはできない。
浮遊魔法そのものではなく、通常の補助魔法として扱える範囲で動かす。
石を少しだけ持ち上げる。
揺れないように支える。
台の上へ動かす。
落とさずに置く。
石が静かに台の上に乗った。
大きな音はしなかった。
派手さはない。
でも、それでいい。
今必要なのは、派手な成果ではない。
試験で求められたことを、確実にやることだ。
実技試験が終わる頃には、体にも頭にも疲れが来ていた。
最後の生徒の試験が終わり、試験官が終了を告げる。
「これで、期末試験の全日程を終了する」
その瞬間、訓練場の空気が一気に緩んだ。
ヴィクトルが両手を上げる。
「終わった……! 俺はやり切った!」
「まだ結果は出ていないわ」
セレナが言う。
「今くらい終わったことを喜ばせろよ」
「喜ぶのはいいわ。浮かれすぎなければ」
「条件付きかよ」
ガイルは真顔で言った。
「腹が減った」
「ガイルさん、それはいつもでは……」
ナディアが困ったように笑う。
「試験で使った分、減った」
「それは分かる気がする」
ミラが頷いた。
「私も何か甘いものが食べたい」
エドガーは試験日程の紙を丁寧に畳んだ。
「全て終わったな」
クラウスも短く頷く。
「後は結果を待つだけだ」
ライオネルは大きく息を吐いた。
「騎士コースに進むにも、ここは落とせないからな」
オルドもほっとした顔をしている。
「まずは、終わってよかった」
俺は訓練場の空を見上げた。
試験は終わった。
結果はまだ分からない。
飛び級できるかどうかも、まだ分からない。
俺がどの道を選ぶのかも、まだ決まっていない。
でも、今の俺にできることは出した。
筆記でも。
応用でも。
実技でも。
父上に言われた通り、目の前のことには向き合えたと思う。
「リオン」
ミラに呼ばれて、俺は顔を向ける。
「どうだった?」
「出せるものは出したと思う」
「そっか」
ミラは少し笑った。
「リオンがそう言うなら、かなりできたんだと思う」
「どうかな。結果を見るまでは分からないよ」
「それはそうだけど」
ヴィクトルが横から言う。
「とにかく今日は終わったんだ。飯だ、飯」
「結局そこなのね」
セレナが呆れたように言う。
ガイルは静かに頷いた。
「正しい判断だ」
「ガイルまで」
ナディアが笑う。
俺も少し笑った。
緊張が、ようやく体から抜けていく。
まずは終わった。
今できることは、やった。
あとは、結果を待つだけだった。
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