第289話 期末テストの足音
文化祭が終わってから、少し時間が経った。
王立学院は、少しずついつもの空気を取り戻していった。
廊下にかかっていた飾り布は外され、教室の前に立っていた出し物の札も片付けられ、学院はいつもの落ち着いた雰囲気だ。
けれど、俺の日常は、あまり落ち着いていなかった。
授業が終われば、まず復習がある。
三年生の授業は、文化祭が終わったからといって待ってくれるわけではない。
むしろ、止まっていた分を取り戻すように、先生たちの説明は少し速くなった気がした。
その合間に、俺は何度か王立研究所へも呼ばれていた。
福嶋亮太の魔法理論。
その資料に書かれている言葉を、研究所の人たちは少しずつ読み解こうとしている。
ただ、文字そのものが読めても、言葉の意味までは簡単に分からない。
「この“重力補正”という表現ですが、これは下へ引く力を消す、という意味でしょうか」
マルティンが資料を指差して聞いてくる。
俺は少し考えてから答える。
「完全に消す、というより、落ちる力を和らげる、に近いと思います」
「和らげる」
「はい。無理に上へ押すと跳ねます。落ちる力を受け止めるように調整した方が、安定しやすいです」
マルティンはすぐにメモを取る。
相変わらず前のめりだ。
ヴァイス所長は、その横で静かに聞いている。
「では、上昇ではなく、落下の制御と考えた方がよいのかもしれませんね」
「その方が近いです」
研究所での実験も、少しずつ進んでいた。
小さな金属片なら、前より長く浮くようになっている。
ただし、人を浮かせる話はしていない。
そこは、学院長とベルンハルト先生との約束通りだった。
研究所の人たちが悪いわけではない。
けれど、研究は進めば外に出る。
その言葉を、俺はまだ忘れていなかった。
そして夜になると、今度は自分の練習がある。
自室では高く浮けない。
だから、誰もいない時間を見計らって、訓練所へ行くことが増えた。
最初は、人ひとり分の高さで止まるだけでも精一杯だった。
少し前へ進もうとすると体が傾き、慌てて風魔法で支え直す。
それでも、何度も繰り返しているうちに、少しずつ感覚がつかめてきた。
足元だけに風を集めると不安定になる。
背中と腰、肩のあたりにも薄く風を回す。
体を持ち上げるというより、落ちないように支える。
そこから、前へ流す。
飛んでいる、というにはまだ頼りない。
でも、浮いたまま進むことはできるようになってきた。
訓練所の端から端まで、ゆっくり移動する。
止まる。
沈む。
着地する。
《浮上不安定:小》
《移動距離:短距離》
《姿勢制御:改善傾向》
《魔力消費:低下》
表示を見るたびに、俺の浮遊魔法の綻びが減っているのが分かる。
最初の頃より、魔力の減り方も少ない。
体の疲れも軽くなった。
慣れてきたおかげで、無駄に力を込めなくなったのだと思う。
それでも、油断すれば危ない。
少し速度を上げようとしただけで、体が横へ流れる。
着地の角度を間違えると、足首に負担がかかる。
高く浮けば浮くほど、落ちた時の危険も増える。
だから、今はまだ低い位置でしか試していない。
ただ、訓練所の中では、そろそろ限界も感じていた。
壁までの距離が短い。
速度を出せない。
風の流れも、室内だと少し読みづらい。
もっと広い場所なら、もう少し自然に動けるかもしれない。
そう思う日が増えていた。
ただ、さすがに一人で勝手に広い場所へ行くのはまずい。
安全に進めるなら、誰かに見てもらう必要がある。
そう考えていた、ある朝のことだった。
ベルンハルト先生が教室に入ってきた。
いつも通り、無駄のない足取りだ。
ただ、黒板の前に立った先生の顔を見て、教室の何人かが何かを察した。
ベルンハルト先生は教室全体を見渡す。
「文化祭が終わって、気が抜けている者もいるだろう」
ヴィクトルが小さく肩をすくめた。
「まだ余韻くらいはあってもいいと思うんですけど」
「余韻は勝手に持っていろ。だが、授業は進む」
ベルンハルト先生は黒板に文字を書いた。
期末試験。
その四文字が見えた瞬間、教室の空気が変わった。
「そろそろ期末テストだ」
「早くないですか?」
ヴィクトルが思わず言う。
セレナが隣でため息をついた。
「早くないわ。文化祭で忘れていただけでしょう」
「言い方」
「事実よ」
ガイルが腕を組む。
「焼き菓子の反省より先に試験か」
「焼き菓子の反省はもう十分しただろう」
エドガーが言う。
「試験範囲の確認の方が大事だ」
ナディアが少し不安そうに手元の帳面を見る。
「また勉強会をした方がよさそうですね」
ミラも頷いた。
「うん。文化祭で少し抜けているところもあると思う」
クラウスは静かに言った。
「早めに範囲を分けた方がいい」
文化祭の時と同じだ。
気づけば、皆がそれぞれ役割を考え始めている。
俺はその様子を見て、少しだけ笑いそうになった。
ベルンハルト先生は、黒板に試験日程を書きながら続ける。
「文化祭後だからといって範囲が軽くなるわけではない。むしろ、ここで気を抜けば落とす」
教室に小さな緊張が走る。
「各自、準備しておけ」
「はい」
全員の返事がそろった。
授業が終わった後、ベルンハルト先生に呼ばれた。
「ハル。少し残れ」
「はい」
教室の片付けをしていたヴィクトルがこちらを見る。
「何かやったのか?」
「まだ何も」
「まだ?」
セレナが聞き逃さなかった。
「言い方が怪しいわね」
「本当に何もしてないよ」
ミラが少し笑う。
「リオンの場合、何もしていないの基準が怪しいから」
否定しきれない。
クラスメイトたちが出ていった後、俺はベルンハルト先生の前に立った。
先生は試験日程の紙を机に置く。
「期末テストの結果次第では、お前はまた先へ進むことも考えられる」
「飛び級、ですか」
「ああ」
予想はしていた。
それでも、実際に言われると少し胸の奥が重くなる。
以前の俺なら、迷わず考えただろう。
早く先へ進めるなら、その方がいい。
学べることがあるなら、早く学びたい。
でも今は、単純にそう思えなかった。
三年Sクラスで文化祭をやった。
エドガー、クラウス、ナディア、ミラ、セレナ、ガイル、ヴィクトル。
それぞれが動き、一つの出し物を最後まで回した。
あの時間には、授業とは違う学びがあった。
もしまた先へ進めば、その時間から離れることになる。
「迷っている顔だな」
ベルンハルト先生が言った。
「はい」
「珍しいな。前なら、もっと早く先へ進むことを考えていた」
「そうですね」
俺は少しだけ笑った。
「文化祭で、今のクラスで学べることも多いと思ったので」
先生は黙って聞いていた。
「もちろん、先へ進むことも大事だと思います。
でも、ただ早く進めばいいわけではないのかもしれない、とも思っています」
「悪い考えではない」
先生は短く言った。
「ただし、選べる立場にいるなら、選ぶだけの結果は出せ」
「はい」
「飛び級するかどうかは、その後で考えればいい」
「分かりました」
試験。
飛び級。
研究所。
浮遊魔法。
文化祭が終わっても、次に考えることはいくらでもある。
先生は少しだけ目を細めた。
「それと、最近、夜に訓練所を使っているな」
心臓が一瞬、嫌な音を立てた。
「……はい」
「浮遊魔法か」
「はい」
「一人で高く飛んではいないな?」
「高くは飛んでいません」
「飛んではいるんだな」
俺は言葉に詰まった。
ベルンハルト先生はため息をつく。
「やるなとは言わん。だが、広い場所で試したいと思い始めているなら、一人で判断するな」
完全に読まれていた。
「……ちょうど、そう考えていました」
「だろうな」
先生はあまり驚いていない。
「期末テストが終わったら、時間を取る。広い場所で試すなら、俺が見る」
「いいんですか?」
「放っておく方が危ない」
その言い方は、ベルンハルト先生らしかった。
「ありがとうございます」
「礼を言う前に、まず試験だ」
「はい」
「空を飛ぶ前に、地に足をつけて点を取れ」
思わず笑いそうになった。
でも、先生は真顔だった。
「分かりました」
教室を出る頃には、廊下に夕方の光が差していた。
文化祭の飾りはもうない。
いつもの王立学院に戻っている。
それでも、俺の中には、文化祭で感じたことがまだ残っていた。
一人ではできないことがある。
仲間と進むことで、見えるものがある。
でも、先へ進むためには、自分自身の力も必要だ。
まずは、期末テスト。
その足音は、思っていたより近くまで来ていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
続きが気になったら、ブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




