第286話 文化祭、開幕
文化祭当日の朝。
王立学院の空気は、いつもの朝とはまるで違っていた。
廊下には飾り布がかかり、教室の前にはそれぞれの出し物を知らせる札が立っている。
どこかの教室からは楽器の音が聞こえた。
別の場所では、劇の衣装を着た生徒が慌てて走っている。
魔法の光で看板を投影しているクラスもあった。
さすが王立学院の文化祭だ。
派手なものは、いくらでもある。
その中で、三年Sクラスの教室には、大きな魔法の飾りはない。
入口には、手書きの案内札。
中には、輪投げ、的当て、札合わせ、重さ当て。
景品交換所には、飴と焼き菓子、羽根ペンと良い紙のノート。
魔法を使わない遊び場。
そう書いた札を見て、通りかかった生徒が少し首を傾げた。
「三年Sクラスなのに、魔法なし?」
「子ども向けかな」
「地味だな」
小さな声だった。
でも、聞こえた。
ヴィクトルの眉がぴくりと動く。
「地味って言われたぞ」
「騒がないこと」
セレナが即座に言った。
「まだ遊んでもいない人の感想でしょう」
「まあ、そうだけどさ」
「それに、地味かどうかはお客が決めることよ」
セレナはそう言って、受付の机を整えた。
エドガーは点数札の束を確認している。
クラウスは床の印と待機列の位置を見ていた。
ナディアは説明係の机に立ち、ミラは景品交換所の包みを並べる。
ガイルは重さ当ての袋を確認し、ヴィクトルは入口の横で呼び込みの文句を小さく練習していた。
俺は鞄から一通の手紙を取り出した。
朝、寮に届いていたものだ。
父と母からだった。
父の体調がまだ戻りきらず、今年の文化祭には来られない。
母も父に付き添うため、屋敷に残る。
そんな内容だった。
「そっちも大変だろうに。気を遣ってくれて嬉しいな」
手紙の最後には、文化祭の成功を祈っている、と母の文字で書かれていた。
俺は手紙を折り、鞄にしまう。
「リオン?」
ナディアが気づいた。
「大丈夫?」
「うん。父と母から手紙が来ていた」
「来られないのですか?」
「父の体調がまだ戻りきっていないから」
ナディアは少し表情を曇らせた。
「そうですか……」
「でも、無理して来られるよりはいい」
そう言うと、ミラが静かに頷いた。
「その方が安心だね」
俺も頷く。
寂しさはある。
でも、今日は文化祭だ。
この教室を止めるわけにはいかない。
やがて、鐘が鳴った。
文化祭の始まりを知らせる鐘だ。
「始まったな」
ヴィクトルが言う。
「はい」
ナディアが少し緊張した声で答えた。
最初の客は、すぐには来なかった。
廊下には人が多い。
けれど、多くは魔法の展示や劇の方へ流れていく。
入口の前で立ち止まる人はいる。
でも、札を見て、そのまま通り過ぎる人も多かった。
「やっぱり地味に見えるんだな」
ヴィクトルが小さく言う。
流れはできている。
あとは、最初に遊んでくれる人が必要だった。
しばらくして、小さな子どもを連れた女性が入口の前で足を止めた。
子どもは輪投げの棒を見ている。
ナディアがすぐに笑顔で近づいた。
「よろしければ、遊んでいかれませんか? 受付で点数札をお渡ししています」
女性が少し迷う。
「小さい子でもできますか?」
「はい。小さいお子様用もあります」
子どもが母親の手を引いた。
「やる」
それが、最初の客だった。
受付で料金を受け取り、点数札を渡す。
エドガーが釣銭を確認し、俺が全体の流れを見る。
ナディアが短く説明する。
最初は輪投げ。
子どもが輪を投げる。
一投目は手前に落ちた。
二投目は棒に当たって跳ねた。
三投目で、近い棒にかかった。
「入った!」
子どもが嬉しそうに声を上げる。
その声に、廊下を歩いていた人が少しこちらを見た。
次は的当て。
布玉が的の端に当たる。
ヴィクトルが少し声を張った。
「惜しい! あと少しで真ん中だ!」
「騒がしくしすぎない」
セレナが横から言う。
「今のは盛り上げだって」
「少し抑えなさい」
そのやり取りを聞いて、女性が少し笑った。
札合わせでは、子どもより母親の方が真剣になった。
「あら、さっきの鳥はこっちだったかしら」
ミラが横で楽しそうに見ている。
「大人の方の方が迷うこともあります」
最後の重さ当てでは、ガイルが三つの袋を並べた。
「同じように見えるが、重さが違う」
子どもは両手で一つずつ持つ。
「これ!」
選んだ袋は、正解だった。
ガイルが大きく頷く。
「当たりだ」
子どもは景品交換所で飴を受け取り、さらに中得点の焼き菓子を一つもらった。
小さく包まれた焼き菓子を大事そうに握る。
「また来たい」
そう言って、親子は教室を出ていった。
その後だった。
廊下の向こうから、別の子どもが走ってきた。
「ここ、輪投げできるって!」
その後ろから、数人の生徒も顔を出す。
「焼き菓子もらえるって本当?」
「重さ当てって何?」
ヴィクトルがぱっと顔を明るくした。
「ほら来た!」
「落ち着いて」
セレナが言う。
「受付から案内しなさい」
「分かってる」
そこから少しずつ、人が増え始めた。
派手な魔法はない。
けれど、一度遊んだ人が外で話す。
輪投げが意外と難しい。
的当ては惜しいと悔しい。
札合わせは大人でも迷う。
重さ当ては見た目だけでは分からない。
そして、手作りの焼き菓子がもらえる。
それが、少しずつ広がっていった。
昼前には、入口の前に列ができていた。
それでも事前に決めた流れは、きちんと機能していた。
「魔法なしでも、意外と燃えるぞ!」
「“意外と”は余計よ」
「じゃあ、魔法なしでも燃えるぞ!」
「少し良くなったわ」
セレナの評価は厳しい。
けれど、ヴィクトルは楽しそうだった。
その頃から、親世代も少しずつ顔を出し始めた。
最初に来たのは、セレナの父であるヴァレスト公爵だった。
周囲の空気が少し変わる。
セレナは姿勢を正した。
「お父様」
「よく準備したようだな」
ヴァレスト公爵は、派手な装飾ではなく、まず受付と人の流れを見た。
「客を迷わせないようにしているのか」
「はい。入口で受付と説明を済ませ、その後に遊んでもらいます」
「景品交換所は出口側か」
「人が止まる場所を分けました」
ヴァレスト公爵は小さく頷いた。
「よくできているじゃないか」
短い言葉だった。
けれど、セレナの表情が少しだけ柔らかくなった。
次に、ヴィクトルの父ローデンが来た。
ローデンは受付の箱と釣銭の小箱を見て、目を細めた。
「売上と景品の減りは見ているか?」
ヴィクトルが一瞬だけ詰まる。
「ええと……」
エドガーが答えた。
「点数札の枚数と、景品の残数は記録しています」
ローデンは頷いた。
「客が増えた時ほど、数にはご注意ください」
「「はい」」
ヴィクトルも慌てて頷いた。
クラウスの父、レインフォード男爵は、的当ての場所を静かに見ていた。
「投げる者、待つ者、拾う者を分けているのか」
「はい」
クラウスが答える。
「布玉でも、顔に当たれば危ないので」
「いい判断だ」
親子の会話は短い。
けれど、それだけで十分伝わるものがあった。
ガイルの父であるベイルン辺境公と、その夫人も来た。
辺境公は重さ当ての袋を持ち上げ、面白そうに笑った。
「これは見た目だけでは分からんな」
「そうだ」
ガイルが少し得意そうに言う。
夫人は焼き菓子の包みを見た。
「手作りなのね。包みも丁寧だわ」
ガイルは少し照れたように目をそらした。
「焼き加減は見た」
「そう。あなたらしいわ」
ミラの父であるハーウェイ侯爵も、しばらくして顔を出した。
彼は景品の包みと案内札を見た。
「よくできているじゃないか」
ミラが笑う。
「見た目だけじゃなくて、お客が迷わないようにしたの」
「それが大事だ」
親世代は、それぞれの子どもの仕事ぶりを見て、また別の出し物へ向かっていった。
◇
どの親も、学院のあちこちを回っている。
校舎の中にいる大人たちを見ると、改めて思う。
ここには、貴族が多い。
商会の関係者もいる。
親同士が挨拶を交わし、廊下の端で短く話をしている。
文化祭は、生徒だけの行事ではない。
そんなことを考えていた時、ミラが景品交換所からこちらを見た。
「リオン」
「どうした?」
「焼き菓子セット、減りが早い」
エドガーも帳面を見る。
「このままだと、午後までもたない」
俺は景品の残りを確認した。
参加賞の飴はまだある。
高得点景品の羽根ペンとノートは数を決めている。
問題は、中得点の焼き菓子セットだ。
思ったより、中得点を取る客が多い。
それに、焼き菓子を目当てに来る人も増えている。
「追加で作るしかないな」
俺が言うと、ガイルがすぐに反応した。
「焼くか」
「調理室の空きがあるか確認する必要がある」
エドガーが言う。
ナディアが手を挙げた。
「食堂の方に確認してきます」
「俺も行く。ミラ、包み紙は残ってる?」
「ある。追加分も包めると思う」
「じゃあ一緒に来てくれる?」
「分かった」
セレナが受付の方を見た。
「こちらは私とクラウスに任せて。ヴィクトル、呼び込みは少し抑えなさい」
「分かった。焼き菓子が足りない間は、少し控えめにする」
「最初からそうしてほしいくらいね」
「それは無理だな」
軽口を背に、俺とミラは教室を出た。
ナディアは先に食堂の人を探しに向かっている。
俺たちは包み紙と空き箱を持って、調理室へ向かった。
廊下は人であふれていた。
生徒だけではない。
貴族の夫人たちが静かに挨拶を交わしている。
商会らしき男たちが、展示を見ながら何かを話している。
年配の貴族が、若い生徒に声をかけている。
それぞれが文化祭を見に来ている。
でも、それだけではない。
「王立学院って、ただ学ぶ場所じゃないんだな」
俺が言うと、ミラが横を向いた。
「急にどうしたの?」
「貴族も商会の人も、ただ子どもの出し物を見に来ているだけじゃない。
顔を合わせて、話して、つながりを作っている」
「そうね」
ミラは自然に頷いた。
「私の父も、全部の出し物を真剣に見ているわけじゃないと思う。
誰が来ていて、誰と話せるかも見ているはず」
「やっぱりそうか」
「うん。王立学院は、そういう場所でもあるから」
俺は少し黙った。
廊下の先で、ヴァレスト公爵が別の貴族と話しているのが見えた。
ローデンも、商会関係者らしき人と短く言葉を交わしている。
ベイルン辺境公は、別の上級生の展示を見ていた。
それぞれが親として来ている。
でも、それぞれの立場も背負っている。
「そう考えるとさ」
「うん」
「俺は、求められている役割をちゃんと果たせているのかなって思う」
ミラが少し目を丸くした。
「リオンが?」
「うん」
「本気で言ってる?」
「本気だけど」
ミラは少し呆れたように息を吐いた。
「リオンって、本当に自覚がないよね」
「何が?」
「自分がどれだけ見られているか。どれだけ話題にされているか」
「そんなに?」
「そんなに、だよ」
ミラは少し笑った。
「王立学院で主席入学して、いろいろな問題に関わって、研究所にも呼ばれている。
文化祭でも、結局こうして全体を見て動いている」
「でも、それが役割を果たせていることになるのかな」
「なると思う」
ミラはまっすぐ前を見たまま言った。
「少なくとも、リオンは自分が目立つことだけを考えていない。
何が必要か、誰が困るか、どうすればうまく回るかを考えてる」
「それは、ただ気になるだけだよ」
「そういうところだと思う」
「え?」
「そういうふうに考えるところが、リオンらしいってこと」
ミラの声は、いつもより少し柔らかかった。
俺は返す言葉に迷った。
その時、調理室の前に着いた。
ナディアが食堂の人と話している。
「少しだけなら使わせてもらえるそうです!」
「助かった」
俺が言うと、ガイルも遅れてやってきた。
「焼くなら俺もいる」
「来ると思った」
ミラが笑う。
追加の焼き菓子作りは、そこから一気に始まった。
ガイルは焼き加減を見て、ナディアは小分けの数を確認する。
ミラは包み紙を並べ、俺は教室に戻す時間を計算した。
焼き上がった菓子を冷まし、包む。
量は多くない。
でも、午後を乗り切るには足りるはずだ。
「これなら間に合う」
俺が言うと、ミラが包みを一つ持ち上げた。
「見た目も大丈夫」
ガイルが頷く。
「味も大丈夫だ」
「味見したの?」
ナディアが聞く。
「一つだけだ」
「本当に一つですか?」
「……一つ半」
ミラが笑った。
「半分は誰の分?」
「確認用だ」
「それを味見と言うのよ」
調理室に小さな笑いが起きた。
教室に戻ると、列はさっきより長くなっていた。
それでもセレナとクラウスがうまく流れを分けている。
「戻った!」
ヴィクトルがこちらを見る。
「焼き菓子、間に合ったか?」
「うん。多めに用意したから午後は持つと思う」
ミラが追加分を景品交換所に並べる。
包みが増えると、景品交換所の見た目も少し華やかになった。
午後になると、また客が増えた。
けれど、朝のように慌てることはなかった。
朝には、地味だと言われていた。
けれど今、三年Sクラスの教室には笑い声がある。
魔法を使わない遊び場。
それは、思っていたよりもずっと多くの人の目に触れながら、文化祭の中に自分たちの場所を作り始めていた。
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