第283話 小さな浮遊実験
数日後の放課後。
三年Sクラスの教室は、文化祭の準備で少し騒がしくなっていた。
黒板には、遊びごとの担当が書かれている。
輪投げ。
的当て。
札合わせ。
重さ当て。
景品交換。
エドガーは点数表を見直していた。
ナディアは、小さい子向けの説明文を短くしている。
ミラは、景品の包みに使う紙と紐を並べていた。
ガイルは、重さ当て用の袋を手に取っている。
ヴィクトルは呼び込みの言葉を考えていた。
「高得点を取れば羽根ペンだ! 挑戦者求む!」
「少し騒がしいわ」
セレナが即座に言う。
「まだ本番じゃないだろ」
「本番でやりそうだから言っているの」
クラウスは机の配置を見ていた。
「景品交換所は、もう少し出口寄りがいい」
「やっぱり?」
「人が止まる」
俺は頷いた。
本当は、もう少し確認したかった。
でも、今日は研究所へ行く日だ。
ベルンハルト先生も同行する。
俺が鞄を持つと、セレナがこちらを見た。
「行くのね」
「うん。研究所に」
「文化祭の方は進めておくわ」
「助かる」
エドガーも顔を上げる。
「点数表は僕が見る」
ナディアが続けた。
「説明文も進めておきます」
ミラが笑う。
「景品の包みは任せて」
ガイルは袋を持ったまま言った。
「重さ当ては見る」
ヴィクトルが胸を張る。
「呼び込みは任せろ」
セレナがすぐに言う。
「それは私が確認するわ」
「信用ないな」
「ないわけではないわ。放っておけないだけよ」
教室に小さな笑いが起きる。
少しだけ、肩の力が抜けた。
全部を自分で見なくても、準備は進む。
そう思えたところで、教室の扉が開いた。
ベルンハルト先生が入ってくる。
「ハル。時間だ」
「はい」
俺は鞄を持った。
ヴィクトルが先生を見る。
「先生も行くんですか?」
「ああ」
ベルンハルト先生は短く答えた。
「ハル一人で行かせるには、話が大きすぎる」
教室が少し静かになった。
俺は何も言わず、先生の後について教室を出た。
研究所へ向かう道中、ベルンハルト先生はしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「今日は金属片までだ」
「はい」
「自分を浮かせる話はするな」
「はい」
「聞かれても、必要以上に答えるな」
「分かっています」
先生がこちらを見た。
「その返事が早い時ほど、少し怪しい」
「今回は本当に分かっています」
「ならいい」
少し間が空く。
先生は前を向いたまま続けた。
「研究所の者が悪人とは限らない。だが、研究は進めば外へ出る」
「はい」
「出たものは、戻せない」
その言葉は重かった。
俺は昨日、学院長室で少しだけ浮いた。
ほんの本一冊分。
それだけで、ベルンハルト先生は戦の話をした。
今日は、それを研究所には見せない。
見せるのは、小さな金属片だけだ。
王立研究所に着くと、前と同じように白い石の廊下を進んだ。
案内された部屋には、ヴァイス所長とマルティンが待っていた。
「来てくれて助かるよ、リオン君」
ヴァイス所長は落ち着いていた。
一方で、マルティンは明らかに前のめりだった。
「前回の術式を少し調整しました」
そう言って、すぐに資料を広げる。
ベルンハルト先生が無言でそれを見る。
マルティンの動きが少しだけ止まった。
ヴァイス所長が穏やかに言う。
「本日は、学院側の立ち会いのもとで進めます。
危険がある場合はすぐに中止します」
「それなら」
ベルンハルト先生が短く言った。
「続けてくれ」
机の中央には、小さな金属片が置かれていた。
前回よりも小さい。
周囲には透明な防護板が立てられている。
それを見て、俺は少し安心した。
研究所も、前回の危うさは分かっているらしい。
ただ、部屋の空気は熱い。
成果を見たい。
進めたい。
そんな気配がある。
マルティンが術式を起動した。
金属片が小さく震える。
ゆっくりと浮いた。
だが、すぐに片側へ傾く。
《浮上成功》
《保持不安定》
《魔力流偏り》
《反発発生前兆》
「止めてください」
俺が言うと、マルティンはすぐに術式を切った。
金属片が机に落ちる。
軽い音がした。
ベルンハルト先生の目が鋭くなる。
「今のままだと、前回と同じです」
俺は言った。
「浮かせる力が片側に寄っています」
マルティンは唇を引き結ぶ。
「やはり、保持が足りない……」
「上に押すだけだと跳ねます。浮かせる力と、保つ力を分けて考えた方がいいと思います」
「保つ力」
「下から押し続けるというより、落ちようとするのを少しずつ受け止める感じです」
言いすぎていないか。
そう思って、ちらりとベルンハルト先生を見る。
先生は何も言わない。
だが、こちらを見ている。
続けていい範囲か、俺自身で考えろということだろう。
マルティンはすぐに術式を書き直した。
ヴァイス所長も横から確認する。
「急がなくていい。まずは跳ねさせないことだ」
「はい」
二度目。
金属片が震えた。
しかし、浮かない。
《浮上未達》
《出力不足》
マルティンが悔しそうに息を吐く。
「弱すぎました」
「でも、跳ねるよりはいいです」
俺が言うと、ヴァイス所長が頷いた。
「安全な失敗だな」
ベルンハルト先生も、少しだけ表情を緩めた。
「失敗にも種類がある、ということか」
「はい」
三度目。
マルティンは、前より慎重に術式を動かした。
金属片が震える。
今度は、すぐには跳ねない。
机の上から、ほんの少し離れた。
指一本分にも届かない高さ。
けれど、浮いている。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
《短時間保持》
《反発抑制》
《継続不安定》
四呼吸目に、金属片は静かに落ちた。
跳ねなかった。
転がりもしなかった。
ただ、机の上に戻った。
部屋の中が静かになる。
マルティンが小さく呟いた。
「……浮いた」
ヴァイス所長も、金属片をじっと見ていた。
「前回とは違うな」
「はい。今の方がずっと安全です」
俺はそう言った。
ただ、成功と言い切るにはまだ遠い。
数呼吸しか保たない。
少しでも力がずれれば落ちる。
人に使うには危険すぎる。
ベルンハルト先生が低く言った。
「これでも、人に使うには遠いな」
「はい。物だからできただけです。人にはまだ危険です」
嘘ではない。
俺自身を少し浮かせることはできる。
でも、安全に使えるとは言えない。
マルティンは机に手をついた。
「ですが、福嶋亮太の魔法理論が、実際に再現できる可能性は示せました。
安全性を確認できれば、研究成果として発表できます」
発表。
その言葉で、部屋の空気がまた変わった。
ベルンハルト先生が黙ってマルティンを見る。
マルティンは、その視線に気づいて少し声を抑えた。
「もちろん、今すぐという意味ではありません」
ヴァイス所長が静かに言う。
「発表はまだ早い。再現性と安全性を確認してからだ」
俺は金属片を見た。
確かに、前より進んだ。
でも、危うい。
「発表するなら」
俺は言った。
「浮いたことだけじゃなくて、失敗した時の危険も一緒に出してください」
マルティンがこちらを見る。
「危険も、ですか」
「はい。浮いたところだけ真似すると、跳ねたり落ちたりします。
物ならまだいいですが、人に使えば事故になります」
ヴァイス所長はゆっくり頷いた。
「当然だな」
ベルンハルト先生も言う。
「成果だけが一人歩きすれば、ろくなことにならん」
マルティンは少し黙った。
悔しそうではある。
だが、反発はしなかった。
「……分かりました。危険性も記録します」
その返事を聞いて、俺は少しだけ息を吐いた。
今日、研究所は一歩進んだ。
金属片は、前より静かに浮いた。
それは確かな成果だ。
でも、同時に危険も見えた。
研究所は成果を見ている。
ベルンハルト先生は危険を見ている。
俺は、その両方を見なければならないのだと思った。
研究所を出る頃には、外は少し暗くなっていた。
鞄の中には、文化祭の紙が入っている。
教室では、きっとまだ誰かが景品の包みや点数表を見ている。
こちらでは、小さな金属片が数呼吸だけ浮いた。
文化祭も、浮遊魔法も、ただ面白いだけでは済まない。
俺は研究所の門を出ながら、さっきの金属片を思い出した。
指一本分にも届かない、小さな浮遊。
それでも、前よりは確かに進んでいた。
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