番外編① あの子が作った流れ ~リオン父~
最近、少しだけ身体が軽い。
朝、目を開けた時の息苦しさが前より薄い。
階段を上がっただけで胸が焼けるように痛むことも減った。
侍医は、食事が良くなったことと、無理な気苦労が減ったことが大きいのだろうと言っていた。
それを聞いた時、私は思わず苦笑した。
気苦労が減った。
まったく、その原因を取り除いたのが十二歳の息子だというのだから、領主として情けないにもほどがある。
窓の外では、屋敷の中庭を風が抜けていく。
少し前までなら、その音を聞くだけで胃の奥が重くなった。
税は足りない。
倉は減る。
村は痩せる。
自分の身体はいうことを聞かない。
何かが狂っているとわかっていても、それがどこから崩れているのか見えなかった。
領主でありながら、自分の領地の綻びを掴めないでいたのだ。
だが今は違う。
北村には若い者が戻り、南村の倉から腐臭が薄れた。
石切り場は、前のような死んだ目の労働場ではなくなった。
帳面の数字も、わずかずつだが確かに変わり始めている。
それは私が作った流れではない。
あの子が作った流れだ。
◇
リオンは、生まれた時から妙に静かな子だった。
よく泣かない子だった、という意味ではない。
赤子らしく泣きもしたし、熱を出せば苦しそうにもした。
だが、何というか――目が違った。
こちらを見る目が、赤子のそれではなかった。
じっと、何かを確かめるように見るのだ。
最初にそれを口にした時、エマは笑った。
「あなた、親ばかが早すぎるわ」
そう言われて、私も笑った。
笑ったが、心のどこかに違和感は残っていた。
一歳になるころには、本を触りたがるようになった。
もちろん読めるわけではない。
だが絵本ではなく、私が机に置いていた領地記録や古い家系書のほうへ手を伸ばす。
乳母が慌てて取り上げようとすると、ひどく不満そうな顔をしたものだった。
五歳になるころには、その違和感はもうはっきりしていた。
大人の会話を聞いている。
しかも、ただ音として聞いているのではない。意味を取っている。
ある日の夕食で、家臣の一人が「北倉庫の塩がまた減っておりますな」と軽くこぼしたことがあった。
その時、隣でスープを飲んでいたリオンが何でもない顔で言った。
「減ってるなら、誰が出したか見ればいいのに」
食卓が、一瞬止まった。
もちろん、子どもの口出しだ。
その場では皆、笑って流した。
だが私はその夜、妙に寝つけなかった。
子どもらしい無邪気さというより、話の芯を先に掴む物言いだったからだ。
庭師が手を抜いていること。
使用人同士のぎこちない空気。
家臣の一人が妙に父親らしい顔で私に近づいてくる時と、そうでない時の差。
リオンは、幼いころからそういうものによく気づいていた。
頼もしいと思った。
同時に、少しだけ怖くもあった。
子どもらしくない、というのは、親にとって必ずしも喜ばしいことばかりではない。
この子は何を見ているのだろう。
どこまでわかっているのだろう。
そう考えることが、一度や二度ではなかった。
◇
私が自分の身体に不安を覚えるようになったのは、リオンがまだ小さい頃からだ。
元から丈夫な方ではなかった。
だが、年を追うごとに疲れが抜けにくくなり、冬を越えるたびに何かが削れていく感覚があった。
領主の仕事は待ってくれない。
村は季節ごとに問題を起こし、家臣は判断を求め、王都からの書状は遅れた分だけ面倒を連れてくる。
身体が思うように動かなくなるたび、私は一つの考えを振り払えなくなった。
――もしかしたら、リオンが若いうちにこの座を渡すことになるかもしれない。
それは本来、父として願うような未来ではなかった。
だが現実として、考えざるを得なかった。
だからこそ、私はあの子に期待していた。
賢い。
落ち着いている。
人を見る目もあるように見える。
領地を背負うには、剣の腕だけでは足りない。
頭が要る。
耐える力が要る。
見誤らない目が要る。
そういう意味で、リオンには確かな素質があると思っていた。
それだけに――スキル授与の日の落胆は大きかった。
《綻びの目》。
神官にその名を告げられた瞬間、私は胸の奥から冷たいものが落ちるのを感じた。
知っていたからだ。
そのスキルが、不遇とされてきたことを。
見えるだけ。
役に立たない。
人に疎まれる。
そういう話ばかりを聞いてきた。
領地は傾き、私の身体は弱り、ようやく見出した希望の先で、息子が「ハズレ」を引いた。
あの時の私は、父親である前に、弱った領主だったのだと思う。
だから、口にしてしまった。
これでハル家も終わりか、と。
今でも、あの一言は胸に刺さっている。
息子は何も悪くない。
むしろ、自分の力で立つ前の子どもに対して、私は先に膝を折ったのだ。
あの時のリオンの顔を、私はよく覚えている。
悲しみも、怒りも、驚きもなかった。
ただ静かに、何かを決めたような顔をしていた。
それが後になって思えば、あの子が動き始めた瞬間だったのだろう。
◇
毒のことを聞かされた時、最初は信じられなかった。
自分は病で弱っているのだと思っていた。
食が細くなり、身体が重くなり、息が切れる。
全部、自分の弱さと年齢のせいだと思っていた。
それを、息子が見抜いた。
しかも、ただ「おかしい」と言うだけではなかった。
倉の横流し。
帳簿の綻び。
家臣バスクの不正。
それらが一本につながっているところまで見ていた。
私が長年そばに置き、頼りにしていた男の裏を、十二歳の息子が先に見抜いたのだ。
情けなかった。
悔しかった。
同時に、救われた。
あの時、私は初めてはっきり理解した。
《綻びの目》はハズレではなかった。
ハズレだったのは、その目の意味を理解できなかった大人たちの方だ。
リオンは、スキルを授かってから一度も悲観しなかった。
それどころか、まるで前からそう決めていたかのように、次々と動き始めた。
北倉庫。
石切り場。
北村。
南村。
青葉草。
初荷。
王都。
あの子は、一つ綻びを見つけるたび、その先へ進んだ。
ただ悪を暴くだけではなく、暴いた後にどう立て直すかまで考えていた。
私はその背中を見ながら、何度も思った。
私は、本当にこの子の父親なのか、と。
血筋としてではない。
器としてだ。
だが、だからこそ立ち止まるわけにはいかなかった。
息子が作った流れを、父である自分が絶やすわけにはいかない。
◇
最近は、食卓に並ぶものも少しずつ変わった。
以前より、まともな肉と野菜が出る。
南村から届く豆の質も良くなった。
青葉草で香りをつけた肉料理が出た日には、思わず箸が進んだ。
侍医は「栄養が戻れば体も応えます」と言った。
たしかにその通りなのだろう。
だが私は知っている。
食生活だけではない。
領地の流れそのものが少しずつ良くなっているから、私の身体も前よりましになっているのだ。
人は、食うもので生きる。
だが、何を背負っているかでも生きる。
終わる領地の領主でいるのと、立て直し始めた領地の領主でいるのとでは、同じ身体でも重さが違う。
私は今、ようやくもう一度立てるところまで戻ってきた。
リオンが、そこまで引き上げた。
だとしたら次は、私の番だ。
あの子はいずれ王立学院へ行くかもしれない。
王都で学び、もっと大きな理を知ることになるだろう。
それはハル領にとって必要なことだ。
だが同時に、あの子が領を離れる時間でもある。
だからこそ、その間に流れを止めないだけの土台を、私が作らなければならない。
あの子が作ったこの勢いを、絶やさない。
領主として。
そして父として。
窓の外では、北村から届いた青葉草が中庭の一角で干されている。
風が吹くたび、青い香りが少しだけ執務室まで届いた。
あの草も。
石切り場の青輝石も。
南村の倉も。
全部、息子が動かした流れの中にある。
私は椅子からゆっくり立ち上がる。
まだ、少し足は重い。
だが以前のように、立つこと自体が億劫ではなかった。
「ガルド様?」
入ってきた使用人が、少し驚いた顔をする。
「どうされましたか」
「いや」
私は中庭の方を見たまま答えた。
「今日の帳面をもう一度持ってきてくれ」
使用人がうなずき、すぐに下がる。
私にはもう、ただ息子を眺めているだけの時間はない。
あの子が作った流れを、領地の川に変える。
細い糸のような変化で終わらせず、誰にも簡単には止められない流れにする。
それが、今の私の役目だ。
リオンは確かに、子どもらしくない。
だが、それでいい。
あの子が子どもらしくなく立ったのなら、父である私は、父親らしく甘えるのではなく、領主らしく立たなければならない。
私は小さく息を吐き、胸の奥で一つだけ言葉を固めた。
――あの子が作った流れを、絶対に絶やさない。




