第278話 忙しくなりそうだ
寮の部屋に戻ってからも、足の裏に残った感覚が消えなかった。
訓練所で浮いたのは、ほんの一瞬。
高さも、本一冊分くらいだった。
それでも、確かに床から離れた。
俺は部屋の扉を閉め、しばらく立ったまま足元を見た。
今日はここまで。
訓練所では、そう思った。
でも、頭の中ではまだ術式が動いている。
福嶋亮太の理論で浮かせる。
風魔法で支える。
浮かせる、保つ、揺れを抑える。
その三つを、同時に扱う。
「……一回だけ」
俺は小さく呟いた。
寝台の横に立つ。
壁にも近い。
もし崩れても、すぐ手をつける。
高く浮くつもりはない。
飛ぶつもりもない。
ただ、さっきの感覚をもう一度確かめるだけだ。
足裏に魔力を流す。
下から強く押すのではない。
体を少しだけ浮かせる。
そこに、細い風を足す。
一度目。
体は軽くなったが、床からは離れなかった。
二度目。
かかとが少し浮いた。
すぐに落ちる。
《浮上不完全》
《保持不足》
《風圧弱》
「風が弱いか」
強くすればいいわけではない。
風で吹き上げれば、浮遊ではなく跳ね上げになる。
小石と同じだ。
支えるための風。
揺れを抑えるための風。
俺は息を整えた。
三度目。
足裏の重さが薄くなる。
視線が、ほんの少し上がった。
両足が床を離れる。
今度は、すぐには落ちなかった。
一呼吸。
二呼吸。
足が床に戻る。
「……できた」
思わず声が漏れた。
今のは、訓練所より長かった。
倒れていない。
跳ねてもいない。
ただ、浮いて、戻った。
《浮上成功》
《短時間保持》
《風圧補助》
《制御継続困難》
まだ短い。
でも、進んでいる。
俺はもう一度、足元を見る。
「もう一回だけ」
それが、よくなかった。
次は三呼吸。
その次は、少しだけ体の揺れを抑えられた。
さらに次は、足が床に戻る時の衝撃をやわらげられた。
失敗もした。
片足だけ先に落ちて、危うく寝台に手をついた。
風が強すぎて、上着の裾が不自然に跳ねた。
魔力を集めすぎて、足裏が熱くなるような感覚もあった。
それでも、少しずつ分かってくる。
浮かせる力を強くしすぎない。
風を下から当てるのではなく、体の周囲に回す。
呼吸を止めると、逆に揺れる。
腕を動かすだけでも、重心が変わる。
人の体は、小石よりずっと面倒だ。
でも、面白い。
四呼吸。
五呼吸。
そこで足が床に戻った。
俺は寝台に腰を下ろし、息を吐いた。
額に少し汗がにじんでいる。
魔力も思ったより減っていた。
それでも、口元が緩むのを止められなかった。
「浮いたな」
小石ではない。
俺自身が。
ほんの少しだけだが、床から離れた。
これではまだ誰も助けられない。
クラウスやミラを支えるには、全然足りない。
でも、最初の一歩にはなった。
もう一度だけ。
そう思った時、窓の外がかなり暗くなっていることに気づいた。
「……まずい」
夜は、とっくに深くなっていた。
俺は慌てて灯りを消し、寝台に入った。
体は疲れているはずなのに、頭だけが妙に冴えている。
浮かせる。
保つ。
風で揺れを抑える。
その感覚が、なかなか消えなかった。
◇
目を開けた瞬間、嫌な予感がした。
部屋が明るい。
明るすぎる。
「……え?」
俺は跳ね起きた。
窓の外は、完全に朝だった。
しかも、早朝ではない。
授業前の鐘が鳴る少し前だ。
「まずい」
体を起こした瞬間、足が重かった。
ふくらはぎに、変な疲れが残っている。
魔力も少し鈍い。
昨日の練習の反動だ。
考えるまでもない。
俺は急いで身支度をした。
朝食を取っている時間はない。
水だけ飲み、鞄をつかんで部屋を出る。
廊下を走りたいところだが、足が重い。
走れば余計に目立つ。
俺は早歩きで教室へ向かった。
教室の扉を開けた時、すでにほとんどの生徒が席についていた。
視線が一斉にこちらへ向く。
ヴィクトルが目を丸くした。
「リオンがこの時間に来るなんて珍しいな」
ガイルもこちらを見る。
「寝坊か?」
「少し」
「少しって時間じゃないだろ」
ヴィクトルが笑う。
ナディアが心配そうに身を乗り出した。
「リオンさん、朝食は食べましたか?」
「水は飲んだ」
「それは朝食ではありません」
ナディアの声が少しだけ強くなる。
ミラが俺の顔を見る。
「顔色、少し悪いわよ」
「大丈夫。眠いだけ」
クラウスが短く言った。
「昨日、何かしたな」
俺は席に向かいながら、少しだけ目をそらした。
「考え事をしてた」
「それだけではないだろう」
「あとは……少し、試した」
クラウスの眉が動く。
ミラもすぐに反応した。
「何を?」
「危ないことはしてない」
「それを判断するのはリオンだけではないと思うわ」
もっともだ。
反論できない。
セレナが腕を組む。
「まさか、また誰にも言わずに新しい魔法を試していたの?」
「まだ新しい魔法ってほどじゃないよ」
「否定するところがそこなのね」
セレナは呆れたように息を吐いた。
エドガーが静かに言う。
「授業に間に合ったのはよかった。でも、次からは寝る時間も計算した方がいい」
「エドガーまで厳しい」
「事実を言っているだけだ」
その言い方がいつも通りで、少しだけ安心する。
俺は席に着いた。
足の重さはまだ残っている。
でも、授業を受けられないほどではない。
その時、教室の扉が開いた。
ベルンハルト先生が入ってくる。
先生は教壇へ向かう途中で、俺を一度見た。
「ハル。珍しい時間だな」
「すみません。間に合いました」
「間に合えばいいという話でもないが、今はいい」
今はいい。
つまり、後で何か言われる可能性がある。
俺は姿勢を正した。
ベルンハルト先生は教壇に立ち、教室全体を見る。
「授業の前に連絡がある」
その一言で、教室の空気が少し変わった。
「来月、文化祭が行われる」
教室が一気にざわついた。
ヴィクトルが楽しそうに笑う。
「来たな」
ナディアの表情も明るくなる。
「文化祭ですか」
ガイルは少し考え込んでいる。
「食べ物は出るのか」
セレナがすぐに言う。
「そこが最初なの?」
「大事だろう」
「否定はしないけれど」
ミラは小さく笑っていた。
クラウスは表情をあまり変えないが、視線だけは教壇に向けている。
エドガーは、もう何か考えている顔をしていた。
ベルンハルト先生が軽く手を上げると、教室のざわめきが収まる。
「詳細は後で説明する。三年Sクラスも出し物を決めることになる」
出し物。
その言葉で、さらに空気が動いた。
ヴィクトルがこちらを見てくる。
「リオン、今年は何をやるんだ?」
「何で俺を見るんだよ」
「一年の時にやったじゃがバターはうちも随分儲けさせてもらってるからな」
「あれは一年の時の話だよ」
セレナがこちらを見る。
「同じことをしても面白くないわね」
「それは俺も思う」
魔法演武。
展示。
飲食。
案はいくらでも出そうだ。
だが、今の俺の頭には、まだ別のものも残っている。
王立研究所。
福嶋亮太の資料。
浮遊魔法。
それに、文化祭。
足は重い。
眠気もある。
でも、妙に頭は動き始めていた。
ベルンハルト先生が教壇で言う。
「今日は授業の後、簡単に意見を出してもらう。考えておけ」
教室のあちこちで、また小さな声が上がる。
俺は机の下で、足裏の感覚を確かめた。
昨夜、床から離れた感覚は、まだわずかに残っている。
研究所にも、また行くことになる。
文化祭の準備も始まる。
どうやら、しばらくは暇になりそうにない。
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