第276話 小さな実験
俺は、福嶋亮太の資料の写しに目を落としていた。
王立研究所の所長、アルベルト・ヴァイスは、机の向こうで静かに待っている。
机の上には、研究所側の翻訳文と、資料の写しが並べられていた。
さっきまで確認していたのは、亜空間収納に近い部分だった。
空間そのものを固定するのではなく、入口を固定する。
それだけでも、研究所側の訳とは少し違っていた。
そして今、俺の前にあるのは、浮遊魔法に関する一節だった。
「我々はここを、対象物を上方へ押し上げる術式、と読んだ」
ヴァイス所長が言う。
「だが、君は先ほど、その読みだけでは足りないと言った」
「はい」
俺は原文を見る。
福嶋亮太の文章は、やはり少し癖がある。
でも、意味は分かる。
「押し上げるという読みが、完全に違うわけではありません」
「ほう」
「浮遊魔法なら、まず浮かせる必要があります。そこは合っていると思います」
ヴァイス所長は、手元の紙に短く書き込んだ。
「では、何が足りない?」
「浮いた後です」
「浮いた後?」
「はい。浮かせるだけだと、たぶん安定しません。落ちるか、跳ねるか、揺れるかすると思います」
ヴァイス所長の目が細くなる。
「つまり、浮遊には二つ必要だと?」
「俺はそう読みました。まず浮かせる。次に、浮いた状態を保つ。その両方がないと危ないです」
言いながら、洞くつのことを思い出した。
崩落。
落下。
足場の悪い通路。
あの時、もし半端な浮遊魔法を使っていたらどうなったのか。
考えるだけで、少し背中が冷える。
その時、扉が軽く叩かれた。
「所長、失礼します」
「入りなさい」
入ってきたのは、若い研究員だった。
年は二十代半ばくらいだろうか。
細身で、手には何枚かの資料を持っている。
俺を見ると、一瞬だけ驚いた顔をした。
「こちらが、リオン・ハル様ですか」
「そうだ。セイル君。あ、彼は福嶋亮太の資料の解読に関わっている研究員だ」
マルティンは丁寧に頭を下げた。
「マルティン・セイルです。お会いできて光栄です」
「リオン・ハルです」
挨拶は丁寧だった。
ただ、その目には少しだけ疑いがある。
子どもが資料の確認をしている。
そう見えるのだから、無理もない。
マルティンは机の上の資料を見た。
「浮遊の一節ですね」
「ああ。今、確認していたところだ」
「でしたら、小さく試してみるのが早いのではありませんか」
ヴァイス所長の手が止まる。
「まだ訳の確認中だ」
「もちろん、大きな出力は使いません。小さな金属片を、ほんの少し浮かせるだけです」
マルティンはまっすぐ言った。
「紙の上で考えるより、実際の反応を見た方が分かることもあります」
その言い方は間違っていない。
でも、少し急いでいる。
俺はそこが気になった。
ヴァイス所長は少し考えたあと、ゆっくり頷いた。
「最小出力だ」
「はい」
「対象は小さな金属片のみ。防護板を置く。少しでも不安定なら、すぐ中止する」
「承知しました」
ヴァイス所長は俺を見る。
「リオン君、君に実演を求めるわけではない。見ていて、気になることがあれば言ってほしい」
「分かりました」
俺は頷いた。
正直、見たい気持ちもあった。
昨日から考えていた浮遊魔法。
その小さな実験を、目の前で見ることになる。
◇
案内された実験室は、思ったより狭かった。
中央に石の実験台がある。
その上には、円形の魔法陣が刻まれた板。
周囲には測定用の針と、魔力を流すための小さな結晶。
透明な防護板も用意されていた。
マルティンが、指先ほどの金属片を魔法陣の中央に置く。
「対象はこれだけです。出力も最低にします」
ヴァイス所長が確認する。
「始めなさい」
「はい」
マルティンが結晶に手をかざした。
魔法陣に、淡い光が走る。
金属片がかすかに震えた。
次の瞬間。
金属片が、実験台から少し浮いた。
浮いた。
確かに、研究所側の訳は完全な間違いではない。
押し上げる力は働いている。
けれど、すぐに違和感が出た。
金属片が小刻みに揺れている。
上へ行こうとして、落ちようとして、また上へ戻される。
安定していない。
俺の視界に、薄く文字が浮かんだ。
《保持不安定》
《落下制御不足》
《反発発生危険》
「待ってください」
俺は思わず声を出した。
マルティンがこちらを見る。
「浮いています。成功では?」
「浮いてはいます。でも、このままだと跳ねます」
「跳ねる?」
「浮かせる力だけが強くて、浮いた後に保つ力が足りないんです」
ヴァイス所長がすぐに言う。
「止めなさい」
マルティンが魔力を弱めた。
だが、その直前だった。
金属片が小さく跳ねた。
防護板に当たり、乾いた音を立てて、実験台に落ちる。
大きな事故ではない。
でも、部屋の空気は一気に変わった。
マルティンは、落ちた金属片を見つめている。
「……跳ねた」
ヴァイス所長は、俺の方を見た。
「今の不安定さに気づいたのか」
俺は一瞬迷った。
《綻びの目》のことを全部話すわけにはいかない。
「術式の流れが、少し危ないと思いました」
「どこが危ない」
「浮かせるところまでは合っています。でも、浮いた後に支える部分が弱いです」
マルティンが眉を寄せる。
「支える部分……」
「はい。浮かせるだけなら、一瞬上に動きます。
でも、その後に落ちないように保てないと、跳ねたり、揺れたり、落ちたりすると思います」
ヴァイス所長が静かに頷く。
「つまり、浮遊魔法は、浮上と保持を分けて考えるべきだと」
「たぶん、そうです」
俺は実験台の金属片を見る。
「まず浮かせる。次に、その高さで保つ。
そこまでできないと、浮遊ではなく、ただの跳ね上げに近くなると思います」
マルティンは悔しそうだった。
けれど、反論はしなかった。
実際に金属片が跳ねたからだ。
「出力を上げていたら、どうなっていましたか」
マルティンが小さく聞いた。
「もっと強く跳ねたと思います。
場合によっては、防護板だけでは足りなかったかもしれません」
「……魔法陣は?」
「負荷がかかったと思います」
マルティンは黙った。
ヴァイス所長が、落ちた金属片を拾い上げる。
金属片の端には、わずかに焦げたような跡があった。
「小さな実験で済んでよかった」
その声は低かった。
マルティンが頭を下げる。
「申し訳ありません。成功に見えたので、続けようとしてしまいました」
「責めてはいない」
ヴァイス所長は金属片を机に戻した。
「だが、今のは覚えておきなさい。浮いたことと、使えることは違う」
「はい」
マルティンの返事は、さっきより重かった。
ヴァイス所長は翻訳文に赤い印をつける。
「“押し上げる”だけでは不十分。“保持”と“安定”を別項目として確認する必要あり」
その文字を書きながら、所長は俺を見る。
「リオン君。君がいなければ、我々は今の術式を“浮遊成功”として扱っていたかもしれない」
「実際、浮いてはいました」
「だが、保てなかった」
「はい」
「その違いが重要なのだな」
俺は頷いた。
「魔法として使うなら、そこが大事だと思います」
洞くつの崩落が頭をよぎる。
もし、あの場で今のような術式を使っていたら。
クラウスやミラを支えるどころか、逆に危険な動きになっていたかもしれない。
半端な魔法は、助けにならない。
むしろ、危険を増やす。
ヴァイス所長は、しばらく金属片を見つめていた。
それから、ゆっくり口を開く。
「リオン君」
「はい」
「君には、しばらくこの資料の確認に協力してほしい」
来ると思っていた言葉だった。
でも、すぐには返事ができなかった。
研究所に関われば、福嶋亮太の理論をもっと知ることができる。
浮遊魔法の手がかりもあるかもしれない。
でも、深く関われば、俺自身の魔法にも踏み込まれる。
亜空間収納。
転移魔法。
そして、これから覚えるかもしれない魔法。
どこまで見せるべきかは、慎重に決める必要がある。
「資料の確認はします」
俺は言った。
「ただ、俺自身の魔法を全部見せることはできません」
「当然だ」
ヴァイス所長はすぐに答えた。
「こちらが求めているのは、まず資料の確認だ。君を研究所の道具にするつもりはない」
その言い方に、少しだけ力が抜けた。
「学院長にも、どこまで話すか相談したいです」
「それでいい」
ヴァイス所長は頷く。
「君は研究所の所有物ではない」
マルティンが少し驚いた顔をした。
俺も同じだった。
でも、その一言で、少なくとも所長は線を引いてくれているのだと分かった。
もちろん、研究所全体がそうとは限らない。
それでも、今この場では、俺を無理に使おうとしているわけではなさそうだった。
俺は実験台の上を見る。
小さな金属片が、静かに転がっていた。
浮いた。
でも、保てなかった。
たったそれだけの違いで、魔法は危険なものになる。
俺は、福嶋亮太の資料の写しに目を戻した。
便利な答えが、そこに書いてあるわけではない。
読み違えれば危ない。
けれど、正しく読めれば。
俺は金属片の焦げ跡を見て、静かに息を吐いた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
続きが気になったら、ブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




