第275話 王立研究所訪問
翌日の放課後。
俺は、王立研究所へ向かっていた。
学院長から渡された封書と、研究所への通行証を持っている。
昨日、学院長室で王立研究所からの手紙を見た時から、胸の奥に少し重いものが残っていた。
福嶋亮太の魔法理論。
亜空間収納。
転移魔法。
そして、まだ俺が使えない浮遊魔法。
知りたいことはある。
そんな思いを抱えたまま、俺は研究所の前に立った。
王立研究所は、学院とは空気が違った。
派手な建物ではない。
けれど、正面の門も、厚い扉も、そこに立つ警備の人間も、簡単には人を通さない雰囲気を持っていた。
魔法などの研究をする場所。
目の前にすると、研究所というより小さな城のようにも見えた。
俺は入口の受付へ進む。
「失礼します。王立学院三年のリオン・ハルです。
王立研究所からの面会要請で参りました」
受付の職員が、俺を見た。
子どもが一人で来たことに少し驚いたようだったが、すぐに表情を戻す。
「通行証を確認します」
「はい」
俺は学院長から渡された通行証を出した。
職員は封印と名前を確認し、奥にいた別の職員へ目配せする。
「確認しました。リオン・ハル様ですね。所長がお待ちです」
「所長が?」
「はい。こちらへ」
いきなり所長か。
少しだけ喉が乾く。
俺は職員の後について、研究所の中へ入った。
廊下は静かだった。
学院の廊下とは違う。
生徒の声も、足音も、笑い声もない。
代わりに、紙をめくる音や、遠くで何かを測るような小さな音が聞こえる。
壁には、見たことのない魔法陣の図がいくつも掛けられていた。
棚には結晶や金属片、古い本の写しらしいものが並んでいる。
職員は途中で一度だけ振り返った。
「本日は、魔法の実演を求める場ではありません」
「そうなんですか」
「ええ。少なくとも、私はそう聞いています」
それを聞いて、少しだけ安心した。
いきなり亜空間収納を見せろと言われる可能性も考えていた。
だが、今日はそういう場ではないらしい。
奥の部屋の前で、職員が足を止める。
「所長。リオン・ハル様をお連れしました」
「入ってもらいなさい」
中から落ち着いた声がした。
職員が扉を開ける。
俺は一礼して中に入った。
「失礼します」
部屋の中には、年配の男性がいた。
白髪交じりの髪。
細い眼鏡。
机の上には大量の紙と本が積まれている。
その中の何枚かに、俺は見覚えがあった。
福嶋亮太の資料。
正確には、その写しだ。
「君がリオン・ハル君か」
「はい」
「王立研究所所長のアルベルト・ヴァイスだ」
所長は立ち上がった。
「来てくれて感謝する。まず座りなさい」
「ありがとうございます」
俺は椅子に座る。
所長は、机の上の紙束を少し整えた。
「学院長から、君には無理をさせないようにと言われている」
「では、何を確認されるのでしょうか」
「福嶋亮太の資料についてだ」
その名前が出ると、やはり少し身構える。
所長はその反応を見ても、すぐに追及してこなかった。
「我々は、福嶋亮太の資料に使われていた文字を、少しずつ解読してきた」
福嶋亮太の資料に使われていた文字。
研究所は、そう呼んでいる。
俺にとっては日本語だ。
けれど、この世界の人間にとっては、存在しないはずの文字だった。
「かなり時間がかかった」
所長は苦笑した。
「最初は、文字なのか記号なのかすら分からなかった。
だが、同じ形が繰り返し現れる。文の切れ目らしいものもある。
そこから少しずつ照合した」
「解読できるようになったんですか」
「文字の読み方そのものは、かなり分かってきた。だが、問題はそこではない」
所長は一枚の紙を俺の前に置いた。
「魔法理論として正しく読めているか。そこが分からない」
紙には、研究所側が作った翻訳文らしいものが書かれていた。
その横に、福嶋亮太の資料の写し。
日本語の文章。
懐かしいような、不思議な感覚があった。
「君には、この読み方が間違っていないか確認してもらいたい」
「俺に、ですか」
「そうだ。君はこの資料を持ち込み、さらに実際にいくつかの理論を使っていると聞いている」
亜空間収納のことだ。
そして、学院長には転移魔法の話もしている。
所長は俺の目を見る。
「誤解しないでほしい。君を試したいわけではない。
間違った理論として扱えば、危険な魔法が生まれる可能性がある。
だから、確認したい」
その言い方は、思っていたより慎重だった。
研究者としての興味は強い。
でも、無理に踏み込んでくる感じではない。
「分かりました。俺に分かる範囲でなら」
「それで十分だ」
所長は一枚目の紙を指差した。
「まず、ここだ。我々はこの部分を、“空間を固定し、物体を保管する術式”と読んだ」
亜空間収納に関する部分か。
俺は原文を見る。
そこには、福嶋亮太の言葉で、空間の入口を仮固定し、内部領域と接続する、というような説明が書かれていた。
研究所側の訳をもう一度見る。
大きくは間違っていない。
だが、少し危ない。
「完全に違うわけではありません」
俺は言った。
「ただ、“空間を固定する”というより、“入口を固定する”方が近いと思います」
「入口?」
「はい。空間そのものを丸ごと固定するのではなく、こちら側と内部をつなぐ場所を決める、という意味だと思います」
所長の目が細くなる。
「なるほど。空間全体ではなく、接続点か」
「たぶん、その理解の方が近いです」
「もし空間そのものを固定すると読んだ場合、何が問題になる?」
「魔力の使い方が大きく変わると思います。
空間全体を押さえ込もうとすれば、たぶん無駄が多いです。
入口だけを安定させる方が、魔力は少なく済むはずです」
所長はすぐに机の上の別紙へ書き込んだ。
「入口固定。接続点。魔力消費の差……」
かなり速い。
研究者だ。
「次に、ここを見てほしい」
所長は別の紙を出した。
そこにあった言葉を見て、俺は思わず手を止めた。
浮遊。
昨日から考えていた言葉が並んでいる。
「我々はこの部分を、“物体を上方へ押し上げる術式”と読んだ」
所長が言う。
「だが、どうも魔力消費が大きすぎる。理論上、実用には向かない計算になる」
俺は原文を読む。
福嶋亮太の文章は、少し癖がある。
でも、意味は分かる。
これは、単純に物を上へ押し上げる話ではない。
「この訳だと、たぶん危ないです」
俺は言った。
所長の手が止まる。
「危ない?」
「はい。上に押し上げる魔法だと考えると、魔力で重さに正面から逆らうことになります。
でも、この部分はたぶん違います」
「どう違う」
「落ちる力を弱める、という意味に近いです」
所長は黙った。
俺は続ける。
「重さを消すのではなく、落下の向きをずらす。
全部を持ち上げるのではなく、支える点を作る。そういう考え方だと思います」
「支える点……」
「はい。たぶん、“押し上げる”より“落ちにくくする”方が近いです」
言いながら、洞くつのことを思い出した。
崩落した足場。
落ちる体。
もし、この考え方を使えていたら。
俺たちは、もう少し違う動きができたかもしれない。
所長がゆっくり顔を上げた。
「君は、この部分を読めるのか」
「読めます」
「意味も分かるのか」
「全部ではありません。でも、今の訳が少し違うことは分かります」
部屋の空気が、少し変わった。
所長の目が、ただの来客を見る目ではなくなった。
資料を持ってきた生徒ではない。
少なくとも、資料の意味を確かめられる相手として見られている。
「なるほど」
所長は小さく息を吐いた。
「君を呼んだ判断は、間違っていなかったようだ」
「俺だけで全部確認できるわけではありません」
「もちろんだ。だが、我々だけで読み進めるよりは、はるかに危険が減る」
危険が減る。
その言い方は、研究所らしいと思った。
新しい理論は、便利なだけではない。
読み間違えれば、危険になる。
学院長も、ベルンハルト先生も、それを分かっていた。
「リオン君」
「はい」
「今日確認してほしい箇所は、まだいくつかある。ただし、無理にすべてを見る必要はない」
「大丈夫です。見られる範囲で確認します」
「助かる」
所長は、机の横からさらに数枚の写しを取り出した。
そこには、また福嶋亮太の文字が並んでいた。
空間。
座標。
固定。
浮遊。
接続。
俺の知っている言葉。
でも、この世界ではまだ正しく読まれていない言葉。
所長はその紙束を、静かに俺の前へ置いた。
「では、まずこの一節から頼みたい」
俺は紙の上の文字を見た。
福嶋亮太の資料に使われていた文字。
研究所は、そう呼んでいる。
俺にとっては、日本語だ。
そして、その中には、俺が今一番知りたい魔法の手がかりがあった。
浮遊魔法。
俺は椅子に座り直し、最初の一行に目を落とした。
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