第268話 届いた声
暗い通路の奥で、小さな石がまた転がった。
カラン。
音は近い。
だが、足音はしない。
クラウスが剣の柄に手をかけたまま、わずかに前へ出る。
ミラは光をさらに細くした。
俺は息を殺し、《綻びの目》を使う。
《攻撃姿勢なし》
《周囲警戒中》
《接近速度:低》
《音量抑制》
魔物の突進ではない。
でも、人だと決めつけるには早い。
俺は声を出さず、クラウスの袖を軽く引いた。
待て。
クラウスが小さく頷く。
その時だった。
「動くな。音を立てるな」
低い声が、暗がりから届いた。
聞き覚えがあった。
胸の奥が、一瞬だけ緩む。
ベルンハルト先生だ。
ミラが息を呑む気配がした。
だが、先生は片手を上げていた。
待て、という合図。
俺たちはその場で止まる。
暗がりの奥に、先生の姿が見えた。
魔力灯の光はほとんど絞られている。
先生の後ろには、補助員が一人いた。
救助班全員ではない。
先に先生だけが来たらしい。
ベルンハルト先生は周囲を見てから、手でこちらへ来いと示した。
俺たちは音を立てないように近づく。
クラウスが先に動き、ミラが続く。
俺は後ろを確認しながら進んだ。
先生の前まで来ると、ベルンハルト先生は声を落としたまま言った。
「ハル、レインフォード、ハーウェイ。三人ともいるな」
「はい」
返事をした瞬間、喉の奥が少し詰まった。
戻ってこられたわけじゃない。
それでも、先生の声が届いた。
それだけで、体の力が抜けそうになる。
だが、先生の目は緩んでいなかった。
「怪我は」
「全員動けます。クラウスは腕に痺れがあります。ミラは魔力をかなり使っています。俺は右腕に噛み傷です」
先生は俺の腕を一瞬だけ見た。
包帯を確認し、すぐに視線を戻す。
「手当ては」
「ミラがしてくれました」
「よし」
それだけだった。
けれど、ミラの肩が少しだけ下がった。
褒められたわけではない。
でも、間違っていないと認められた。
それは分かった。
クラウスが小さく息を吐く。
「先生、すみません。三層以下には――」
「説教は戻ってからだ」
ベルンハルト先生が遮った。
「今は必要なことだけ言え。何があった」
俺は短く報告した。
二層目で崩落したこと。
かなり下まで落ちたこと。
落下先は、おそらく五層目に近かったこと。
その後、上へ進み、第四層の標識を見つけたこと。
グランリザードと戦い、階段を抜けたこと。
連絡路の巣を突破して、ここまで来たこと。
話している間、先生の表情は変わらなかった。
ただ、目だけが鋭くなった。
「グランリザードを見たのか」
「はい。討伐証明も――」
俺が亜空間収納へ手を伸ばしかけると、先生が止めた。
「証明は後でいい」
声は静かだった。
「今は生きて戻る」
「……はい」
その言葉で、頭の中が少し冷えた。
証明より、生還。
当たり前のことなのに、ここまで来る間に、何度も忘れそうになっていた。
先生は補助員へ短く合図した。
補助員が頷き、背後の通路を確認する。
ベルンハルト先生は俺たちに向き直った。
「二層目の崩落地点は広げられなかった。無理に掘れば下まで潰れる」
やはり、そうだったのか。
「三層で、崩落がさらに下へ抜けた痕跡を見つけた。救助班は別の管理通路を探している。俺は先に、この連絡路を見に来た」
ミラが小声で聞いた。
「さっきの石は、先生が?」
「そうだ。声を出せば魔物も寄る。石で反応を見た」
俺たちが大声を出さなかった判断は間違っていなかった。
そう分かって、少しだけ息が楽になる。
ベルンハルト先生はミラを見る。
「ハーウェイ。光を絞っているな」
「はい」
「よく残した。帰るまで維持しろ」
「はい」
次にクラウスを見る。
「レインフォード。前に出続けたか」
「はい」
「なら、まだ気を抜くな。入口までは前衛だ」
「分かりました」
最後に、先生の視線が俺へ向いた。
「ハル」
「はい」
「道の脆い場所は見えるな」
「見ます」
「なら、俺の合図と合わせろ。勝手に判断を止めるな」
「はい」
先生が来た。
でも、俺たちの役目が消えたわけじゃない。
ここからは、先生の指揮で戻る。
それだけだ。
ベルンハルト先生は隊列を示した。
「俺が先頭。レインフォード、その後ろ。ハーウェイは中央。ハルは後ろを見ろ。
補助員が最後を固める」
俺たちは頷いた。
「走るな。話すな。合図だけ見ろ」
先生が前を向く。
その瞬間、通路の奥で低い音がした。
石を削るような音。
さっきの小石とは違う。
重い。
クラウスの手が剣にかかる。
ミラの光が細く震えた。
俺はすぐに《綻びの目》を使う。
《大型接近》
《音反応》
《戦闘回避推奨》
ベルンハルト先生も同じ方向を見ていた。
「戦わない」
先生は低く言った。
「迂回する」
迷いがない。
倒せるかどうかではない。
戻れるかどうかだ。
先生が右の横道を指す。
「こちらだ」
俺たちは動き出した。
ベルンハルト先生の背中が、暗い通路の先にある。
ようやく、救助の手が届いた。
だが、先生は一度も「もう大丈夫だ」とは言わなかった。
その理由は分かる。
ここはまだ三層目。
戻るべき場所は、もっと上だ。
俺は包帯を巻いた右腕を押さえながら、先生の合図に従って足を踏み出した。
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