第267話 転がる石音
連絡路の階段を上るにつれて、空気が変わっていった。
重さが少しずつ薄れていく。
四層目で感じた、胸に沈むような魔力の圧が弱い。
代わりに、乾いた風が頬に当たった。
クラウスが足を止める。
「空気が変わったな」
「ええ。さっきより軽いわ」
ミラの光は細い。
だが、まだ消えてはいない。
俺は壁に手を近づけ、《綻びの目》を使った。
《魔力濃度低下》
《上層接近》
《魔物通過痕:少》
三層目。
そう断言できるほどではない。
けれど、四層目より上へ来たのは間違いない。
「第三層に入ったかもしれない」
俺が言うと、ミラが小さく息を吐いた。
「やっと、少し戻れたのね」
「うん、でもまだ安全じゃない」
クラウスが低く言う。
「でも、進んではいる」
その言葉だけで、少しだけ足に力が戻った。
通路の先に、崩れた柱の陰があった。
奥は浅いが、外からは見えにくい。
古い退避所のような場所だ。
俺はすぐに確認する。
《崩落危険:低》
《魔物通過痕:古》
《短時間休息可》
「ここで少し休もう」
「長くは止まれないぞ」
「分かってる。でも、このまま進む方が危ない」
クラウスは反対しなかった。
ミラも、黙って柱の陰に入る。
全員、限界に近かった。
俺が腰を下ろすと、右腕がずきりと痛んだ。
グレイラットに噛まれた場所だ。
布で押さえていたが、まだ血がにじんでいる。
「腕を見せて」
ミラが言った。
「浅いよ」
「大丈夫かどうかは、見てから決めるわ」
強い口調だった。
でも、怒っているわけではない。
俺は素直に腕を出した。
ミラは水を少し布に含ませ、傷の周りを拭く。
染みた。
「……っ」
「我慢して」
「してる」
「なら、もう少し我慢して」
ミラは薬草を傷に当て、包帯を巻いた。
手つきは思ったより慣れている。
「回復魔法は得意じゃないけど、傷の手当てくらいはできるわ」
「助かる」
「さっき助けてもらったから」
ミラはそう言って、包帯の端を結んだ。
痛みは残る。
でも、動かしやすくなった。
俺は亜空間収納から保存食と水を出す。
硬い保存食。
小さな水袋。
それから、回復薬を一本。
「怪我が悪化したら使う。今は温存する」
クラウスが頷く。
「俺の腕も、まだ動く。今は使わなくていい」
俺たちは少しずつ食べた。
味はほとんど分からない。
でも、腹に入るだけで違う。
体の震えが少し落ち着いた。
次に、俺は亜空間収納の中を確認する。
小瓶が一つ残っていた。
魔力回復薬だ。
「一本だけ残ってた」
ミラがすぐに首を振る。
「リオンが飲んで。あなたもかなり魔力を使ってるでしょう」
「半分ずつ」
「でも」
「ミラの光も、俺の魔力も、どっちも必要だ」
クラウスが保存食を飲み込んでから言った。
「俺もそう思う。二人のどちらかが動けなくなれば、前に出ても意味がない」
ミラは少しだけ迷い、それから頷いた。
「……分かった」
俺は小瓶の中身を半分飲む。
苦みの後に、喉の奥が熱くなった。
残りをミラに渡す。
ミラも一口で飲み干した。
すぐに完全回復するわけじゃない。
それでも、頭の重さが少し引く。
ミラの指先に宿る光も、さっきより安定していた。
「光は出せるわ。無駄には使わないけど」
「俺も動ける」
クラウスが腕を回す。
「痺れは残っている。だが、剣は振れる」
休めたのは短い時間だ。
それでも、三人とも少し戻った。
俺は保存食の残りをしまい、携帯灯を布で覆う。
「三層にいるなら、先生たちも近くまで来てるかもしれない。でも、大声は出さない」
「魔物を呼ぶかもしれないからな」
「音は慎重に使いましょう」
ミラが光を小さくした。
俺たちは退避所を出る。
通路はさっきより乾いている。
壁の黒さも少し薄い。
上へ近づいている。
そう思いたかった。
しばらく進んだ時だった。
通路の奥で、何かが転がる音がした。
カラ……
三人が同時に止まる。
クラウスが剣の柄に手を置く。
ミラが光を絞る。
俺は息を殺して耳を澄ませた。
音は一度きりではなかった。
カラン。
小さな石が、どこかで床を跳ねた。
自然に落ちたのか。
魔物の足が触れたのか。
それとも、人がいるのか。
俺は《綻びの目》を使う。
《接近気配》
《音源不明》
《警戒推奨》
「人か?」
クラウスが小声で聞く。
「分からない」
ミラが通路の奥を見る。
「魔物かもしれないわ」
救助かもしれない。
魔物かもしれない。
ただの落石かもしれない。
俺は二人に手で合図した。
待て。
声は出さない。
暗い通路の奥で、もう一度、小さな石が転がった。
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