第261話 鳴かせるな
上り坂は、細く長く続いていた。
足元の石は濡れている。
少しでも雑に歩けば、靴音が洞くつの奥へ響きそうだった。
クラウスが前。
ミラが光を絞る。
俺は後ろから、壁と横穴を見た。
進んでいる。
けれど、上へ向かっているという確信はない。
さっきの大型魔物の足音はもう聞こえない。
だが、近くにいないと決まったわけでもない。
俺は頭の中で、使える手段を一つずつ確かめた。
薬草。
回復薬。
亜空間収納。
低級の回復魔法。
そして、転移魔法。
俺一人なら、学院の寮へ戻る転移は使えるかもしれない。
けれど、今回は違う。
クラウスとミラがいる。
三人同時に転移したことはない。
ここが何層なのかも分からない。
周囲の魔力も、王都や学院で感じるものとは明らかに違う。
失敗すれば、戻れないだけでは済まないかもしれない。
魔力をごっそり失えば、その後に動けなくなる。
最悪、俺だけが戻ってしまう可能性もある。
それは選べない。
「リオン」
ミラが小声で呼んだ。
「何か考えているの?」
「転移魔法を使えないか考えた。でも、やめる」
ミラの足が止まりかけた。
「……転移魔法?」
クラウスも振り返る。
「何だ、それは」
「離れた場所へ一瞬で移動する魔法だよ」
「一瞬で……?」
ミラが言葉を失う。
クラウスも眉を寄せた。
「そんな魔法があるのか」
「普通に知られている魔法じゃないと思う」
クラウスは短く息を吐いた。
「亜空間収納だけでも十分信じがたい。今度は場所を移動する魔法か」
ミラも、まだ驚いた顔のままだ。
「リオン、あなた本当に何を覚えているの……?」
「でも、今は使わない」
俺は声を低くする。
「三人同時では試したことがない。ここで失敗したら、魔力だけを大きく失うかもしれない」
クラウスの目がすぐに鋭くなる。
「使えれば助かるかもしれないが、失敗すれば今より悪くなる、ということか」
「うん」
「なら、使わない方がいいわ」
ミラが即座に言った。
「ここでリオンの魔力が減ったら、回復も判断も苦しくなる。賭ける場面じゃない」
「俺もそう思う」
クラウスが頷く。
「未知の魔法より、今歩ける道を選ぶべきだ」
二人がそう言ってくれたことで、俺の中でも迷いが消えた。
使える魔法を並べれば、強くなった気がする。
けれど、今必要なのはそこじゃない。
何を使わないか。
そこを間違えれば、三人まとめて終わる。
「進もう」
俺が言うと、クラウスが前を向いた。
坂をさらに上がる。
途中から、壁に小さな穴が増え始めた。
拳ほどのものもあれば、腕一本なら入れられそうな大きさのものもある。
その一つから、かすかな音がした。
カリ。
カリ。
石を引っかくような音だ。
クラウスが足を止める。
ミラが光を横へ向けかけた。
俺は手で制した。
先に、見る。
横穴の奥で、小さな影が動いていた。
鼠に似ている。
ただ、喉のあたりが妙に膨らんでいた。
次の瞬間、視界に文字が浮かぶ。
《警戒音発生》
《周辺魔物誘引》
《大型魔物接近危険》
背中が冷えた。
強い魔物ではない。
たぶん、クラウスなら一撃で倒せる。
だが、鳴かれたらまずい。
俺は声を出さず、指を一本立てた。
一匹。
次に、自分の喉を指す。
鳴く。
最後に、拳を握る。
止める。
クラウスの目が細くなる。
理解したらしい。
剣には手をかけたが、抜かない。
金属音を避けたのだ。
ミラも光をさらに小さくする。
鳴き鼠が、横穴から半分だけ顔を出した。
鼻をひくつかせている。
こちらに気づきかけていた。
俺はミラを見た。
ミラが小さく頷く。
一瞬だけ、光が強くなった。
鳴き鼠の目が眩む。
その隙に、俺は弱い魔力弾を横穴の奥へ撃ち込んだ。
大きな音は立てない。
逃げ道だけを塞ぐ。
鳴き鼠が驚いて前へ跳ねた。
クラウスが踏み込む。
剣は抜かない。
鞘ごと短く振り下ろす。
鈍い音がして、鳴き鼠は声を出す前に床へ落ちた。
俺たちは、すぐには動かなかった。
ミラが光を戻す。
俺は耳を澄ませた。
遠くで、低い音が一度だけ響く。
足音か。
水音か。
判別できない。
ただ、こちらへ近づいてくる気配はなかった。
ミラが小さく息を吐いた。
「鳴かれていたら、危なかったわね」
「うん」
俺は頷いた。
この場所では、強い魔物だけを警戒すればいいわけじゃない。
小さくても、次の危険を呼ぶものがいる。
それを見落とせば、さっきの大型魔物を呼び戻すかもしれない。
「ここからは、横穴も見る」
「俺も前だけを見ないようにする」
クラウスが低く言った。
「光の当て方も変えるわ。急に照らして鳴かせたら意味がないもの」
ミラも声を落として返す。
俺たちは、その場で簡単な合図を決めた。
止まれ。
伏せる。
右。
左。
待て。
攻撃。
声が出せない場所でも、最低限は動けるようにする。
鳴き鼠の死骸は、横穴の奥へ寄せた。
血の匂いで別の魔物が来るかもしれない。
長居はできない。
坂はまだ続いている。
重い空気の中に、かすかに乾いた風が混じった。
俺は顔を上げる。
「風がある」
クラウスが坂の先を見る。
「上につながっているのか?」
「分からない。でも、完全な行き止まりではないと思う」
ミラが光を細く前へ伸ばした。
坂の先に、狭い通路が続いている。
だが、その左右にも小さな横穴がいくつも開いていた。
鳴き鼠が一匹だけとは限らない。
俺は剣の柄に手を置き、声をさらに落とした。
「ここからは、音を立てないで進もう」
クラウスとミラが黙って頷く。
転移魔法は使わない。
大型魔物とは戦わない。
鳴く魔物は、鳴かせる前に止める。
ここでは、一つ判断を間違えるだけで、次の危険を呼ぶ。
俺たちは声を出さず、細い上り坂の先へ進んだ。
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