第260話 戦わない判断
黒い岩肌の通路を、俺たちはゆっくり進んだ。
クラウスが前。
ミラが中央で光を抑える。
俺は後ろから、壁と足元を見た。
さっきまでとは空気が違う。
冷たいだけではない。
重い。
息を吸うたびに、胸の奥へ湿った魔力が入り込んでくるような感覚があった。
「足は本当に大丈夫?」
俺が小声で聞くと、クラウスは前を向いたまま答えた。
「問題ない。違和感は少しあるが、動ける」
「痛みが戻ったらすぐ言って」
「ああ」
返事は短い。
無理をしている様子はない。
それでも、さっき怪我をしたばかりだ。
余計な戦闘は避けたい。
ミラの光は、いつもより小さい。
足元と壁際だけが見える程度だ。
「暗すぎる?」
「いや。このくらいでいい」
俺が言うと、ミラは頷いた。
「明るくすれば見やすいけど、魔力を使いすぎるわ。帰る道が見つかるまで、無駄にはできない」
その判断は正しい。
ここが何層なのかも分からない。
いつ助けが来るのかも分からない。
光がなくなれば、俺たちは一気に動けなくなる。
通路の壁には、大きな爪痕が残っていた。
深い。
岩を削った跡が、斜めに何本も走っている。
一層目や二層目で見た魔物とは、明らかに大きさが違う。
「……これをつけた魔物が、この辺りにいるのか」
クラウスが低く言った。
「可能性はある」
俺は爪痕の端を見る。
古いものもあれば、新しいものもある。
乾いていない削り跡が、まだ少し光っていた。
「ここ、本当に二層目の下なの?」
ミラの声が、いつもより硬い。
「分からない」
俺は正直に答えた。
「でも、実習で歩く場所じゃないのは確かだと思う」
その時だった。
奥から、重い音がした。
最初は水の音かと思った。
けれど、すぐに違うと分かる。
一定の間隔で、地面がわずかに震える。
足音だ。
クラウスが剣の柄に手を置く。
ミラが光をさらに絞った。
通路の奥で、何かが動いた。
まだ姿は見えない。
だが、気配だけで肌が粟立つ。
大きい。
そして、近い。
「来るなら、ここで受ける」
クラウスが前へ出ようとした。
前衛として、ミラと俺を守る動きだ。
間違ってはいない。
だが、俺の視界に文字が走った。
《正面交戦不可》
《戦闘継続困難》
《撤退推奨》
喉が詰まる。
考えるより先に、声が出た。
「戦わない。隠れる」
クラウスが一瞬だけこちらを見る。
迷いはあった。
だが、すぐに剣から手を離した。
「分かった」
ミラが壁際を指す。
「こっち」
岩がえぐれたような浅いくぼみがあった。
三人で身を寄せる。
クラウスが外側。
ミラが光球を両手で包み込む。
俺はその隣で息を殺した。
光はほとんど漏れていない。
足元だけが、かろうじて見える。
足音が近づく。
一歩ごとに、細かい砂が落ちた。
やがて、通路の向こうに巨大な影が現れた。
全身は見えない。
太い脚。
岩を削る爪。
濡れたように光る尾。
それだけで十分だった。
俺たちがさっきまで戦っていた魔物とは、まるで違う。
影が、通路を横切る。
湿った息が、こちらまで流れてきた。
ミラの肩がわずかに震える。
クラウスは動かず剣に手を伸ばさない。
その判断だけで、俺は少しだけ救われた。
魔物が足を止めた。
頭らしき影が、こちらへ向く。
《視線接近》
表示が出た瞬間、俺は小さく手を下げた。
動くな。
ミラが息を止める。
クラウスの指も止まった。
魔物は、しばらく通路の匂いを探るように首を動かした。
長い。
ほんの数秒のはずなのに、体が石になったようだった。
やがて、魔物は俺たちに背を向けた。
重い足音が、少しずつ遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなるまで、誰も動かなかった。
最初に息を吐いたのは、ミラだった。
「……今の、何?」
「分からない」
俺は喉の奥の渇きを飲み込む。
「でも、戦う相手じゃなかった」
クラウスが低く言う。
「ああ。あれは、受けたら終わっていた」
前衛のクラウスがそう言うなら、間違いない。
ミラも青ざめた顔で頷いた。
「二層目にいる魔物ではないわ」
その言葉で、周囲の暗さがさらに濃くなった気がした。
ここがどこなのか。
どれだけ落ちたのか。
まだ分からない。
ただ、二層目の延長ではない。
それだけは、三人とも分かっていた。
「方針を変えよう」
俺は声を落とした。
「魔物を見つけても、倒すことを考えない。まず隠れる。通れない時だけ戦う」
「賛成だ」
クラウスはすぐに頷いた。
「俺も無理に前へ出ない。守るために戦うのと、倒しに行くのは違う」
「私は光を抑えるわ。見つからないことを優先する」
ミラの声はまだ少し震えていた。
でも、言葉ははっきりしている。
俺たちは戻るために動いている。
倒すためではない。
ベルンハルト先生の言葉が、今になって重く響いた。
戻ってこい。
それが今日の課題だ。
俺たちは、音を立てないように通路を進んだ。
さっきの魔物が残した足跡を避ける。
壁に触れすぎない。
ミラの光は低く、細い。
それでも、しばらく進むと、前方に少し傾いた道が見えた。
上り坂だ。
広くはない。
壁には爪痕が残っている。
だが、奥へ行くほど、わずかに高くなっているように見えた。
俺は《綻びの目》を軽く使う。
《通行可能》
《危険残存》
安全ではない。
だが、進めない道ではない。
「上に向かっているかもしれない」
俺が言うと、クラウスが坂の奥を見た。
「行くしかないな」
「光はこのままで行くわ」
ミラが光球を胸元に寄せる。
俺は後ろを一度だけ振り返った。
もう足音は聞こえない。
だが、あの魔物がこの近くにいることは分かっている。
倒さなかった。
逃げたわけでもない。
戻るために、戦わない道を選んだ。
その判断が正しいかどうかは、まだ分からない。
でも、正面からぶつかっていたら、俺たちはここで終わっていたかもしれない。
「行こう」
クラウスが先に坂へ入る。
ミラの光が、その足元を細く照らした。
俺は壁と奥を見ながら続く。
上へ続いている。
今は、そう信じるしかなかった。
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