第256話 洞くつの入口
洞くつ実習の朝。
俺は寮の自室で、机の上に装備を並べた。
剣。
包帯。
薬草。
回復薬。
小型魔力灯の替え石。
手袋。
短いロープ。
防水袋。
すぐに使う包帯と薬草は腰袋へ入れる。
剣は腰に下げ、手袋は外側のポケットに移した。
予備の薬草と回復薬、替え石は別だ。
俺は小さく息を吐き、福嶋亮太さんの本にあった魔法を使う。
机の上の予備品が、静かに亜空間収納へ消えた。
便利な魔法だ。
ただ、戦っている最中に慌てて使うものではない。
手元に置く物。
奥にしまっておく物。
そこは分けておいた方がいい。
最後に剣の位置を確かめ、部屋を出た。
◇
学院の中庭には、すでに三年Sクラスの生徒たちが集まっていた。
いつもより声が少ない。
それでも、全員が黙っているわけではない。
「洞くつって、やっぱり汚れるよね」
ヴィクトルが自分の靴を見ながら言う。
「実習なのだから当然でしょう」
セレナは腰の魔力灯を直しながら返した。
その横で、ガイルは妙に楽しそうだ。
「面白そうだな」
「油断はしないでくださいね」
ナディアがすぐに釘を刺す。
「しない」
「返事は早いですね」
ナディアの声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。
ライオネルが小さく吹き出す。
「お前も注意される側だぞ」
「分かってる」
「二人ともです」
ナディアが言うと、二人は同時に黙った。
少し離れた場所では、エドガーが同じ班の既存生徒二人と話している。
相手の二人はまだ緊張していた。
それでも、エドガーは王子としてではなく、同じ班の一人として立っているように見えた。
やがて、ベルンハルト先生が前へ出た。
ざわめきが止まる。
「全員、聞け」
低い声が中庭に通った。
「今日の実習は、王都北部の洞くつダンジョンで行う。目標は二層目まで行き、そこから戻ってくることだ」
二層目。
その言葉に、何人かが顔を見合わせた。
「三層以下には絶対に降りるな」
ベルンハルト先生の声が、さらに硬くなる。
「三層から下は魔物の質が変わる。興味本位で足を踏み入れた者は、その時点で失格にする。教師が止める前に、自分たちで止まれ」
誰も軽口を挟まなかった。
「今回、評価するのは討伐数ではない。班で進み、班で判断し、班で戻ってこられるかだ」
先生の視線が、俺たち一人一人をなぞる。
「危険だと判断したなら、途中で引き返していい。むしろ、無理に進む方が悪い判断になることもある」
俺は腰袋に軽く触れた。
包帯と薬草はある。
予備もある。
剣も、魔力灯も準備した。
それでも、先生の言葉を聞くと、胸の奥が少し重くなる。
訓練場とは違う。
今日は本物の洞くつだ。
「班を離れるな。独断で先行するな。倒したいから進むな」
ベルンハルト先生はそこで一度言葉を切った。
「戻ってこい。それが今日の課題だ」
◇
学院を出た俺たちは、引率の教師と補助員に従って王都北部へ向かった。
北門を抜けると、道の空気が変わる。
街の石畳が途切れ、土の道になる。
遠くに低い丘が見え、その麓に黒い口のようなものがあった。
洞くつダンジョンの入口だ。
近づくにつれ、冷たい風が頬に当たる。
入口の前には、学院の教師たちと王都側の管理人が立っていた。
補助員も数人いる。
完全に放り出されるわけではない。
だが、班ごとに中へ入る以上、最初に動くのは俺たちだ。
「思ったより狭いな」
クラウスが洞くつの入口を見て言った。
「中で広がるのかもしれないわ」
ミラが小さな光球を出す。
光は外では明るく見えたが、洞くつの奥までは届かない。
入口の向こうは、すぐに暗く沈んでいた。
俺は手袋をはめ、剣の柄を確かめる。
腰袋には包帯と薬草。
亜空間収納には予備。
準備はしてきた。
それでも、暗がりの前に立つと、背筋が自然に伸びた。
近くでは、他の班も最後の確認をしている。
ガイル班では、ガイルとライオネルが前に出る位置で少し揉めていた。
「俺が先でもいいだろ」
「通路で二人並んだら詰まるだろうが」
ナディアが二人の間に立つ。
「順番を決めてください。洞くつの中で言い合わないでくださいね」
「……分かった」
「先に決める」
セレナの班は、意外と静かだった。
オルドが淡々と配置を決めている。
「俺が前。セレナが中。ヴィクトルが後ろ」
「後ろって、一番怖いやつじゃない?」
ヴィクトルが眉を寄せる。
「なら前に出る?」
セレナが言うと、ヴィクトルはすぐに首を振った。
「後ろでいいです」
いつもの調子に聞こえるが、セレナの目は洞くつから離れていなかった。
俺たちの番も近い。
クラウスが剣を抜かずに柄だけを握る。
「俺が前だ」
「私は光と足元を見るわ」
ミラの光球が、低い位置へ下がった。
「俺は壁と奥を見る。危険があれば短く言う」
クラウスが頷く。
「迷ったら止まる」
「下がる時は、私が後ろを照らすわ」
「分かった」
訓練場では、何度も動きが止まった。
言葉が長すぎた。
見る場所も、動くタイミングもずれた。
でも、今は違う。
完璧になったわけではない。
ただ、三人の中で何をするかは決まっている。
ベルンハルト先生がこちらを見た。
「ハル班。入れ」
クラウスが一歩目を踏み出す。
ミラの光が、その足元を照らした。
俺は後ろに続く。
洞くつの中へ入った瞬間、音が変わった。
靴音が壁に返る。
奥から水の滴る音がする。
外の光は、背中側で細くなっていく。
「足元、右に段差」
「分かった」
クラウスが少し左へ寄る。
ミラの光が下がり、段差の影を拾った。
俺たちの足は止まらない。
最初の数歩は、悪くない。
その時、奥で小さな音がした。
石を踏んだような、乾いた音。
クラウスの手が剣にかかる。
ミラの光がわずかに強くなった。
俺は壁際ではなく、まず前を見る。
全部を見ようとしなくていい。
今、必要なことだけを伝える。
「前方、何かいる」
クラウスが剣を抜いた。
「見えた」
ミラの光が、暗がりを少しだけ押し返す。
洞くつ実習が、始まった。
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