第26話 初値
初荷が出てから、俺はどうにも落ち着かなかった。
執務室に戻っても、帳面の数字が頭に入らない。
水を飲んでも、窓の外を見ても、心のどこかがずっと引っかかっている。
理由ははっきりしていた。
最後に浮かんだあの文字だ。
《次の綻び:街道の先》
街道の先。
それが盗賊なのか、買い叩きなのか、別の何かなのかまでは、あの時点では見えなかった。だが、少なくとも「出して終わりではない」ということだけはわかっていた。
「……やっぱり行く」
そう言うと、帳面を整理していたミアが顔を上げた。
「えっ」
「追いかける。初荷が町へ着く前には間に合うはずだ」
「でも、ノルさんは屋敷に残るって……」
「ノルは残しておいて正解だよ。ここを空けたくない。だからミア、君も来て」
「わ、私もですか?」
「荷札と帳面の確認ができる人が必要」
ミアは一瞬だけ慌てたが、すぐにうなずいた。
「……行きます」
その返事は、最初の頃よりずっと強かった。
◇
初荷が向かった先は、王都へ続く街道筋の中継町、ラーデンだった。
王都そのものほど大きくはない。
だが周辺領の荷が集まり、王都へ流れる前に相場が決まる場所でもある。
昼を少し過ぎた頃、俺たちが町へ入ると、市場は思った以上に賑わっていた。
香辛料。干し肉。豆。芋。布。
呼び込みの声、値段をめぐる怒鳴り合い、馬のいななき。
人と物と金が、狭い路地の中でぶつかり合っている。
「……すごいですね」
ミアが目を丸くする。
「うん。でも、こういう場所ほど顔色で値が決まる」
つまり、小領地の初荷なんて、最初は舐められる。
視界の端に、青い文字が浮いた。
《価格操作の綻び》
《結託》
《新規荷の買い叩き》
《標的:ハル領初荷》
やっぱり、そこか。
「こっち」
市場の一角、地方荷を扱う並びへ向かうと、すぐにエドたちの姿が見えた。
二台の荷車は無事だった。
だが、その前でエドが苛立った顔をしている。
「だから、草じゃないって言ってるだろ!」
「草は草だろうが」
荷の前に立っていたのは、腹の出た仲買人だった。
脂っこい髪、細い目、口元だけが笑っている。
「そんなもんに値なんかつかねえよ。まとめて買ってやるって言ってんだ、ありがたく思え」
視界が反応する。
《相場操作》
《虚偽説明》
《周辺仲買との談合》
《グレイヴ侯爵家側と接触歴あり》
当たりだ。
「その値じゃ売らない」
俺が声をかけると、エドが振り返った。
「リオン!?」
「来たんだ」
「そりゃ来るよ」
仲買人が眉をひそめる。
「坊ちゃんが責任者か?」
「そうだよ」
「なら話は早い。そっちの草は全部まとめて銅貨八枚。豆と芋と麦も、小領地の初荷じゃ信用がねえ。合わせて銀貨一枚半ってとこだな」
安すぎる。
市場を知らない人間なら、「そんなものか」と思って飲まされる額だ。
ミアが悔しそうに帳面を抱き締める。
エドは今にも殴りかかりそうな顔をしていた。
「断る」
俺が言うと、仲買人は肩をすくめた。
「ほう。じゃあ、他に買うやつがいると?」
その瞬間だった。
「その草、ちょっと見せて」
横から入った声に、仲買人が露骨に顔をしかめた。
人垣の向こうから、一人の女が歩いてくる。
二十代後半くらい。
すっきりした顔立ちで、髪は後ろでまとめている。
飾り気は少ないが、服の布はいい。歩き方に迷いがなく、周囲の人間が自然と道を空けていた。
彼女は青葉草の束を一本持ち上げ、布を少しだけめくる。
そして葉を指先で潰した。
すっと、香りが立った。
女の目が、わずかに変わる。
「……これ、どこの草?」
「ハル領、北村の青葉草です」
「青葉草」
彼女はその名を一度口の中で転がすように言ってから、今度は束の乾き具合を確かめた。縄の締め方、葉の揃い、砕け具合まで見ている。
見る目がある。
視界の端に文字が浮いた。
《食材鑑定適性:高》
《王都販路あり》
《価格評価:適正》
よし。
「あなたは?」
俺が聞くと、女はようやくこちらを見た。
「レティシア・モーヴ。王都へ食材を流してる商会の実務を見てる」
やっぱり来た。
彼女は青葉草の束を置き、二台目の荷も見る。
豆袋を開け、指先で一粒つまみ、芋の表面の傷み具合も確かめる。
「豆の選別がきれいね。芋も悪くない。麦も、少なくとも湿った袋と混ぜてない」
横で仲買人が鼻を鳴らした。
「モーヴさん、そんな地方荷に構っても――」
「黙って」
一言だった。
でも、その場の空気がすっと冷えた。
レティシアは俺へ向き直る。
「青葉草、試した?」
「魔物肉で」
「やっぱり」
彼女は少しだけ笑った。
「この香りなら、臭みの強い肉にも使える。王都の料理屋なら欲しがるところがあるわ」
エドが、はっきりと顔を変えた。
半信半疑だったのは俺たちだけじゃない。こいつも、実際に売り先の人間がそう言うのを待っていたんだろう。
「……じゃあ、売れるのか」
「雑草なら売れない。でもこれは商品よ」
その言い方は、妙に気持ちよかった。
レティシアは青葉草の束を持ち上げたまま言う。
「全部で三十八束?」
「はい」
「全部買う」
ミアが息を呑む。
仲買人が慌てた。
「おいおい、ちょっと待て――」
「あなたの話はもう終わり」
レティシアは視線すら向けない。
「値は、束ごとに銀貨一枚」
エドとミアが固まった。
俺も内心では少し驚いた。想定より上だ。
「ただし条件がある」
彼女はすぐ続ける。
「次も同じ品質で持ってこられること。乾かし方を崩さないこと。束ね方もこのまま。勝手に量だけ増やして質を落とすなら買わない」
「できます」
俺は即答した。
「言い切るのね」
「言い切れないものは出さないので」
レティシアの口元がわずかに上がった。
「嫌いじゃないわ、その言い方」
今度は二台目へ顎を向ける。
「豆と芋、麦は全部は買わない。でも、南村のこれは状態がいい。半分は私が取る。残りは市場の別口へ回しても、前より上で売れるはずよ」
「助かる」
「助かるかどうかは次第。続けば、だけど」
そう言ってから、レティシアは少しだけ声を落とした。
「この市場、最初の荷は舐められるの。今日みたいにね」
視線の先には、さっきの仲買人。
男は顔を歪めたが、何も言えない。
「でも、一度“売れる”とわかった荷には群がる。だから次はもっと面倒になるわ」
「でしょうね」
「それでも出す?」
「出します」
俺がそう答えると、レティシアは今度こそはっきり笑った。
「なら話は早い」
その場で彼女は従者に命じて銀貨袋を持ってこさせた。
青葉草三十八束分の銀。二台目の半分の買い取り分。
初荷としては十分すぎる額だった。
ミアが震える手で帳面へ書きつける。
「銀貨……三十八、豆と芋と麦で……」
「間違えるなよ」
エドが低く言う。
「わ、わかってます!」
でもその声は、半泣きというより半笑いだった。
◇
売買が一段落したあと、俺たちは市場の端の荷下ろし場に腰を下ろした。
エドは銀貨袋を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
それから、ぽつりと呟く。
「……本当に、売れた」
「売れたね」
「しかも、あんな草が」
「草じゃなくて青葉草」
「わかってるよ」
エドはそう言って、少しだけ笑う。
「でも、あれを抜いて捨ててたんだよな、前まで」
「うん」
「南村の豆も、もっと安く流すと思ってた」
「そうならなかった」
「……ああ」
その返事は短かったけど、重かった。
前世で何度も見た。
人は口で説明されるより、最初の売上の方を信じる。
北村も南村も、今日から少し変わる。
そこへレティシアが戻ってきた。
今度は仕事の顔だった。
「これ」
差し出されたのは、小さな木札だった。商会の印と、王都内の荷受け先らしい記号が入っている。
「次の荷を持ってくる時、それを見せなさい。私のところへ回るように言ってある」
「継続で買ってくれるってこと?」
「品質が落ちなければね」
レティシアは淡々と言う。
「北村の青葉草は面白い。南村の荷も、“ちゃんとした地方荷”としては悪くない。量が揃えば、王都側で回せる」
その“回せる”という言い方が、彼女の仕事の温度をよく表していた。
情けではない。
商売として成立するから、繋ぐ。
だから信用できる。
「一つ聞いてもいい?」
「なに?」
「なんで最初に青葉草の価値がわかったの?」
レティシアは少しだけ首を傾けた。
「香りが立ってたから。それに、乾かし方が雑じゃなかった」
彼女は青葉草の束を一本持ち上げる。
「雑草は雑に扱われる。でも、これは違った。試されてる荷の顔をしてた」
なるほど。
こっちが本気で作ったものは、見る人が見ればわかる。
そういうことか。
「覚えておく」
「ええ。覚えなさい」
そこで彼女は一度だけ俺をまっすぐ見た。
「あなた、見た目ほど子どもじゃないわね」
思わず少しだけ息が止まる。
まさか、とは思ったが、彼女はそれ以上は何も言わなかった。
「でも、若いのは武器よ。地方の小領地の子どもが、こんな荷を持ってきた。そういう話は、王都でよく回るから」
「いい意味で?」
「さあ」
レティシアは肩をすくめた。
「でも、埋もれるよりはましでしょ」
それはたしかにそうだった。
◇
帰りの荷車は、行きより軽かった。
青葉草は全部なくなった。
南村の荷も半分以上が売れた。
残りも、値のいい買い手をつけてから帰れる。
市場を出る時、エドが後ろを振り返った。
「リオン」
「うん?」
「次は、もっと積める」
「そのつもり」
「でも質は落とさねえ」
「そこが大事だね」
エドはうなずく。
前よりずっといい顔だった。
視界の端に、青い文字が浮かぶ。
《初荷:成功》
《販路確保》
《継続取引の兆し》
《次の綻び:供給量と品質》
俺はその文字を見て、少しだけ笑った。
次は量と質、か。
いい。
それならやることははっきりしている。
初荷は売れた。
ハル領にとって貴重な外貨となった。
次は、それを続く形に変える番だ。




