第244話 夏休み最終日
夏休みが終わる五日前、母上に呼び止められた。
「リオン、王都へ戻る準備は大丈夫なの?」
「準備?」
「ええ。そろそろ出発しないと、学院に間に合わないのではなくて?」
そう言われて、俺は少しだけ迷った。
普通なら、その通りだ。
ハル領から王都までは、馬車で五日もかかる。
夏休みの終わりまで領に残るなど、本来ならできない。
けれど、今回は違う。
「大丈夫。今回は転移魔法で戻るから、ぎりぎりまで家にいられるよ」
母上の目が丸くなった。
「転移魔法?」
「うん。ただ、これは学院長からも、人前で使ったり、目立つ使い方をしたりしないように言われているんだ」
「それほどの魔法なのね」
「だから、母上にもお願い。皆には内緒にしておいて」
母上は少しだけ不安そうに俺を見た。
「身体への負担は大丈夫なの?」
「最初よりは軽くなっているよ。
同じ魔法は、使えば使うほど身体が慣れていくみたいなんだ。
魔力の流れが、術式に馴染む感じかな」
もちろん、転移魔法が簡単な魔法になるわけではない。
どこにでも自由に飛べるわけでもない。
条件を整えた場所にしか戻れないし、無理をすれば身体への負担も大きい。
今回は、王立学院の寮の自室に戻るだけだ。
母上はしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「分かりました。でも、無理はしないでね」
「うん。約束する」
そうして、俺は夏休みの最後までハル領に残ることになった。
◇
五日は、あっという間に過ぎた。
夏休み最終日。
俺は朝から西の森へ向かった。
町が完成したわけではない。
仮役場はまだ仮役場だし、寝床も十分とは言えない。
道も、灯りも、水場も、まだ整えることばかりだ。
それでも、今日見たいものは決まっていた。
俺がいなくても、動けるか。
それだけだ。
仮役場へ着くと、入口の横に木板が掛けられていた。
役場で決めること。
レナードへ上げること。
ノルへ知らせること。
屋敷へ伝えること。
文字の横には、エルムが描いた絵印もある。
それだけでも、前よりずっと分かりやすくなっていた。
中では、エルムが宿札を作り替えていた。
「おはよう、エルム」
「若様、おはようございます」
「それは?」
「三番小屋から仮宿西側へ戻る方が一人いましたので、宿札を直しています」
「理由は?」
「同じ班の方が明日から別の作業場へ移るそうです。
寝床の人数は足りています。揉め事もありません」
エルムはそう言って、帳面の一行を指で示した。
俺に判断を求めているのではない。
もう処理したことを、報告している。
「分かった。夕方のまとめに入れておいて」
「はい」
外へ出ると、マルクが作業員と話していた。
「それは役場で見ます。賃金の話なら、まず作業日を確認しましょう。
支払い額が変わる話なら、レナード様へ上げます」
声はまだ少し硬い。
でも、誰に渡すべきかは分かっている。
食事小屋では、リタが木片を箱に入れていた。
「今日は多そう?」
「昨日よりは少ないです。ただ、石切り場から来る方が昼だけ増えそうなので、昼食分だけ少し足します」
「レナードには?」
「三日続くようなら上げます。今日はまだ役場で見ます」
「うん」
俺が答える前に、リタが言った。
それでいい。
しばらくして、ノルが戻ってきた。
「森側の道に危険札を一つ移しました」
「ぬかるみ?」
「はい。昨日より広がっています。ただ、荷車は回せます。
補修は明日、マルク殿と人を出します」
「分かった」
ノルは短く頷くと、役場の帳面に場所と理由を書き残した。
俺が細かく指示を出す必要はなかった。
西の森は、まだ不完全だ。
宿札をなくした者もいる。
食事数の記録に抜けもある。
危険札の場所を知らず、遠回りを嫌がる作業員もいた。
それでも、全部が俺のところへ来るわけではない。
役場で受け、必要な相手へ流れている。
その流れがあるだけで、以前とは違っていた。
昼過ぎ、俺はレナードのところへ行った。
レナードは仮役場の奥で、帳面を確認していた。
書類はある。
けれど、山にはなっていない。
「レナード、無理してない?」
俺が聞くと、レナードは少しだけ笑った。
「以前より楽になりました」
「本当に?」
「はい。小さな相談が、すべて私のところへ来なくなりました。
役場で済むものは役場で止まり、安全の話はノル殿へ流れます。
私のところへ来る時には、ある程度整理されています」
それを聞いて、胸の奥が少し軽くなった。
レナードに丸投げしているわけではない。
役場が分けている。
ノルが見ている。
リタも、エルムも、マルクも、それぞれ動いている。
「若様が王都へ戻られても、すぐに止まることはありません」
レナードは静かに言った。
「もちろん、問題は出ます。足りないところもあります。
ですが、どこへ上げるかは見えてきました」
「なら、よかった」
「はい。ここから先は、動かしながら直していきます」
完成ではない。
それでいい。
最初から完成した町など作れない。
止まらず、直しながら進める。
それが今の西の森に必要なことだった。
夕方前、西の森夜間学校の準備も見た。
エルムが文字札を並べ、マルクが数字用の木片を数えている。
リタは食事の片づけをしながら、参加者に声をかけていた。
俺がいなくても、夜になれば灯りがつく。
人が集まり、名前を書き、数を覚える。
小さなことだ。
でも、その小さなことが続けば、西の森はただの作業場ではなくなっていく。
俺は、そこで皆に挨拶をした。
「しばらく王都へ戻る。西の森のこと、よろしくお願いします」
エルムが深く頭を下げる。
「お任せください」
マルクも頷いた。
「迷ったら、判断表を見ます」
リタは少し笑った。
「食事に来ない人がいたら、ちゃんと役場へ知らせます」
ノルはいつも通り、短く言った。
「安全は見ておきます」
俺は一人ずつ顔を見た。
任せる。
その言葉の重さが、少しだけ分かった気がした。
◇
屋敷へ戻ると、母上が待っていた。
俺は、西の森の様子を報告した。
役場判断が動いていること。
レナードに小さな相談が集まりすぎていないこと。
ノルへの安全報告が流れていること。
屋敷へ上げるべきものが少しずつ整理されていること。
母上は静かに聞いていた。
「分かりました。あなたが王都へ戻った後は、私も決まった日に報告を受けます」
「毎日じゃなくていいと思う」
「ええ。毎日すべてを聞いていたら、私もレナードも続きません」
母上はそう言って、少しだけ笑った。
「大事なことだけ、きちんと上げてもらいます」
「うん。それがいいと思う」
父上の部屋にも行った。
父上は寝台に横になっていた。
顔色はまだよくない。
けれど、目はしっかりしていた。
「西の森はどうだった」
「止まらない形には、なり始めてる」
「そうか」
父上は小さく頷いた。
長く話す必要はなかった。
「行ってこい、リオン」
「はい」
それだけで十分だった。
◇
夜。
俺は荷物を亜空間収納魔法で片付け、屋敷の自室へ向かった。
転移魔法のことを知っている者は限られている。
学院長からも、人前で使うなと言われている。
だから、見送りは母上だけだった。
「本当に大丈夫なのね?」
「うん。王立学院の寮の自室に戻るだけだから」
「着いたら、無理をせず休みなさい」
「分かった」
床には、あらかじめ確認しておいた術式陣がある。
転移先は、王立学院の寮の自室。
固定した場所へ戻るだけなら、今の俺でも使える。
初めて使った時は、身体の奥を引っ張られるような負担があった。
けれど、何度か使ううちに、その感覚は少しずつ軽くなった。
魔法は、使えば使うほど身体が慣れていく。
俺は術式陣の中央に立った。
「行ってきます、母上」
「行ってらっしゃい、リオン」
母上の声を聞きながら、魔力を流す。
術式が淡く光った。
視界が揺れる。
身体が一瞬、薄く引かれるような感覚がした。
次の瞬間、俺は王立学院の寮の自室に立っていた。
窓の外には、王都の夜が広がっている。
夏休みは終わった。
けれど、西の森のことが終わったわけではない。
俺は小さく息を吐き、亜空間収納から荷物を取り出して机の横に置いた。
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