第241話 消えた出稼ぎ者
八月も中ごろに差しかかる頃。
西の森の仮役場にも、少しずつ人の出入りが増えていた。
滞在帳と宿札の運用は、まだ粗い。
宿札をなくす者もいる。
寝床を変えたのに、役場へ伝え忘れる者もいる。
それでも、寝床を間違えた時に役場で確認できることや、食事小屋の人数が前より読みやすくなったことで、少しずつ受け入れられ始めていた。
夏休みは、もう後半に入っている。
俺が学院へ戻る日は、少しずつ近づいていた。
そんな朝、リタが仮役場へ駆け込んできた。
「リオン様、レナード様」
いつも落ち着いているリタにしては、声が少し乱れている。
「どうしたの?」
「グレイヴ領から来ている出稼ぎの方が、一昨日の夜から食事に来ていません」
俺は顔を上げた。
レナードもすぐに帳面を閉じる。
「名前は分かりますか」
「はい。ダンという方です。いつも夜は食事小屋へ来ていました。
でも、一昨日の夜も、昨日の朝も夜も来ていません」
「寝床は?」
俺が聞くと、リタは首を振った。
「そこまでは……」
「マルクを呼んで」
「はい」
リタが出ていく。
少しして、マルクが仮役場へ駆け込んできた。
「リオン様、呼びましたか」
「グレイヴ領から来ているダンという人、分かる?」
「ああ、分かります。短期人足で入って、そのまま残っている人です」
「寝床を確認してきて」
「はい」
マルクはすぐに飛び出していった。
俺はレナードと顔を見合わせる。
「ただ食事に来ていないだけならいいけど」
「二日続けてとなると、確認すべきでしょう」
「うん」
滞在帳を開く。
ダン。
出身、グレイヴ領。
仕事、荷運び補助。
滞在区分、出稼ぎ。
寝床、仮宿西側。
食事、朝夕。
滞在予定、未定。
滞在予定の欄に、未定と書かれている。
その文字が、妙に引っかかった。
◇
しばらくして、マルクが戻ってきた。
表情が硬い。
「寝床にいません」
「荷物は?」
「布袋が一つ残っています。でも、本人はいません。
隣で寝ていた人に聞いたら、二日前の夕方から戻っていないそうです」
レナードがすぐに帳面へ記す。
「最後に見た場所は?」
「作業場の近くです。ただ、その日の午後、少し様子がおかしかったと」
「様子?」
「滞在帳の確認をした時に、かなり不安そうだったらしいです」
俺は眉を寄せた。
「何を聞いたの?」
「滞在予定です。あと、出稼ぎとして残るのか、短期人足に戻すのか」
マルクは言いづらそうに続けた。
「その時、ダンは『それはグレイヴ領にも知られるのか』と聞いたそうです」
部屋の空気が変わった。
レナードの手が止まる。
滞在帳は、人を守るための帳面だ。
寝床を確認し、食事を用意し、何かあった時に探せるようにする。
だが、書かれる側がそう受け取るとは限らない。
「ノルを呼ぼう」
俺は立ち上がった。
「見回りに確認する」
◇
ノルはすぐに来た。
事情を聞くと、顔つきが一段鋭くなる。
「最後に戻っていないのが二日前の夕方なら、念のため周辺を確認すべきです」
「森に入った可能性は?」
「あります。ただ、荷物を残しているなら、遠くへ行ったとは限りません」
ノルはマルクを見る。
「ダンがよく行く場所は」
「資材置き場の方で休んでいるのを何度か見ました。
あと、西側の荷車道の脇です」
「そこから確認します」
ノルがすぐに見回りの者へ指示を出す。
マルクも案内役として同行することになった。
俺も行こうとすると、ノルが一瞬だけこちらを見た。
「若様は、無理に前へ出ないでください」
「分かってる。邪魔はしない」
レナードも一緒に来る。
仮役場に残るエルムには、ダンの宿札と滞在帳の控えを確認してもらった。
リタには、食事小屋でダンを最後に見た者がいないか聞いてもらう。
役場が動き出す。
リタが食事の異変に気づき、マルクが寝床を確認し、エルムが帳面を見る。
ノルが見回りを動かし、レナードが記録をまとめる。
作っていたものは、無駄ではなかった。
ただし、今は感心している場合ではない。
ダンを見つけなければならない。
◇
資材置き場の周辺を確認したが、すぐには見つからなかった。
荷車道の脇にもいない。
だが、マルクがふと足を止めた。
「こっちです」
「何かあるのか」
ノルが聞く。
「あの人、昼休みによく古い資材小屋の裏にいました。人が少ないから落ち着くって」
古い資材小屋。
今はほとんど使われていない小屋で、屋根の一部が傷み、古い木材や縄が置かれているだけの場所だ。
俺たちはそこへ向かった。
近づくと、中から小さな物音がした。
ノルが片手を上げ、全員を止める。
「誰かいる」
マルクが声をかけた。
「ダンさん、いるなら返事してください。怒りに来たわけじゃありません」
しばらく沈黙があった。
やがて、かすれた声が返ってくる。
「……マルクか」
「はい。リオン様もいます」
中で何かが動く音がした。
扉がゆっくり開く。
出てきたのは、やつれた顔の男だった。
年は三十前後だろうか。
目の下にくまがあり、服には土がついている。
怪我はしていないようだが、かなり疲れている。
「ダン?」
俺が聞くと、男は慌てて膝をつきそうになった。
「す、すみません。勝手に抜けたわけじゃ……」
「まず座って。水を」
ノルの部下が水袋を渡す。
ダンは震える手でそれを受け取った。
水を飲んでからも、しばらく顔を上げられなかった。
「どうしてここにいたの?」
俺はなるべく静かに聞いた。
ダンは唇を噛んだ。
「滞在帳に、残るかどうかを書くと言われて……」
「うん」
「俺は、まだ決めてないんです。でも、帰りたいわけでもなくて……。
ここに仕事があるなら、もう少し残りたい。
でも、それを帳面に書かれたら、グレイヴ領に知られるんじゃないかと思って」
やはり、そこだった。
ダンは震える声で続けた。
「俺の家族は、まだ向こうにいます。
俺が戻らないつもりだと思われたら、家族に何を言われるか分からない」
誰もすぐには口を開かなかった。
森の中を、風が抜ける音だけが聞こえる。
俺は、滞在帳を作った時の自分の言葉を思い出していた。
人を守るための帳面。
でも、それは俺たちの理屈だ。
ダンにとっては、自分の立場を元の領地に知られるかもしれない怖い紙だった。
「ダン」
「はい」
「滞在帳は、君をグレイヴ領へ連れ戻すためのものじゃない」
ダンが顔を上げた。
「本当ですか」
「うん。少なくとも、他領の者が見たいと言っただけで見せるものではない。
正式な調査があるなら、領主家や司法院を通す。
でも、君たちを勝手に連れ戻すために使わせるつもりはない」
ダンは、まだ完全には信じきれていない顔をしていた。
当然だと思う。
一言で不安が消えるなら、こんな場所に隠れたりしない。
「滞在予定も、今すぐ決めなくていい」
「え……」
「今は、どこで寝ているか、どの仕事をしているか、食事が必要か。
それだけでいい。残るか帰るかは、君が相談できる時に話してくれればいい」
ダンの肩から、少し力が抜けた。
マルクも隣で頷く。
「俺も説明が足りませんでした。すみません」
「いや……俺が勝手に怖がって」
「怖がる理由があったんだと思う」
俺がそう言うと、ダンは黙った。
制度を作る側は、正しいつもりでいる。
でも、受け取る側には違う景色が見えている。
そこを見落とせば、帳面は守る道具ではなくなる。
「戻れる?」
俺が聞くと、ダンは小さく頷いた。
「はい。戻ります」
「今日は無理に働かなくていい。食事を取って休んで」
「ありがとうございます」
ノルが部下へ指示を出し、ダンを仮役場へ連れていくことになった。
◇
仮役場へ戻ると、エルムとリタが待っていた。
ダンの姿を見ると、リタはほっとしたように息を吐いた。
「よかった……」
エルムは宿札の控えを机に置く。
ダンは恐縮したように頭を下げた。
「すみませんでした」
「まず休んでください」
レナードが穏やかに言った。
「帳面の確認は、その後で構いません」
ダンは頷き、食事小屋へ向かった。
リタがすぐについていく。
その背中を見送りながら、俺は長板の前に座った。
「説明が足りなかったね」
誰に向けたわけでもなく、そう言った。
マルクが顔をしかめる。
「俺も、滞在予定を聞く時にもっと言えばよかったです」
「マルクだけの問題じゃない」
俺は首を振った。
「役場として、ちゃんと決めておくべきだった。
滞在帳を誰が見るのか。何のために使うのか。他領に見せるのか見せないのか」
レナードが静かに頷く。
「利用する者に伝える決まりが必要ですな」
「うん」
俺は木板を引き寄せた。
そこに、短く書く。
滞在帳の扱い。
一、寝床、食事、安全確認のために使う。
二、他領から求められても、勝手には見せない。
三、正式な調査は、領主家または司法院を通す。
四、移住希望は、本人の同意なしに記さない。
書きながら、胸の奥が重くなった。
滞在帳は、ダンを探す役には立った。
食事小屋に来ていないこと。
寝床に戻っていないこと。
最後に不安そうだったこと。
それらがつながったから、早く見つけることができた。
だが、同時に、その帳面がダンを怖がらせてもいた。
「帳面が何のためにあるのか。それを、書かれる人にも分かる言葉で伝えないといけない」
俺が言うと、レナードは深く頷いた。
「明日から、滞在帳の確認時にその説明を加えましょう」
「うん。マルク、出稼ぎの人たちにも伝えてほしい」
「分かりました」
「リタにも、食事小屋で不安そうな人がいたら教えてもらう」
「はい」
エルムが小さく手を上げた。
「あの、説明用の札を作りましょうか」
「説明用?」
「文字を読める人向けには短い文を。
読めない人向けには、寝床、食事、見回りの絵印を入れます。
滞在帳が何のためのものか、役場の前に出しておけば……」
「それ、いいね」
また一つ、役場が少しだけ形を変える。
問題が起きた。
その原因を見て、仕組みを直す。
それを繰り返すしかない。
俺は木板に書いた決まりを見つめた。
滞在帳は、人を探す役には立った。
だが、それだけでは足りない。
人を守るための帳面だと、こちらが思っているだけでは駄目なのだ。
第二段階は、人数をそろえるだけでは終わらない。
まず、人に信じてもらうところから、もう一度始める必要があった。
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