第237話 最初の役人たち
護送馬車を見送ったあと、俺とレナードは屋敷の小さな執務室へ戻った。
机の上には、役場に必要な人材を書いた木板が残っている。
西の森役場。
責任者 レナード・グレン。
帳面・札 エルム。
現場連絡 マルク。
生活連絡 リタ。
安全連携 ノル。
名前だけを見れば、役場の形は少しずつ見えてきたように思える。
だが、これだけではまだ駄目だ。
本人たちに話をしなければならない。
しかも、ただ仕事を割り振るだけではいけない。
俺は木板を見ながら、少し考え込んだ。
「若様」
レナードが静かに声をかける。
「はい?」
「候補者たちには、まず役割よりも、なぜ西の森役場を作るのかをお話しされた方がよいかと」
俺は顔を上げた。
ちょうど同じことを考えていた。
「うん。俺もそう思ってた」
前世でも、新しい事業を始める時、いきなり役割だけを渡してもうまくいかないことが多かった。
何をやるのか。
誰のためにやるのか。
自分の仕事が、どこにつながるのか。
それが見えなければ、人はただ仕事を増やされたように感じる。
西の森役場も同じだ。
エルムには帳面。
マルクには現場連絡。
リタには生活側の変化。
そう伝えるだけでは、おそらく重い。
まず、何を目指しているのかを共有する必要がある。
「レナード」
「はい」
「俺は、西の森をただの作業場で終わらせるつもりはない」
レナードは黙って聞いていた。
「今はまだ、食事小屋と湯屋と夜間学校があるくらいだ。
仮宿も十分じゃないし、役場もない。でも、いつかは……」
俺は少し言葉を止めた。
自分でも、大きすぎることを言おうとしている自覚はあった。
「いつかは、領都にも負けない町にしたい」
レナードの目が、わずかに見開かれた。
「領都にも、ですか」
「うん」
言葉にすると、胸の奥が熱くなった。
西の森は、今はまだ未完成だ。
危険も多い。
道も整いきっていない。
人の管理も追いついていない。
でも、だからこそ可能性がある。
最初から、人が働きやすく、暮らしやすく、学びやすい町として設計できる。
古いしがらみの少ない場所だからこそ、最初の形を間違えたくない。
「ただ、それをいきなり皆に言うつもりはないよ」
「その方がよろしいでしょう」
レナードは静かに頷いた。
「急に領都にも負けない町と言われれば、エルムやマルク、リタはかえって身構えるかもしれません」
「うん。まずは、もっと近い言葉で話す」
「近い言葉、ですか」
「西の森を、安心して働き、食べ、湯に入り、学び、眠れる場所にしたい」
レナードの表情が少し和らいだ。
「それなら、皆にも届きやすいかと」
「うん。大きな目標は、今は俺とレナードが分かっていればいい。
最初に必要なのは、皆が自分の仕事として受け止められる形だと思う」
「承知しました」
レナードは帳面を閉じた。
「では、まず候補者たちを集めましょう」
「場所は、屋敷じゃなくて西の森がいい」
「食事小屋の一角でしょうか」
「うん。役場は西の森のためのものだから。そこで話した方がいいと思う」
こうして、俺たちは西の森へ向かうことにした。
◇
昼前。
食事小屋の忙しさが少し落ち着いた頃、俺たちは一角に長い板を置いてもらった。
まだ正式な役場ではない。
会議室でもない。
けれど、今の西の森で人が集まりやすい場所といえば、ここだった。
俺の前には、エルム、マルク、リタが座っている。
横にはレナード。
少し離れたところにミア。
ノルも壁際に立っていた。
エルムは背筋を伸ばしているが、表情は少し硬い。
マルクは落ち着かない様子で、何度も手を組み替えている。
リタは、自分がなぜここに呼ばれたのか、まだよく分からないという顔をしていた。
無理もない。
いきなり役場の候補と言われても、困るだろう。
だから、俺は最初に役割の話をしなかった。
「今日は、皆に西の森役場のことで相談したい」
三人の表情が引き締まる。
「ただ、その前に、なぜ役場を作りたいのかを話したい」
俺は食事小屋の中を見回した。
昼の準備にはまだ少し早い。
だが、かまどには火が入り、木椀や板皿が並べられている。
外からは、荷車の音が聞こえた。
遠くでは作業員たちの声もする。
「西の森は、もうただの作業場ではなくなってきている」
俺はゆっくり話した。
「ここで働く人がいる。食事をする人がいる。湯屋で体を休める人がいる。
夜間学校で文字や数を学ぶ人も出てきた」
三人は黙って聞いている。
「人が増えれば、困りごとも増える。
寝床のこと、食事のこと、道のこと、怪我のこと、仕事のこと。
誰に言えばいいか分からないまま、我慢する人も出ると思う」
リタが少しだけ目を伏せた。
食事小屋にいるから、そういう空気を感じたことがあるのかもしれない。
「俺は、西の森を、安心して働き、食べ、湯に入り、学び、眠れる場所にしたい」
言いながら、自分の中にあるもっと大きな目標を思い出す。
領都にも負けない町。
けれど、今ここでその言葉は出さない。
まず必要なのは、目の前の人たちが納得できる一歩だ。
「困った時に、どこへ行けばいいか分かる場所を作りたい。そのために、西の森役場を始めたい」
エルムが小さく息を呑んだ。
マルクは、少しだけ姿勢を正した。
リタは驚いたように俺を見ている。
「ただし、最初から正式な役人になれと言うつもりはない」
俺は続けた。
「まず十日間、試したい。うまくいかなければ直す。
負担が大きければ役割を変える。足りないものがあれば、また考える」
「十日間、ですか」
エルムが聞いた。
「うん。十日間の試し運用だ」
俺は頷く。
「だから、最初から完璧にやろうとしなくていい。むしろ、気づいたことは遠慮なく言ってほしい。
西の森で働く人たちにとって、本当に使いやすい形にしたいから」
少しだけ、三人の緊張が和らいだ気がした。
そこで、レナードが補足する。
「役場は、すべてを抱える場所ではありません。
食事のことは食事小屋へ、安全のことはノル殿へ、帳面のことは私へ。
大事なのは、困りごとが迷子にならないことです」
「そう」
俺は頷いた。
「役場の仕事は、偉い人が座って命じることじゃない。
人の話を聞く。必要なことを記録する。
自分たちで解決できないことは、正しい相手につなぐ」
聞く。
記録する。
つなぐ。
まずは、それが役場の中心になる。
◇
最初に、俺はエルムへ向き直った。
「エルム」
「はい」
エルムの声は少し硬かった。
「エルムには、帳面と札の担当をお願いしたい」
「私が、役場の帳面を……ですか」
「うん。ただし、全部を一人で見るわけじゃない。
レナードの下で、滞在帳の記入を手伝ったり、宿札を作ったり、絵印札を整理したりしてほしい」
「宿札、でございますか」
「誰がどこの小屋で寝るのかを示す札だよ。本人に渡すものと、役場に残す控えを用意したい」
エルムは少し考えるように目を伏せた。
「木札を作ることなら、できます。絵印を入れるのも、夜間学校の時と同じようにすれば……」
「うん。危険、退避、水場、荷車道の札も、これから増えると思う。
文字だけでなく、形でも分かるようにしたい」
「それなら、お手伝いできるかもしれません」
そこでエルムは少し不安そうに言った。
「ただ、私は人前で強く言うのは得意ではありません」
「そこは頼むつもりはないよ」
「え?」
「強く言う役ではない。間違えずに残す役を頼みたい」
エルムは、少し驚いた顔をした。
レナードが静かに言葉を添える。
「役場には、声の大きい者だけではなく、静かに正確に記録を整える者も必要です。
むしろ、帳面や札はそういう者でなければ任せられません」
エルムは、木札を扱う時と同じように、ゆっくり頷いた。
「十日間でしたら、やってみます」
「ありがとう」
俺はそう言って、次にマルクを見た。
◇
「マルクには、現場との連絡を頼みたい」
「俺が、ですか」
マルクは困ったように笑った。
「リオン様、俺は字も計算もそこまで得意じゃありませんよ。
役人なんて、とても……」
「マルクに任せたいのはそういう仕事じゃないよ」
「え?」
「マルクには、現場を回ってほしい。
作業班から困りごとを聞いたり、出稼ぎ者や短期人足に役場の場所を教えたり、寝床で困っている人を役場へつないだり」
マルクの表情が少し変わった。
「そういうことですか」
「うん。夜間学校でも、マルクは現場の言葉で説明してくれた。
荷車や木材の数え方も分かっている。作業員にも声をかけやすいと思う」
「まあ、現場の連中とは話せますけど」
「それが大事なんだ」
俺ははっきり言った。
「役場に必要なのは、きれいな文字を書ける人だけじゃない。
現場の人に嫌がられずに声をかけられる人も必要なんだ」
マルクは照れくさそうに頭をかいた。
「それなら……俺にもできるかもしれません」
「最初から役人と名乗らなくていい。十日間、現場連絡役として試したい」
「十日間なら、やってみます」
「ありがとう」
マルクはまだ少し不安そうだったが、さっきよりは表情が軽くなっていた。
残るは、リタだ。
◇
リタは、俺が視線を向けるとすぐに背筋を伸ばした。
「リタ」
「はい」
「リタには、食事小屋や湯屋のことを見てほしい」
「私が、ですか」
リタは明らかに戸惑っていた。
「私は食事小屋の手伝いです。役場の仕事なんて……」
「字を書いて調書を作ってほしいわけじゃないよ」
俺は首を振った。
「食事に来る人数の変化。いつも来る人が来ない時。体調が悪そうな人。
食事小屋で聞いた小さな困りごと。そういうことに気づいたら、役場へつないでほしい」
リタは困ったように手元を見た。
「そんな大事なこと、私にできるでしょうか」
そこで、ミアが少し前に出た。
「リタさんは、人の顔をよく覚えています」
「ミア様……」
「この前も、食事の数が一つ余った時に、誰が来ていないかすぐに気づいていました」
リタは恥ずかしそうに目を伏せた。
「あれは、たまたまです」
「たまたまでも、気づける人がいるのは大事です」
ミアの言葉は、柔らかかった。
俺も頷く。
「大きなことを一人で判断してほしいわけじゃない。気づいたことを伝えてほしい。
体調が悪そうな人がいる。いつも食事に来る人が来ていない。
女性の手伝いの人が相談しにくそうにしている。
そういう小さな変化を拾える人が必要なんだ」
「小さな変化……」
「うん。町は、大きな問題だけで壊れるわけじゃないと思う。
小さな不安や不便が積み重なって、人が離れていくこともある」
リタは黙っていた。
食事小屋で働いているからこそ、分かることがあるはずだ。
疲れた顔で食べる人。
黙って食事を残す人。
いつもと違う時間に来る人。
食事小屋は、人の変化が出やすい場所だ。
「食事小屋の責任者にも話を通す。無理に役場へ引き抜くつもりはない。
十日間、食事小屋にいながら連絡役を試してほしい」
リタは少し考えたあと、小さく頷いた。
「責任者がよいとおっしゃるなら……十日間だけ、やってみます」
「ありがとう」
これで、三人が頷いた。
まだ不安はある。
けれど、完全に拒む者はいなかった。
◇
最後に、ノルへ視線を向ける。
「ノル」
「はい」
「ノルには、役人としてではなく、安全連携をお願いしたい」
「承知しております」
ノルは最初から分かっていたように答えた。
「役場は見回りの代わりではない。けれど、見回りで気づいた異変を受け取る場所にはしたい」
「火元、夜道、何かあったときの退避場所、危険札、不審者、不自然な荷物。
そういったものですな」
「うん。あと、見慣れない死骸や術式の痕跡があれば、すぐにつないでほしい」
「分かりました」
ノルは頷いた。
「ただし、役場ができても、現場が油断すれば意味がありません。
決まりを作るなら、守らせるところまで考えるべきです」
「うん。それも一緒に考えたい」
ノルはそれ以上言わなかった。
だが、その短い確認で十分だった。
役場は、警備の代わりではない。
食事小屋の代わりでもない。
工房や現場責任者の代わりでもない。
それぞれをつなぐ場所だ。
◇
レナードが木板に、改めて名前を書き直した。
責任者 レナード・グレン。
帳面・札 エルム。
現場連絡 マルク。
生活連絡 リタ。
安全連携 ノル。
その横に、俺は一つ書き足した。
十日間の試し。
エルムも、マルクも、リタも、まだ自信がある顔ではない。
当然だ。
誰も、西の森役場の仕事などしたことがない。
俺だって、この世界で町を作ったことはない。
それでも、始めなければ何も変わらない。
最初から完成した仕組みなど作れない。
試して、直して、また試すしかない。
俺は木板の名前を見つめた。
今は、小さな十日間の試し運用だ。
でも、俺の中ではそれだけではなかった。
西の森を、いつか領都にも負けない町にする。
その最初の土台を作る人たちが、ここにいる。
もちろん、その大きな夢を今すぐ全員に背負わせるつもりはない。
まずは、目の前の人が困った時に行ける場所を作る。
その積み重ねが、いつか町になる。
「皆、十日間よろしくお願いします」
俺がそう言うと、エルムが少し緊張した顔で頭を下げた。
マルクは照れくさそうに頷いた。
リタはまだ不安そうだったが、それでも小さく「はい」と答えた。
レナードは静かに木板を見つめている。
ノルは腕を組んだまま、外の作業場の方へ目を向けていた。
西の森役場は、まだ建物すらない。
だが、最初にそこへ立つ人たちは決まった。
西の森を町にする最初の仲間が、この日、ようやくそろった。
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