第24話 王都から査察官が来た
王都からの馬車がハル家の屋敷へ着いたのは、まだ朝の空気が冷たい時間だった。
黒に近い濃紺の車体。飾りは少ない。だが、前扉に刻まれた紋章を見た瞬間、門番だけでなく執事役の使用人まで背筋を伸ばした。
ヴァレスト公爵家。
父ガルドは執務室から出てきた時点で、すでに表情を引き締めていた。母エマも俺の少し後ろに立つ。
「まさか、公爵家当主自ら来られるとは……」
父が小さくそう漏らした直後、馬車の扉が開いた。
先に降りてきたのは、二人の随員。
その後にゆっくりと姿を見せた男は、派手さがないくせに、一目で格の違いがわかる人間だった。
深い色の外套。無駄のない立ち姿。
年は三十代前半ほど。整った顔立ちだが、柔らかさより先に、静かな圧がある。
ユリウス・ヴァレスト。
王国の司法と監察を束ねる監察卿。
八話の終わりに、バスクの調書を読んでいたあの人物だ。
「ハル子爵」
低い声で名を呼ばれ、父が一礼する。
「ユリウス公爵閣下。このような辺地までご足労いただき、恐れ入ります」
「青輝石の正式申請と、徴税回復の報告が同時に来た。来る理由としては十分だ」
挨拶は短い。
でも嫌味はなかった。
その視線が、次に俺へ向く。
「リオン・ハル」
「はい」
「話は聞いている」
それだけ言って、ユリウスは屋敷の玄関を見もしなかった。
「茶はあとでいい。まず現場を見せてもらおう」
◇
最初に向かったのは石切り場だった。
馬車の中で、ユリウスはほとんど喋らなかった。
代わりに、随員の一人が俺に言った。
「若君は無理をなさらず。危険な場所では馬車に残っていただいても」
思わず苦笑しそうになる。
中身だけで言えば、俺は前世で四十五歳の中小企業経営者だった。
今さら「危ないから馬車で待っていなさい」と言われる側なのは、少しばかり申し訳ない気がする。
だが外見は十二歳だ。
反論するほうが変なので、曖昧に頷いておいた。
石切り場へ着くと、ユリウスはまず全体を一望した。
崩落した本坑道。
縄の張られた立入禁止区域。
布で覆われた青輝石の木箱。
そして、叫び声も怒鳴り声もなく、それぞれの持ち場で動く若者たち。
エドがこちらに気づき、作業を止めて頭を下げた。
「領主様。……そちらは?」
「王都からの確認役」
俺がそう言うと、ユリウスは一歩前に出た。
「確認役であり、見る目でもある」
短い言葉だったが、石切り場の空気が少し締まる。
彼は崩れた坑道の前で足を止めた。
「ここが問題の坑道か」
「はい。青輝石の主要採掘場でした」
「今は封鎖している」
「危険だからです」
ユリウスは俺を見た。
「青輝石は高値で動く。止めれば収量は落ちる。それでも、まずここを閉じた理由は?」
試されているな、と思った。
「死人が出たら、収量どころじゃなくなるからです」
「道義の話か?」
「違います。効率の話です」
俺は崩れた木組みを指した。
「危険な坑道に人を押し込めば、事故が出る。事故が出れば人が減る。人が減れば現場はもっと荒れます。借金で縛って穴埋めすれば、さらに逃げられる。前のやり方は短く搾れても、長く回りません」
ユリウスの随員が、少し意外そうな顔をした。
ユリウス自身は表情を変えない。ただ、視線だけが鋭くなる。
「では今の優先は?」
「地上作業の整理、安全な区画の確認、青輝石の保全、それから現場の人間を減らさないことです」
「なるほど」
その一言だけだったが、否定は入らなかった。
その時、少し離れた場所で言い争う声が起きた。
「だから、その箱は今動かすなって――」
振り向くと、ベルク商会側の残党らしい男が、兵の隙を見て木箱へ手を伸ばしている。
視界の端に文字が浮かぶ。
《木箱持ち出し意図》
《荷札差替え》
《証拠隠滅未遂》
「ノル!」
「はい」
「右の木箱。荷札をすり替える気だ」
ノルが即座に動き、男の腕を掴んだ。
男は短く悲鳴を上げ、地面へ押さえつけられる。
ユリウスの随員が目を細めた。
「今のを、見ていたのか」
「荷札を変えられると面倒なので」
あまり説明する気もなく答えると、ユリウスは木箱の前にしゃがみ込んだ。
布を少しだけめくり、青輝石の光を確かめる。
それから荷札を拾い、静かに言った。
「……たしかに、まだ消したいものが残っているらしい」
◇
次に向かったのは北村だった。
水路沿いの青葉草は、まだ畑一面を埋めるほどではない。
だが、若い葉が整って並ぶだけで、あの辺りの景色は前よりずっと「生きている」ものに見えた。
北村の村長が深く頭を下げる。
「ハル家の皆様、それに王都のお方まで……」
ユリウスは村長の礼を軽く受けると、水路の脇へ歩いた。
青葉草を摘み、指で軽く潰す。
すっと青い香りが立つ。
「これが報告にあった試験作物か」
「青葉草です」
「他領ではあまり見ないな」
「育たないわけじゃないです。でも、ここほど香りが立ちません」
俺は水路を示した。
「山から引いた冷たい水と、この湿った土が合ってる。北村でしか出しにくい品質です」
「だから小麦ではなく、これを選んだ」
「はい。今の北村は、広く薄くより、小さく高くの方が強い」
ユリウスは葉を置き、今度は水路の補修跡を見た。
「つまり、お前は村ごとに勝ち筋を変えているのか」
「同じ領地でも、綻びは同じじゃないので」
言ってから、少しだけ言葉を飲み込んだ。
《綻び》なんて言い方は、普通なら変だ。
だがユリウスはそこに引っかからず、むしろ面白がるように目を細めた。
「続けろ」
「北村は水と若い人手が戻った。だから高く売れるものを作る。逆に南村は、作る力はあるのに減らしていた。だからそっちは保存と道です」
村長が横で力強く頷いた。
「北村は、若い者が戻ってようやく前へ進めるようになりました。坊ちゃんが言わなければ、あの草を金にするなんて考えもしませんでした」
ユリウスは何も言わず、しばらく村人たちの手元を見ていた。
視線が厳しい。
でも、最初の「どうせ地方領の見栄えだろう」という感じは少し薄れてきているのがわかった。
◇
最後に南村へ回る頃には、日が少し傾き始めていた。
南村の倉は、前に来た時とは空気そのものが違っていた。
匂いが軽い。
袋は壁から離れて積まれ、乾燥棚には麦束が並び、戸は開け放たれて風が通る。
南村の村長が、俺たちを見つけて駆け寄る。
「ハル家の坊ちゃん! それに王都の方まで!」
「様子はどう?」
俺が聞くと、村長はすぐに答えた。
「腐りが減りました。まだ全部ではないですが、前よりずっと残る」
ミアが帳面を開いて補足する。
「豆袋の損耗率は前回見込みより下がっています。商人も、前より良い値で持っていくようになりました」
ユリウスは倉の中を一巡りし、荷車道の溝も見た。
足元の土を靴先で軽く崩してから、俺へ向く。
「北村は作物、南村は損耗。判断基準は?」
「村がどこで損してるかです」
「数字で見たのか、勘か」
「両方です」
俺は少しだけ笑った。
「でも、最後は現場です。帳面だけでは外すから」
ユリウスの口元が、ごくわずかに動く。
「……面白い」
随員の一人が怪訝そうにこちらを見た。
どうやらこの人がそんな反応をするのは珍しいらしい。
その時だった。
倉の裏手で、何かが倒れる音がした。
村人の悲鳴。
俺は反射的に振り向く。
視界の端に文字が走る。
《荷車軸:切断痕》
《故意》
《積荷転倒誘発》
《実行者:右手の男》
南村の荷車のそばに、見知らぬ男が立っていた。
地味な服だが、村人の顔じゃない。逃げようとしている。
「ノル、右!」
言うより早く、ノルが飛んだ。
男は一歩逃げたが、あっさり組み伏せられる。
転げかけた荷車は村人たちが慌てて押さえ、積んでいた袋はなんとか無事だった。
「誰だお前!」
「何しやがる!」
南村の若い衆が色めき立つ。
ユリウスの随員も一気に動き、男の身体を改めた。
その懐から出てきたのは、小さな金貨袋と、灰色の鳥の印が押された紙片だった。
グレイヴ侯爵家の印だ。
南村の村長が青ざめる。
「まさか……」
ユリウスは、その紙片を見てゆっくり息を吐いた。
「数字だけではない、か」
俺は倒れかけた荷車を見ながら答える。
「止められると困る人たちがいるので」
ユリウスは少しだけ視線を伏せたあと、男へ向かって冷たく言った。
「連れていけ」
随員たちが男を立たせる。
そのやり方に、迷いはなかった。
ここでようやく、王都の大物がただ見に来たわけではないのだとわかる。
必要なら、その場で切る人間だ。
◇
屋敷へ戻る頃には、日が暮れかけていた。
父ガルドと母エマが執務室で待っている。
ユリウスは長椅子に腰を下ろすこともなく、窓のそばに立った。
「結論から言おう」
部屋の空気が張る。
「ハル領の申請と報告は、王都で前向きに扱われるべきだ」
父が静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は早い」
ユリウスの声は変わらず低い。
「グレイヴ侯爵家は黙らない。今日の妨害で、それがはっきりした」
父の表情が険しくなる。
「やはり……」
「小領地が勝手に数字を立て直し、青輝石を抱えた。しかも商流を止めた。面白くない者は多いだろう」
その視線が、次に俺へ向いた。
「リオン・ハル」
「はい」
「お前は、自分が何をしたかわかっているか」
少しだけ考えてから答える。
「ハル領に残るものを増やしました」
ユリウスは数秒黙った。
その沈黙が、随員たちを少し緊張させたのがわかる。
やがて彼は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「悪くない答えだ」
それから、部屋の全員がいる前で言った。
「事件を暴くだけの子どもではない。領地を立て直す頭を持っている」
父も母も、ミアも、ほんのわずかに息を止めた。
褒め言葉に聞こえる。
でも、それだけじゃない。
ユリウスは続ける。
「だからこそ、もう小領地の中だけで済む存在ではない」
その言葉は重かった。
俺は黙って聞く。
「王都は、この件を認める方向で動くだろう。だが同時に、お前を見る目も増える」
「……でしょうね」
「怖くはないか」
「怖いですよ」
正直に答えた。
「でも、止めたらまた奪われる」
ユリウスはそれを聞き、静かに頷いた。
「そうか」
それから、少しだけ間を置いてから、まるで何でもないことのように聞いた。
「王立学院には興味があるか?」
数秒、部屋が止まった。
母が小さく目を見開き、父がわずかに眉を動かす。
ミアに至っては、完全に固まっていた。
俺は内心で少しだけ困った。
王立学院。
年齢だけ見れば当然の進路だろう。
でも中身は四十五歳だ。学院に行くという響きに、どうにも妙な居心地の悪さがある。前世で経営会議ばかりしていた身としては、今さら学生側に回るのか、という申し訳なさすらある。
とはいえ、そんな顔は見せない。
「……興味がないと言えば、嘘になります」
そう答えると、ユリウスは俺をじっと見た。
試すようでいて、少しだけ満足そうでもある目だった。
「そうか」
その一言のあと、彼は外套の裾を整えた。
「なら、今は領地を回せ。学院の話は、その先だ」
それだけ言って、ユリウスは父へ向き直る。
「ハル子爵。報告は私からも上げる」
「感謝いたします」
「ただし、次に来るのは視察だけでは済まないかもしれん」
父がうなずく。
ユリウスは最後にもう一度、俺を見た。
「リオン・ハル」
「はい」
「国の発展に要る人間は、地方にも埋もれている。今日、それを確かめに来た」
その言葉は、静かだった。
でも、重く残った。
「期待には応えます」
気づけば、そう返していた。
ユリウスは何も言わず、ほんの少しだけ頷く。
それから踵を返し、随員を連れて執務室を出ていった。
しばらく、誰も喋らなかった。
最初に息を吐いたのはミアだった。
「……王立学院って」
呆然とした声だった。
父はまだ扉の方を見ている。
「まさか、ユリウス公爵自らその話を出されるとは……」
母は俺の方を見て、少し困ったように笑った。
「あなた、本当にとんでもないところまで来ちゃったのね」
俺は椅子の背に手を置いたまま、小さく息を吐く。
王都が認める。
でも、グレイヴ侯爵家は黙らない。
そして、王立学院。
やることは増える一方だ。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
窓の外では、ハル領の空がゆっくり夜に沈んでいく。




