第23話 変わり始めた小領地
朝の風が、ハル領の丘をゆっくりと渡っていく。
東の石切り場では、もう誰も怒鳴っていなかった。
危険な本坑道には縄が張られ、崩落した場所の周りには新しい支柱が運び込まれている。青輝石の木箱は布で丁寧に包まれ、荷札と一緒に兵の監視下に置かれていた。
前のように、借金で縛られた若者が青い顔で地下へ押し込まれる光景はない。
代わりにあるのは、決められた時間に始まり、決められた時間に止まる作業だった。
「その箱はそっちじゃない、乾いた台の上だ」
エドが声を飛ばす。
「布、巻けよ。素手で触るなって言っただろ」
前なら反発しかなかっただろうその声に、今は「わかってる」と返事が返る。
まだぎこちない。
でも、回り始めていた。
◇
北村では、水路の脇に新しい緑が広がっていた。
青葉草だ。
まだ一面ではない。
試験区画として作った一角に、若い葉が揃って立っているだけだ。
だが、その一角だけでも、村の景色は確かに変わって見えた。
朝の水やりをしていたテオが、腰を伸ばして笑う。
「前はこの時間、親父みたいな顔した爺さんばっかり畑にいたのにな」
「誰が親父みたいな顔だ」
すぐ隣で老人が返し、周りから小さな笑いが起きた。
そのやり取りを見ながら、北村の村長は水路の流れを見下ろす。
応急修繕だった西水路は、今では木と石を使って少しずつ補強されていた。まだ完璧じゃない。だが「いつ崩れるかわからない水路」ではなくなっている。
「坊ちゃんの言う通りでしたな……」
誰に言うでもなく、村長が呟く。
「若いのが戻って、水が回って、草に値がつく。あの時は、まさかと思いましたが」
その視線の先で、女たちが摘んだ青葉草を日陰で束ねていた。
乾かしたものは王都へ送る試作品になる。料理屋へ売り込めれば、小麦よりずっと高くなる。
北村は、少しずつ「食っていける村」に変わり始めていた。
◇
南村では、倉の匂いが変わっていた。
前に来た時の、鼻にこびりつくような腐敗臭はほとんどしない。
袋は壁から離して積まれ、床には木板が噛ませてある。乾燥棚には麦束が風を受けて並び、選別された豆袋には印が付けられていた。
「これが今日売る分、こっちが干してから回す分、こっちは保存用!」
村の女たちが手際よく声を掛け合う。
若い男たちは荷車道の轍に土を入れ、溝を切り、ぬかるみを避ける流れを作っていた。前よりも荷車が揺れず、積荷の痛みが減っているのは、村の誰の目にも明らかだった。
南村の村長は、倉の戸口に立って帳面を見つめる。
「先月は、豆が三袋、芋が四箱、倉の中で駄目になった」
ぽつりと言ってから、次の頁をめくる。
「今月は、まだゼロだ」
その一言に、近くにいた若い衆が思わず顔を見合わせた。
南村は大きく変わったわけじゃない。
だが、同じだけ働いて、前より減らない。前より安く叩かれない。
それだけで、人の顔色はずいぶん違ってくる。
◇
その日の夕方。
ハル家の屋敷の執務室では、机の上に三つの帳面が開かれていた。
石切り場。
北村。
南村。
ミアが、いつになく真剣な顔で数字を読み上げる。
「石切り場は、事故ゼロが継続です。地下坑道は封鎖中ですが、地上作業と仕分けだけでも前より損耗が減っています」
「うん」
俺は頷いた。
「北村は?」
「青葉草の試験区画、定着見込み良好。戻った若者三名が中心になって水路沿いの区画を管理しています。通常畑の収量はまだこれからですが、労働負担は確実に下がっています」
「南村」
「損耗見込み、大幅減少です。倉の腐敗率は前回報告より大きく低下、商人の買い取り価格も少し持ち直しています」
父ガルドが、その報告を黙って聞いていた。
病で痩せた顔はまだ本調子ではない。
それでも、以前より目に力が戻っている。
「……帳面を貸せ」
短く言い、ミアから南村の帳面を受け取る。
しばらく数字を追い、それから今度は石切り場、北村へと目を移す。
やがて父は、小さく息を吐いた。
「本当に、数字が動き始めているな」
俺は机の端に肘を置いた。
「まだ小さいけどね」
「小さいからこそ価値がある」
父は帳面を閉じた。
「無理に税を上げたわけではない。村を追い込んだわけでもない。作ったものが減らず、流れたものが戻り、若い人手が動き始めた。これが一番強い」
母エマが、その横で静かに微笑む。
「ようやく、息をし始めた感じね」
「うん」
俺もそう思った。
まだ豊かな領地とは言えない。
でも、死にかけた小領地ではなくなってきている。
父は新しい羊皮紙を引き寄せた。
「王都へ追加報告を出す」
「青輝石の正式申請だけじゃなくて?」
「それだけでは足りん」
父はペンを取り、ゆっくりと言った。
「石切り場の現場改善。北村の試験作物。南村の損耗減。徴税見込みの回復。この短期間で起きた変化は、数字として出す価値がある」
ミアが目を丸くする。
「王都は、そこまで見るんですか?」
「見る」
父の声は低かった。
「特に、沈んでいた領地が急に浮き上がる時はな」
◇
王都。
夕方前の執務棟では、各領地から届いた報告書が山のように机へ積まれていた。
税収見込み。
収穫報告。
損耗率。
労働人口の推移。
新規申請。
違法採掘の疑い。
徴税官と監察官が、それらを日々選別し、王都の帳面へ落としていく。
「次です」
若い記録官が、一枚の報告書を上席へ回した。
中年の監察補佐は何気なく受け取り、ざっと目を走らせる。
だが、二行目で手が止まった。
「……ハル領?」
その名は、これまであまり良い意味で上がることのない小領地だった。
国内でも下位常連。
しかも直近では落ち込みが続き、徴税見込みも最低ランク帯に沈んでいたはずだ。
だが、今回の報告では違った。
「どうされました」
若い記録官が問う。
「前期比……かなり伸びている」
補佐官は頁をめくる。
「しかも増税ではない。石切り場の正常化、違法採掘の差し止め、損耗減、村ごとの生産改善……」
「そんな短期間でですか?」
「だから妙なんだ」
帳面の端に並ぶ各領地の徴税順位表へ目を移す。
ハル領はこれまで下位の底を這っていた。
それが、今回の見込みでは一気に中位圏に食い込んでいる。
絶対額ではまだ大領には及ばない。
だが伸び率と改善幅が異様だった。
「……面白い数字ですな」
そう言った声に、記録官が顔を上げる。
部屋の奥、窓辺に立っていた人物が、いつの間にか机のそばまで来ていた。
深い色の外套。
静かな目。
数か月前、バスクの調書を読んで「十二歳の子どもにしては珍しい」と言ったあの人物だった。
補佐官が軽く頭を下げる。
「例のハル領です。以前の事件報告に出ていた、リオン・ハルの領地」
「……そうか」
外套の人物は、差し出された報告書を受け取った。
視線が、紙の上を静かに滑っていく。
東の石切り場における青輝石の正式申請。
北村での試験作物導入。
南村での損耗率改善。
若年労働力の流出停止。
徴税見込み順位の上昇。
読み終えたあと、その人物は少しだけ目を細めた。
「事件を暴いただけではないな」
低い声だった。
「領地の数字まで動かしているのか」
若い記録官が、恐る恐る言う。
「ただの偶然、ではないと?」
「偶然で、最低ランク帯の小領地が、短期間でここまで綺麗に立ち上がるものか」
報告書の一番上に記された名前へ視線が落ちる。
リオン・ハル 十二歳
しばらく無言で見つめたあと、その人物はほんの少しだけ口元を緩めた。
「……ますます面白い」
窓の外では、王都の夕鐘が鳴り始めていた。
その音の中で、ハル領の報告書だけが、机の上に残されたまま薄く光を受けている。
変わり始めた小領地。
その変化は、もう王都にも届いていた。




