第124話 それぞれの行軍
行軍訓練を終えた翌朝、教室の空気はいつもと少し違っていた。
疲れが残っている者は多い。
特に足だ。席に座る時の動きが皆わずかに重い。
それでも、沈んだ空気ではない。
「うちの班、夜の見張りで全然寝られなかった」
「いや、むしろ後半の下りの方がきつかっただろ」
「お前の班、どこで遅れたんだよ」
そんな声が、あちこちで飛び交っている。
行軍訓練そのものはもう終わった。
だが、まだ皆の中では続いている感じがあった。
俺が席へ着くと、すでにいつもの顔ぶれが揃っていた。
セレナは朝からきっちりした顔で座っているし、ナディアは静かに周囲の会話を聞いている。ヴィクトルは露骨にだるそうに椅子へもたれ、ガイルはいつも通り無駄口なく前を向いていた。エドガーも変わらない顔で席についている。
「疲れ、残ってる?」
セレナが開口一番に聞いた。
「少しだけ」
俺が答えると、ヴィクトルがすぐに割って入る。
「少しで済むのかよ。俺は普通に重いぞ」
「君は口も動かしすぎたんじゃない?」
セレナが冷ややかに返した。
「それは否定しない」
そんなやり取りをしているうちに、担任ローヴェンが教室へ入ってきた。
ざわついていた空気が少しだけ静まる。
ローヴェンは教卓の前に立ち、俺たちを見回した。
「昨日までの行軍訓練、ご苦労だった」
その一言だけで、教室のあちこちに妙な達成感が広がる。
「結果を伝える。今回の参加は二十五班。うち完走は二十一班だ」
小さくどよめきが起きた。
二十五班中二十一班。
やはり、見た目ほど甘い訓練ではなかったということだ。
「未完走の班も、途中で判断を誤ったから終わりというわけではない。撤退判断も訓練の一部だ。そこは忘れるな」
担任は淡々と続ける。
「上位班の結果も伝える。到着順だけでなく、班運営、安全管理、確認地点での判断も見ている。順位だけで全ては決めていない」
そう前置きしたうえで、名前が読み上げられた。
「一位、エドガー班」
教室の空気が少し動いた。
まあ、そうか、という反応が多い。
エドガー本人はまったく表情を変えない。
「二位、ガイル班」
これにも納得の空気がある。
「四位、セレナ班」
セレナが小さく息を吐いた。
悔しいのか、納得しているのか、その両方か。
「六位、リオン班」
そこで俺は小さく瞬いた。
六位。
もっと下でもおかしくないと思っていた。
ただ、順位そのものより、四人で着いたことの方が先に頭へ浮かぶ。
「九位、ナディア班」
ナディアが少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの柔らかい顔へ戻る。
「十一位、ヴィクトル班」
教室の後ろから、少し笑いが漏れた。
「笑うなよ」
ヴィクトルがすぐにぼやく。
「完走してんだからいいだろ」
担任はそこで紙を置いた。
「Sクラスの上位者を分散させたが、結果としてはどの班も大きく崩れなかった。そこは評価する」
そして一拍置く。
「繰り返すが、この訓練は一人で速く着くためのものではない。班を着かせるための訓練だ。そこを履き違えるな」
それだけ言って、担任はいつもの授業準備へ入った。
だが、結果を聞いた教室の空気は、しばらく静まりそうになかった。
◇
最初の授業前の短い時間だけで、俺たちは自然と机を寄せ合う形になっていた。
「一位、おめでとうございます」
ナディアが静かに言うと、エドガーは短く答える。
「たまたまだ」
「たまたまで一位を取るやつがあるか」
ヴィクトルが即座に返す。
「お前、そういうところだぞ」
エドガーは軽く肩をすくめた。
「班が崩れなかっただけだ」
いかにもエドガーらしい答えだった。
「二位はすごいわね、ガイル」
セレナが言う。
「運もある」
ガイルは短く答える。
「ただ、無理をさせなかったのは大きかった。足の速いやつに合わせて押すと、途中で誰かが必ず潰れる」
「……それ、すごくわかる」
ナディアが小さく頷いた。
「私の班も、最初に急がせすぎた時は空気が固くなりました」
そこでヴィクトルが苦笑する。
「うちは逆だな。最初から意見が多すぎて進まなかった。足より口が疲れた」
「想像できるわ」
セレナが即答した。
「おい」
「でも十一位なら十分じゃない?」
俺が言うと、ヴィクトルは鼻を鳴らした。
「そりゃ完走はしたよ。でも、まとめるって面倒なんだな。自分ができるのと、班全体を動かすのって全然別だわ」
「ローヴェン先生も言っていたでしょう」
セレナが言う。
「一人でできることと、班を着かせることは別だって」
「それを実感したって話だよ」
ナディアは少し考えるようにしてから言った。
「私は九位でしたけれど、順位より、言葉一つで班の空気が変わるのだとよくわかりました。急がせるより、安心させた方が進む場面もあるのですね」
「ナディアさんらしいです」
俺が言うと、ナディアは少しだけ微笑んだ。
「リオンさんは六位でしたね」
「そうだな」
「その顔だと、順位にあまり興味がなさそうね」
セレナがじっと見てくる。
さすがによく見ている。
「順位も大事だけど」
俺は少しだけ考えてから答えた。
「四人で着けたのが一番大きかった」
それを聞いて、ヴィクトルがふっと笑う。
「なんか、それっぽい答えだな」
「実際そうだったし」
「六位でその顔なら」
エドガーが静かに言った。
「班の中身は、簡単じゃなかったんだろう」
一瞬だけ、カイルの顔が頭をよぎる。
森の中で見た背中。
不器用な謝罪。
短い感謝。
でも、そのことは言葉にしなかった。
「まあ、いろいろあったよ」
それだけ返すと、エドガーもそれ以上は聞かなかった。
セレナが腕を組む。
「私は四位、というのが少し悔しいわ」
「もっと上へ行けた感じ?」
ヴィクトルが聞く。
「ええ。判断そのものは悪くなかったと思うの。だけど、班員の一人が途中で意固地になって、それをほぐすのに少し時間を使った」
「それで四位なら十分じゃないですか?」
ナディアが言う。
「そうかもしれないけれど、負けた感じがするのは事実よ」
そこがセレナらしい。
ガイルは短く言った。
「上位の班ほど、たぶん大差はない」
「だろうな」
ヴィクトルが頷く。
「うちも、もう少し噛み合ってれば上がれた気はする」
「それを皆思っている時点で、だいたい妥当なんだろう」
ガイルが返す。
少しだけ笑いが起きる。
こうして話していると、同じ森を歩いたはずなのに、皆が持ち帰ってきたものは少しずつ違うのだとわかる。
エドガーは班全体の崩れなさを見ていた。
ガイルは無理をさせないことの重要さを見ていた。
セレナは感情の扱いの難しさを見ていた。
ナディアは言葉の置き方を見ていた。
ヴィクトルは調整の面倒さを見ていた。
そして俺は――。
綻びの目で見えたものと、その扱い方を考えていた。
同じ訓練でも、持ち帰るものは違う。
だからこそ意味があるのかもしれない。
◇
午前の授業が終わり、昼休みを挟み、放課後が近づいた頃には、行軍訓練の熱も少しずつ落ち着いてきていた。
それでも、教室のどこかに前とは違う空気が残っている。
皆、自分の班の中で何かしら見たのだろう。
昨日までと同じ顔をしていても、少しだけ視野が広がっている感じがあった。
窓の外へ目を向けると、秋の光が校舎の壁をやわらかく照らしている。
行軍は終わった。
だが、そこで得たものは、たぶんこれからの学院生活にも残っていく。
◇・・・夕方、王都の一角にあるグレイヴ侯爵邸・・・
グレイヴ侯爵邸の応接室には、重い空気が残っていた。
ガレス・グレイヴは、苛立ちを隠そうともせず椅子に座っている。
正面には父、グレイヴ侯爵。
「……で」
侯爵が静かに言った。
「結局、何も起こせなかったのか」
ガレスの顔が歪む。
「フェルドのやつが使えなかったんだよ」
「使えなかった、で済ませるな」
声は大きくない。
だが、それだけに冷たかった。
「少し空気を悪くして、少し遅らせる。その程度のことも満足にできんのか」
「最初はやってたらしい!」
ガレスが苛立ったまま言い返す。
「でも最後は、あいつ、リオン側についたみたいで……」
そこで言葉が詰まる。
侯爵は目を細めた。
「側についた?」
「謝ったらしい」
ガレスは唇を噛む。
「それだけじゃない。感謝までしたとか……あいつ、頭がおかしい」
数秒、沈黙が落ちた。
やがて侯爵は、深く息を吐いた。
「……フェルドの息子は見込み違いだったか」
その声音には、怒りというより、冷たい失望が混じっていた。
ガレスは椅子の肘掛けを握る。
「父上、あのリオンってやつ、本当に腹が立つんだ。どこへ行っても、あいつだけうまくやりやがる」
「うまくやっているのではない」
侯爵は低く言った。
「他人にそう見せるのがうまいだけだ」
その言い方には、自分に言い聞かせるような響きもあった。
「学院の中でまで目立ち始めたのは面白くない。しかも、王の視察に同行して戻ってきて、今度は行軍訓練でも結果を出した」
侯爵の指先が、机を軽く叩く。
「子爵家の嫡男にしては、目立ちすぎている」
ガレスの目に、少しだけ暗い色が差した。
「じゃあ、次は?」
侯爵はすぐには答えなかった。
だが、ゆっくりと口元を歪める。
「焦るな。学院の中には学院の流れがある」
その目は冷たかった。
「一度失敗したからといって、終わりではない」
ガレスはその言葉に、ようやく少しだけ機嫌を戻したようだった。
窓の外では、王都の夕暮れが静かに広がっている。
学院では訓練が終わり、それぞれが持ち帰ったものを胸に次へ進もうとしている。
だが、その一方で、グレイヴ親子の不快と執着もまた、静かに残り続けていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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