第113話 視察へ出発
日々の自主練と授業、予習と復習を重ねているうちに、時間は思っていたよりずっと早く過ぎた。
ローヴェル伯爵領の資料は何度も読み返した。
地図も、税収表も、宿場の記録も、頭に入るだけ入れた。
それでも結局、最後は現地を見なければわからない。
そう思っていたら、もう視察当日だった。
◇
その朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。
まだ外は暗い。
男子寮の廊下も静まり返っていて、足音を立てるのが妙に気になる。
顔を洗い、旅装を整える。
学院の制服そのままではないが、学院側の随行者として見苦しくないように整えた服だ。動きやすさを残しつつ、だらしなく見えない程度にはきちんとしている。
木剣を持って外へ出るか、少しだけ迷った。
結局、中庭で軽く身体をほぐすだけにした。
素振りも数えるほど。
今日は鍛える日じゃない。身体を起こして、呼吸を整えるだけでいい。
冷たい朝の空気を吸い込みながら、肩と足を動かす。
落ち着いているつもりだった。
でも心の奥には、やっぱり少し緊張がある。
王の視察。
学院長の供。
ローヴェル伯爵領。
ただの見学ではないと、もう何度も言われていた。
寮へ戻り、荷をまとめて食堂へ向かう。
朝食の席には、すでにヴィクトルとガイルがいた。
「来たか」
ガイルが短く言う。
「早いな」
「お前らも」
席につくと、ヴィクトルがパンをちぎりながら顔を上げた。
「で、今日は学院長と一緒に先に出るんだよな」
「うん。王の本隊とは別動になるらしい」
「そっちの方がいいだろうな」
ヴィクトルはあっさり言った。
「王と一緒にぞろぞろ入ったら、町の人間も貴族も、見せたい顔しかしないだろ」
「同感だ」
ガイルも頷く。
「先に入れるなら、その方が見えるものは多い」
俺もそう思う。
今回、学院長と俺は王たちの本隊とは別に動く。
本隊は王都を出たあと、途中で宿泊も伴い、迎え、報告、儀礼、それらを省くことはできない。王が公に動く以上、ただ真っすぐ視察先へ向かけばいいというわけではない。
一方で学院長は、先に現地へ入っておきたい。
説明役として、王が到着する前に空気を見ておきたいし、俺にも取り繕われる前のローヴェルを見せておきたい。
だから別動だ。
「変なもの見つけてくるなよ」
ヴィクトルが言う。
「見つけたくて見つけてるわけじゃない」
「でも見つける」
「……否定しない」
ガイルが少しだけ口元を緩めた。
「帰ったら聞かせろ」
「わかった」
短いやり取りだったが、それで十分だった。
食事を終え、俺は荷を持って寮を出る。
振り返ると、二人はもう食堂の入口には立っていなかった。
見送りに来るような性格じゃない。
でも、あれでいい気がした。
◇
学院門の前には、すでに馬車が待っていた。
王家の馬車ほど豪奢ではない。
けれど学院長が乗るにふさわしい、落ち着いた造りのしっかりした馬車だった。護衛も最小限ながら隙がない。
学院長は門の前で立ったまま、こちらを見た。
「来たか」
「お待たせしました」
「いや、ちょうどよい」
学院長は頷き、馬車へ目を向ける。
「前にも話した通り、我々は王の本隊とは別に動く」
「はい」
「本隊は王の移動だ。途中で宿泊も伴うし、迎え、報告、儀礼、それらを省くことはできん。だが、私はできるだけ先に視察先へ入っておきたい」
学院長はそこで一拍置いた。
「ローヴェル領は街道沿いに細長く伸びた領だ。王都から視察先の領都までは、一泊必要になる」
その説明で、頭の中の地図が少しはっきりした。
ローヴェル伯爵領は王都の東にある近隣領だが、すぐ隣というわけじゃない。
街道に沿って細長く領地が続いているから、人も荷も領内をよく通る。
にもかかわらず、領としての伸びが鈍い。
だからこそ、余計に妙なのだ。
「我々も途中で一泊するが、本隊よりは簡素に進む。その分、余計な目を引かずに済む」
「先に現地の空気を見ておくため、ですか」
「それもある」
学院長は淡々と答える。
「王が着いてからでは、どうしても人は取り繕う。貴族も役人も、見せたいものを前に出す。そうなる前の顔を見ておくに越したことはない」
やっぱり、そういうことか。
俺は小さく息を吐いて、荷を抱え直した。
「乗れ」
「はい」
馬車へ乗り込み、ほどなくして車輪が静かに動き出す。
王立学院の門が、朝の薄明かりの中でゆっくりと後ろへ遠ざかっていった。
◇
王都を出るまでの道は静かだった。
まだ朝が浅く、店の多くは開ききっていない。
人通りも少ない。
ただ、東門へ近づくにつれて、荷馬車や行商人の数は少しずつ増えていく。
東へ向かう流れは、たしかにある。
門を抜けると、王都の石壁が背後に小さくなっていった。
そこから先は、整備された街道がまっすぐ延びている。
学院長は馬車の中で多くを話さなかった。
ときどき資料を見返し、窓の外を確かめる程度だ。
俺も無理に話しかけず、外を見る。
東へ向かう荷の数は、思っていたより多い。
穀物、布、木材、陶器。
馬車の車輪の跡も深く、街道が日常的に使われていることがわかる。
しばらくそうしていた頃、学院長がふいに口を開いた。
「学院での学びはどうだ」
意外な問いだった。
思わず視線を戻す。
「学び、ですか」
「そうだ。授業、課外、周囲との関係。お前にとって、王立学院はどう見えている」
少しだけ考える。
問われれば、すぐに答えられる気がしていた。
たぶん、ずっとそう思っていたからだ。
「恵まれていると思います」
俺はまっすぐ答えた。
「学ぶ内容もそうですし、友人関係も良好です。自分より頭の回る者、違う見方をする者、領地では出会えなかった人間が周りにいます」
学院長は黙って聞いている。
「授業の内容も、今の自分にはちゃんと意味があります。前よりずっと、現実とつながって見えるようになりました」
そこで少しだけ息をつく。
「恵まれた環境にいられていると思いますし、それは本当に感謝しています」
学院長はしばらく何も言わなかった。
それから、窓の外へ一度だけ視線を向け、静かに言った。
「それはよかった」
短い言葉だったが、どこか柔らかかった。
「勉強そのものだけでなく、勉強以外のところでも学ぶことが多そうだな」
思わず少し笑う。
「否定できません」
「だろうな」
学院長の口元も、ほんのわずかに緩んだ気がした。
「知識は机の上で得られる。だが、人の見方や物事の重さは、それだけでは身につかん。お前はその両方を今、同時に学んでいる」
そう言われると、少しだけ背筋が伸びる。
「はい」
「なら、その環境を無駄にするな」
「はい」
それで会話は終わった。
だが、不思議とさっきまでの緊張が少しだけ薄くなっていた。
◇
途中の宿場で、俺たちはその日は早めに馬を休めることになった。
王の本隊ならもっと厳密な警備と儀礼がつくんだろうが、こちらは学院長の一行だ。
目立たない分、宿場の空気もそのままに近い。
夕方の宿場には、ちゃんと熱があった。
遅れて入ってきた旅人が食事を頼み、荷を下ろす者がいて、宿の主人が泊まり数を数えている。
馬の世話をする音、水を汲む音、値段を交渉する声。
大騒ぎするほどではないが、人が来て、休んで、金を落として、また出ていく流れが自然に回っている。
その光景を見ながら、俺は小さく呟いた。
「やっぱり、ここには熱が残ってる」
学院長が視線だけこちらへ向けた。
「何が違う」
「急ぐ人もいますけど、休む人がいる。食べる人がいる。馬を止める人がいる。荷を整える人がいる」
宿場の様子を見ながら答える。
「ただ通るだけじゃなくて、一度ここで流れが留まってる」
「なるほど」
学院長はそれ以上は何も言わなかった。
だが、否定もされなかった。
その夜は簡素な宿に泊まり、翌朝また早く出た。
資料の内容と、昨日見た宿場の熱が頭の中で重なる。
ローヴェルに近づけば、あれがどう変わるのか。
それを考えながら、馬車の揺れに身を任せた。
◇
二日目の昼前、ローヴェル伯爵領の領域へ入った。
街道沿いに細長く続く領だけあって、道そのものはよく使われている。
馬車も旅人も、決して少なくはない。
なのに、妙な違和感があった。
来ている。
通っている。
でも、昨日の宿場で感じたような“留まりの熱”が薄い。
荷馬車は急いでいる。
旅人も、休むというより先を見て歩いている。
道沿いに店は見えても、そこで人がほどける感じがない。
「……来てるのに、残ってない」
小さく呟くと、学院長が聞いた。
「何か見えたか」
「まだ、はっきりとは」
「それでいい」
学院長は静かに言う。
「机の上で答えを決めてくるな。現地は、資料よりもずっと雑だ」
「はい」
「だが、その雑さの中にしか出ない綻びもある」
その言葉は、妙に腑に落ちた。
◇
ローヴェル伯爵領の領都が見えたのは、昼を少し回った頃だった。
遠目に見れば、たしかに整っている。
城壁もある。
門前には人もいて、街道の要所らしい形はしている。
だが、近づくにつれて違和感は濃くなった。
門へ向かう荷馬車の列が、思ったより短い。
そのわりに、門の外で止まっている人が多い。
旅人が立ち話をしている。
荷を少しだけ下ろしている馬車もある。
町へ入るでもなく、完全に去るでもなく、門の手前で流れが淀んでいた。
その光景を見た瞬間、視界の端に淡い文字が浮かぶ。
《綻び:流入前滞留》
思わず息を止める。
やっぱりだ。
資料の上では、ただの数字だった。
だが現地では、それは人の足と荷の流れとして、もっと露骨に形になっている。
門の前で人が止まる。
町へ入る前に、何かが引っかかっている。
「……なるほど」
気づけば、そう呟いていた。
学院長が隣で聞く。
「何かわかったか」
俺はまだ門の前を見たまま答えた。
「いえ。まだ仮説です」
でも、紙の上よりはずっとはっきりしていた。
ローヴェル伯爵領の問題は、町の奥から始まっているんじゃない。
もっと手前――人が町へ入る、その前からすでに始まっている。
馬車は速度を落とし、門前へ近づいていく。
王の本隊が来る前のローヴェル領。
まだ取り繕いきれていない、その顔。
資料の上では違和感だったものが、現地ではもう、目に見える綻びになっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




