第112話 視察の予習
視察の日程が近づいてきた、ある日の放課後。
授業を終えた俺は、寄り道をせずそのまま図書室へ向かった。
王立学院の図書室は、昼間の教室とは空気が違う。
高い天井まで届く本棚。
細長い窓から差し込む夕方の光。
紙と革と、少し乾いた木の匂い。
話し声もほとんどなく、ページをめくる音だけが静かに響いている。
奥の空いた机に資料を広げる。
学院長から渡されたローヴェル伯爵領の資料と、図書室から借り出した王国東部の地図、街道史、宿場運営の記録集、近年の領地税制に関するまとめ本。
こうして並べてみると、完全に勉強というより調査だ。
「さて……」
小さく呟いて、まずは地図から見直す。
王都から東へ。
街道は途中でいくつかの分岐を持ち、その一つがローヴェル伯爵領へ流れ込む。
さらにその東隣には、ベイルン家――ガイルの実家の領。
位置だけ見れば悪くない。
むしろかなり良い。
視察対象になるくらいだ。
王都に近く、王国東部の流れにも乗れる。
伯爵領としての規模も中堅。
これなら、もっと伸びていてもおかしくない。
ページをめくる。
《綻び:街道流通量と宿場規模の不一致》
やはり、そこが最初に浮かぶ。
さらに税収表へ視線を落とす。
《綻び:人口推移に対する徴税効率の低下》
もう一枚。
町の配置図。
《綻び:生活導線と商業導線の乖離》
最後に、宿と市場の簡易記録。
《綻び:滞在者数に対する滞留率の低さ》
「……来てるのに、残らない」
思わず言葉が漏れた。
人は来る。
荷も通る。
でも町に熱が残っていない。
「やっぱり、一人で難しい顔してたわね」
顔を上げると、いつの間にかセレナが立っていた。
「来ると思ってた?」
「少しだけ」
「正解」
セレナは軽く肩をすくめて、俺の向かいに腰を下ろした。
手には数冊の本がある。しかも全部、領政とか都市運営とか、その手の題名だ。
「ずいぶん本気だな」
「あなたが図書室に来る時点で、遊びじゃないもの」
当然でしょう、とでも言いたげな顔だった。
「で、どこまでわかったの?」
「わかったというより、綻びが増えただけかな」
俺が資料を指で叩くと、セレナは身を乗り出してきた。
「見せて」
資料と地図を一通り見たあと、彼女は細く息を吐く。
「たしかに妙ね」
「どのへんが?」
「立地のわりに、全部が“足りない”感じがするのよ」
やっぱり、そう見えるか。
「伸びていないこと自体より、伸びていないのに大きな失政の話が出てこない方が不自然だわ。普通、これだけ鈍ければ誰かの失策として噂になるもの」
「でも、そうじゃない」
「ええ」
セレナは配置図の上に指を置いた。
「つまり、誰か一人が露骨に失敗したわけじゃない。逆に言えば、誰も“ここが悪い”と断言できない形で停滞している」
政治の匂いがする言い方だった。
「いたな、やっぱり」
今度はヴィクトルの声だった。
振り返ると、片手に薄い帳面を抱えたままこっちへ歩いてくる。
その後ろにはガイルもいた。
「お前らも来たのか」
「お前一人で資料読んでるだろうなって顔してたからな」
「どんな顔だよ」
「面倒なことに首まで浸かってる顔」
失礼だな、と思ったが、たぶん当たっている。
ヴィクトルは俺の隣へ座ると、机の上の資料を見た。
ガイルは椅子を引く前に地図へ目を落とす。
「ローヴェルか」
その短い声に、俺とセレナが同時に顔を上げた。
「何か知ってる?」
聞くと、ガイルは少しだけ考えてから答えた。
「通ったことはある。何度もではないが」
「どういう印象?」
「……薄い」
「薄い?」
ヴィクトルが眉をひそめる。
ガイルは頷いた。
「悪い町ではない。荒れてもいない。だが、妙に印象が残らない」
それは、たしかに変な表現だった。
「町に活気がないってこと?」
「そうとも少し違う」
ガイルは言葉を選んでいるらしかった。
「人はいる。荷馬車も通る。宿も店も見える。だが、なぜか“ここで止まりたい”とは思わなかった」
その言い方に、俺の中で何かが引っかかる。
来る。
見える。
でも止まりたくならない。
「俺の方からも一つ」
ヴィクトルが持ってきた帳面を開いた。
「これは実家経由で見た、王都東方の商流まとめの写しだ。ざっくりした数字だけだが、ローヴェルの名前は何度も出てる」
「何かわかるの?」
「はっきり言えば、荷は通ってる」
ヴィクトルは指で行を追う。
「でも、商会の中じゃ“腰を据えるには弱い場所”って見方が多い。支店を大きく置くほどじゃない。倉庫を持つにしても中途半端。宿場としても一泊二泊で稼げる熱が薄い」
「人と荷はあるのに?」
「だから変なんだよ」
ヴィクトルは肩をすくめる。
「普通、街道の流れがあるなら商売の熱もついてくる。でもローヴェルは、通過点にはなっても、目的地にはなっていない」
ガイルの「止まりたくならない」と、妙に重なった。
「つまり」
俺は地図と帳面を見比べながら言う。
「流れはある。でも残らない」
「そういうこと」
そこで、少し離れた本棚の影からナディアが歩いてきた。
最初からこの辺りにいたのか、それとも今来たのかはわからないが、表情を見る限り、ある程度は話を聞いていたらしい。
「皆さま、やはりこちらにいらしたのですね」
相変わらず柔らかく丁寧な口調だ。
「ナディアも?」
「はい。リオンさんが図書室へ向かわれたと聞きましたので」
「……なんかもう、みんな普通に集まるな」
俺が言うと、セレナが即答した。
「あなたが一人で考え始めるとろくなことにならないからよ」
「その言い方はひどくない?」
「半分は本当だろ」
ヴィクトルが横から言う。
否定しきれないのが少し悔しい。
ナディアは、今までの話を一度静かに聞き終えてから、そっと口を開いた。
「皆さまのお話をまとめると、ローヴェル領は“悪い領”というより、“何かが噛み合っていない領”に思えます」
その一言で、机の上の空気が少しだけ整理された気がした。
「悪政や戦乱で疲弊した領なら、もっとわかりやすいはずです。ですが、そうではない。人も物も来ているのに、そこから先へうまく繋がっていないように聞こえます」
「そうね」
セレナが頷く。
「どこか一つが壊れてるなら、もっと話は早いのよ。でもローヴェル領は、全部が薄く鈍い感じがする」
その時だった。
「図書室で集会か?」
低い声がして、振り向く。
エドガーだった。
いつものようにきっちりした姿勢で立っているが、目だけは少し面白がっているように見える。
「王子まで来たか」
ヴィクトルが言うと、エドガーは軽く眉を動かした。
「その呼び方はやめろと言ったはずだが」
そう言って、エドガーも机の端に立った。
座らないあたりが、いかにもこいつらしい。
「ローヴェルの予習か」
「知ってる範囲で、何か聞いてない?」
俺が聞くと、エドガーは少しだけ考えた。
「全部は知らない。だが、王宮で出ている話ならある」
空気が静かになる。
「ローヴェル伯爵家の報告自体に、大きな不備はないそうだ。収穫は極端に悪くない。治安も破綻していない。反乱の芽もない。帳簿上は、“物足りないが問題とは言いきれない領”に見える」
「なのに父上――いや、王が行く」
「そうだ」
エドガーは短く答えた。
「王宮で出ていたのは、“数字のわりに現地の手応えが鈍い”という言い方だった」
それは、なんとも嫌な表現だ。
「数字のわりに?」
「うん」
エドガーは頷く。
「本来ならもっと活気があっていい。もっと税が伸びてもいい。もっと商いが熱を帯びてもいい。なのに、そうなっていない。誰かが露骨に失敗しているわけでもない。だから、余計に気味が悪い」
さっきセレナが言ったことと、かなり近い。
「父上は、こういう“説明のつかない鈍さ”を嫌う」
エドガーはそう言った。
「誰かの報告を聞いて終わるより、自分で見た方が早いと判断したんだろう」
なるほど。
王がわざわざ行く理由としては、たしかに筋が通る。
机の上の資料へ、もう一度視線を落とす。
街道流通量と宿場規模の不一致。
人口推移に対する徴税効率の低下。
生活導線と商業導線の乖離。
滞在者数に対する滞留率の低さ。
一つ一つだけ見れば、まだ断定はできない。
でも、みんなの話を重ねると、なんとなく輪郭だけは見えてくる。
ローヴェル領は、人も物も来ている。
なのに、町がそれをうまく受け止められていない。
あるいは、受け止める前にどこかで流してしまっている。
「現場を見なければ、やっぱり断定はできないな……」
俺がそう言うと、ガイルが頷いた。
「見るべきは町そのものだけじゃない。町へ入る前と、出た後も見た方がいい」
「俺もそう思う」
ヴィクトルが続く。
「町の中だけ見てると、ただ“活気が薄い”で終わるかもしれない。でも商売って、来る前と去る時に本音が出るからな」
「政治の話も同じよ」
セレナが腕を組む。
「見せたい場所だけ見ても意味がないでしょうね。誰がどこに立って、何を言い、何を隠すか。そちらも見ないと」
「皆さまのお話を聞いていると」
ナディアが静かに言う。
「なおさら、一人で見るには惜しい気がしてきますね」
その言葉に、少しだけ間が空いた。
たぶん、全員が同じことを思ったからだ。
最初に口にしたのは、やっぱりヴィクトルだった。
「……というか、それ、俺たち全員で見に行った方が早くないか?」
セレナが小さく笑う。
「商い、地理、政治、王宮側の空気。たしかに、この場の顔ぶれで見た方が得るものは多そうね」
「そうですね」
ナディアも穏やかに頷いた。
「少なくとも、そう思ってしまうくらいには気になる領です」
エドガーはすぐには何も言わなかった。
でも否定もしなかった。
俺は資料の上に指を置いたまま、静かに息を吐く。
たしかにそうだ。
このメンバーで現地を見られたら、たぶんもっと早く輪郭が掴める。
誰か一人の視点じゃなく、それぞれの見方を重ねた方がいい。
だが実際に行くのは、今のところ俺だけだ。
「とにかく、今はできるだけ頭に入れておくしかないか」
そう言うと、ヴィクトルが頷いた。
「まあな。どうせお前なら、現地でまた厄介なもの見つけるんだろ」
「見つけたくて見つけてるわけじゃないんだけど」
「でも見つける」
「否定はしない」
それに、たしかに今は予習の段階だ。
断定はできない。
決めつけてもいけない。
でも、資料とみんなの話を重ねたことで、見に行くべきものは少し増えた。
人の流れ。
町の入口。
宿場。
市場。
税の拾い方。
町の中と外の空気。
そして、王がわざわざそこへ他の貴族を連れて行く理由。
その答えは、たぶんまだ机の上にはない。
夕方の光はいつの間にか薄くなり、図書室の窓は深い橙色に染まり始めていた。
机の上の紙にも、長い影が落ちている。
俺は資料を閉じず、もう一度最初のページへ戻した。
予習だけで全部がわかるほど甘くはない。
でも、まったく見当違いのまま行くのとも違う。
ローヴェル伯爵領は、どうやら一筋縄ではいかなさそうだ。
そんなことを考えながら顔を上げると、机を囲むみんなの表情もどこか似ていた。
次に本当に必要なのは、たぶん――現地を見る目だ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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