第106話 二学期開始
王都へ戻ってきた時、まず思ったのは――やっぱり人が多いな、だった。
門をくぐる馬車の列。
石畳を打つ車輪の音。
行き交う人、荷を運ぶ者、声を張る商人。
ハル領の領都も、この夏でかなり賑やかになった。
でも、王都はやはり別格だ。
広さも、人の数も、流れる金の量も、全部が違う。
なのに、不思議と夏休み前ほど圧倒されなかった。
西の森の前線拠点。
街灯の並ぶ領都の夜。
帳簿の山を前に、父上たちと頭を突き合わせた時間。
ああいうものを見たあとだと、目の前の王都の喧騒も、ただの大きな景色ではなくなる。
人がいて、物が流れて、金が動く。
それがどんな仕組みの上に乗っているのか、前より少しだけ想像できるようになっていた。
馬車を降り、学院の男子寮へ向かう。
見慣れた石造りの建物。
夏休み前と同じはずの場所なのに、自分だけが少し違う気がした。
部屋に荷を置き、旅装をほどいていると、廊下の向こうから足音がした。
「よう。戻ったか」
扉にもたれていたのはヴィクトルだった。
「おかえりも何もないな」
「お前にはそれで十分だろ」
そう言って、ヴィクトルは部屋の中をひと通り見回した。
相変わらず遠慮がない。
「ハル領から持ってきた荷、思ったより少ないな」
「必要なものは向こうでかなり片づけてきたからね」
「俺なんか、帰省前より荷物が増えたぞ。父に書類持たされるわ、帰りに確認させられるわで散々だった」
「そっちはそっちで大変そうだな」
「他人事みたいに言うな。半分はお前のせいだ」
その言い方に、思わず少し笑った。
ヴィクトルはもう学院に戻っていた。
あのあと南方の実家へ戻り、商会長である父親に話を通し、出資の件までまとめてきたのだから、実際かなり慌ただしかったはずだ。
「で、ちゃんと通ったんだろ」
「通った。通ったからここにいる」
ヴィクトルは鼻を鳴らす。
「ただ、父上も言ってたぞ。お前は面白いが、面白すぎて周りを休ませないって」
「否定はしない」
「否定しろ」
そう言いながらも、どこか機嫌は悪くない。
「ところでガイルは?」
「さっき見た。たぶん荷物を置いたらそのまま鍛錬場でも覗きに行ったんじゃないか」
「ガイルらしいな」
「お前もあんまり人のこと言えないけどな」
その時、廊下の向こうから重い足音が近づいてきた。
予想通り、ガイルだった。
「いたか」
扉のところで足を止め、俺たちを順に見る。
「戻ったな、リオン」
「うん。ガイルも」
「俺は昨日のうちに着いた」
短くそれだけ言ってから、ガイルは腕を組んだ。
「夏の間に、またずいぶん妙なことをやったらしいな」
「街灯のこと?」
「それもだ。森だ温泉だ何だと、話がいろいろ耳に入る」
さすがに王都まで来ると、全部が正確に伝わっているわけではないらしい。
だが、ハル領で何か大きな動きがあったこと自体は、もう噂になっているのだろう。
「大したことじゃないよ」
俺がそう言うと、ヴィクトルが即座に横から口を挟む。
「いや、大したことだぞ」
「お前は黙ってろ」
「俺は被害者でもあるから、黙らない権利がある」
「何の被害者だよ」
「朝の訓練と温泉建設と強制労働の」
ガイルがわずかに眉を上げた。
「……何だそれは」
「説明すると長い」
「だろうな」
ガイルはそこで小さく息を吐いた。
「まあいい。二学期が始まれば、いずれ嫌でも話は聞こえてくる」
それはそうだろうと思う。
Sクラスで男子寮にいるのは、俺とヴィクトルとガイルだけだ。
ナディアは女子寮だし、セレナは公爵家の王都屋敷から通っている。
エドガーに至っては王宮から通学だ。
だから、こうして始業前に顔を合わせるのは自然とこの三人になる。
少しだけ不思議な感じがした。
夏休み前までなら、ただ同じクラスの上位組という意識だった。
でも今は違う。
ヴィクトルとは、もう少し泥臭い現場を共有した。
ガイルとも、前よりずっと言葉の裏を探らず話せる気がする。
夏休みが終わった。
同時に、何か一段階変わったのかもしれなかった。
◇
翌朝、二学期初日。
教室へ向かう廊下には、夏休み明け特有のざわつきがあった。
久々の再会を喜ぶ声。
休みの間の出来事を自慢する声。
家の事情をそれとなく探り合うような視線。
Sクラスの教室に入ると、先に来ていたナディアが静かにこちらを見て会釈した。
「おはよう、リオン」
「おはよう、ナディア」
その少しあとで、セレナもやって来る。
相変わらず姿勢がいい。
「リオン、久しぶりね」
「久しぶり」
「あなたのところ、随分賑やかな夏休みだったみたいじゃない」
いきなりそこか、と思う。
「セレナ、聞いてるの?」
「少しくらいは耳に入るわよ。街灯だの、西の森だの、温泉だの」
やっぱり噂にはなっているらしい。
席に着いてからも、教室のあちこちで似たような空気があった。
名指しではなくても、こちらへ向く視線が少し増えている。
ハル領。
街灯。
温泉。
西の森。
夏休み前までなら、俺は「Sクラスの少し変わった子爵家の息子」で済んでいたはずだ。
でも今は、そこに別のものが乗っている。
何かをやったやつ。
領地を動かしたやつ。
そういう見られ方だ。
正直、居心地がいいとは言えない。
だが、もう仕方ないとも思っていた。
見られることを避けていたら、あの夏にやったこと全部が中途半端になる。
だったら、少なくとも自分の中ではまっすぐ立っていた方がいい。
エドガーが入ってきたのは、その少しあとだった。
教室の空気が一段静まる。
王子という立場の重さは、やはり別だ。
エドガーは教室を見回し、俺の方へ一瞬だけ視線を向けた。
その目は、夏休み前より少しだけ真剣だった。
――やっぱり、何かは伝わっている。
そう思った。
始業の挨拶と、二学期の予定について簡単な話があり、最初の時間は比較的穏やかに流れた。
校舎も、石畳も、教室の空気も、表向きは夏休み前と変わらない。
なのに、自分の中だけは妙に落ち着かなかった。
ハル領で見てきたものが、まだ身体の奥に残っている。
街灯の下を歩く人の流れ。
西の森の湯気。
帳簿の綻び。
あれらを知ったまま、この教室に座っていると、同じ授業でも見え方が少し変わる。
ここで学ぶ意味がなくなったわけじゃない。
むしろ逆だ。
領地を回し、人を動かし、失敗すれば現金が尽きるところまで見たからこそ、学院で学ぶことの重みが増した気がする。
ここには、ここでしか見えないものがある。
そう考えた時だった。
教室の後ろの扉が、二度、軽く叩かれた。
入ってきたのは学院の職員だった。
年配の男で、いつも事務的な顔をしている。
教室の空気が少しだけ変わる。
職員はまっすぐこちらを見て、はっきりと言った。
「リオン・ハル。学院長がお呼びだ。放課後に学院長の部屋に来てくれ」
一瞬、教室が静まり返った。
次の瞬間、小さなどよめきが広がる。
「学院長?」
「初日から?」
「何があったんだ……」
セレナが目を瞬かせ、ナディアは静かにこちらを見る。
ヴィクトルは、やっぱりな、という顔をした。
ガイルは腕を組んだまま黙っている。
エドガーだけは、わずかに目を細めただけだった。
俺は席を立つ。
「はい」
職員はそれ以上何も言わず、扉のところで待った。
ただの生徒なら、二学期初日から学院長に呼ばれることなんてまずない。
夏休みの間にハル領で起きたことが、もう学院の上まで届いているのか。
それとも、別の何かか。
わからない。
でも、一つだけははっきりしていた。
王立学院に戻ってきた。
校舎も、教室も、夏休み前と変わらない。
なのに二学期は、どうやら静かには始まらないらしい。
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