第104話 人を育てる
父上の執務室に広げられた帳簿の山を前に、俺はしばらく無言で数字を追っていた。
木材の搬出量。
青輝石の採掘と加工。
北村の青葉草。
街灯工房の材料費と人件費。
西の森の護衛費。
温泉周りの整備費。
そして、まだ小さいが確実に増え始めている雑多な支出。
伸びている。
間違いなく、ハル領は伸びていた。
でも、その伸び方がきれいじゃない。
入ってくる金は増えているのに、出ていく金の方が先に走っている。
しかも現場ごとの数字が揃っていないせいで、本当の残りが見えにくい。
俺は手元の紙に、入金時期と支払時期をざっくり並べ直した。
そこへ、少し厳しめの条件も足す。
木材の売却が一度遅れた場合。
青輝石の搬出で護衛費が上振れした場合。
街灯の増設を今の調子で続けた場合。
西の森の前線拠点の人足がもう一段増えた場合。
「……やっぱりか」
小さく呟く。
父上が向かいから聞いた。
「見えたか」
「うん」
俺は紙を父上の方へ向けた。
「今のペースで投資と支払いを続けた場合、順調に入金があっても余裕は薄い。帳簿上は黒字でも、手元の現金は想像よりずっと早く減る」
「どれくらいだ」
「かなり保って二月半。ちょっと輸送が詰まったり、支払いが重なったりすれば、もっと早い」
父上の視線が鋭くなる。
「もっと早い、とは」
「下手したら、俺が学院に戻ってしばらくした頃には危ない」
部屋が静かになった。
ノルも、壁際で腕を組んだまま顔色を変えている。
ヴィクトルも、さすがに軽口を挟まなかった。
「つまり」
父上が静かに言う。
「伸びているが、このままでは現金が尽きる可能性がある、と」
「うん。正確には、“このまま勢いで回し続けたら”だね」
俺は指で紙の数字をなぞった。
「今のハル領は、稼げてないわけじゃない。むしろかなり良い。問題は、稼ぎ方より、回し方が伸びに追いついてないこと」
「帳簿が粗いからですか?」
ノルが低く言う。
「それだけじゃない」
俺は首を振った。
「帳簿の形式が現場ごとに違う。報告の上がり方も違う。誰がどこまで責任を持つかも曖昧。だからズレが出ても、すぐには見つからない」
さらに一拍置いて続ける。
「今はまだ、領地が元気だから誤魔化せてる。でも元気な時にしか仕組みは直せない。弱った後じゃ遅い」
父上は椅子にもたれ、小さく息を吐いた。
「では、どう動く」
俺はそこで、頭の中で整理していた三本柱をそのまま言葉にした。
「まず短期。今すぐ必要なのは、管理できる人間を採ること」
「経験者、か」
「うん。西の森、工房、領都の商業、それぞれに最低一人は数字を見られる人間が要る。今のままじゃ、現場が増えるほど父上に負担が寄る」
父上は黙って頷く。
「次に中期。夜間学校を作りたい」
ヴィクトルが少しだけ眉を上げた。
「学校?」
「働きながら通えるやつ。読む、書く、計算する。あと帳簿のつけ方、数量確認、報告の仕方。今のハル領に必要な実務だけに絞る」
ノルが口を開く。
「昼働いている者が、夜も学べますかな」
「毎日は無理だと思う。だから最初は数日おき、少人数でいい。工房見習い、商店の手伝い、現場責任者候補……そういうところから始める」
「なるほど」
「最後に長期」
俺は父上を見る。
「子ども向けの学校を作りたい。幼い頃から読み書きと計算ができる人間を増やす。そうすれば、五年後、十年後のハル領は根本から変わる」
父上は、そこで初めて少し大きく目を細めた。
「そこまで考えているのか」
「考えるだけならタダだからね」
「軽く言うな」
そう言いながらも、父上の声は否定ではなかった。
ただ、すぐに現実へ引き戻す。
「理屈はわかる。だが、金はどうする」
そこだ。
採用には金がいる。
夜間学校には場所も教材も必要だ。
教師役にも手当がいる。
子どもへの教育まで含めれば、さらに長い金が要る。
今のハル領は、帳簿の上では伸びている。
でも、新しい固定費を軽く増やしていい段階じゃない。
少しだけ沈黙が落ちた。
その空気を破ったのは、ヴィクトルだった。
「その話、ローデン商会に持っていけるかもしれない」
父上とノルの視線が、同時にヴィクトルへ向いた。
「どういう意味かな?ヴィクトル君」
父上が問う。
ヴィクトルはいつもの軽い顔ではなく、きちんと商会の人間の顔をしていた。
「読み書きと計算ができる人間が増えるなら、得をするのはハル領だけじゃありません。商会にとっても、人材は喉から手が出るほど欲しい」
「店員、番頭候補、帳場、現場管理……か」
俺が言うと、ヴィクトルが頷く。
「そういうことだ。これは慈善じゃない。投資として話ができる」
父上が腕を組んだ。
「見返りは」
ヴィクトルはすぐには答えず、こちらを見た。
俺も同じことを考えていた。
「街灯」
俺が先に言う。
「ハル領外での販売は、ローデン商会に優先して扱わせる」
父上の眉がわずかに動く。
「広く渡しすぎではないか?」
「全部は渡さない」
俺は首を振った。
「期間と地域を区切る。製造の主導権はハル領が持つ。価格の基準もこっちで決める。そのうえで、王都や周辺主要都市での販売窓口を、一定期間ローデン商会に優先して任せる」
ヴィクトルが口元を上げた。
「悪くない条件だ」
「そっちも、金だけじゃなくて人を出してもらう」
「人?」
「帳簿がわかる人。店で数字を回してきた人。夜間学校の最初の教師役になれるような人」
そこで、ヴィクトルは少しだけ肩をすくめる。
「……そこまでの条件なら、俺一人では決められないな」
父上が冷静に返す。
「当然だろう」
「うちの実家から金も人も出すなら、父――商会長の判断が要る」
ヴィクトルは俺を見た。
「手紙は出す。というか、出すだけじゃ足りない。直接話したい」
「王都に戻る前に、一度実家へ戻るってこと?」
「そうだな。今の話は、紙の上だけで済ませるには大きい」
その言い方で、こいつも本気なんだとわかった。
「でも、いいの?」
俺が聞くと、ヴィクトルは鼻で笑う。
「いいも悪いもない。ここまで見せられて、黙って見てるのは商人として損だ」
父上が静かに言う。
「ローデン商会への見返りとしては筋が通る。ハル領としても、今の段階で教育の初期費用と人を外から引けるなら大きい」
ノルも頷いた。
「短期の採用と並行して夜学まで動かせるなら、現場はかなり助かりますな」
俺は机の上の帳簿を見た。
光を作った。
湯屋も作った。
でも、結局それを回すのは人だ。
帳簿を揃えるのも人。
湯屋の利用料を数えるのも人。
青輝石の在庫を間違えずに報告するのも人。
街灯の材料が足りないと先に気づくのも人。
発明だけじゃ、領地は長くは伸びない。
人を育てないと、どこかで必ず詰まる。
「じゃあ、決まりだね」
俺はそう言って顔を上げた。
「短期で採用。中期で夜間学校。長期で子供たち向けの学校。その三本柱でいく」
父上が静かに頷く。
「良い」
「採用はすぐ動く。夜間学校は場所と教師役のあたりをつける。子供たち向けの学校は構想だけ先に整理しておく」
ノルが口を開く。
「現場で見込みのありそうな者はこちらで拾っておきましょう。数字に強そうな者、真面目に報告を上げる者、そのあたりは見ております」
「助かる」
そしてヴィクトルは、少し真面目な顔で言った。
「俺は一度戻る。父に手紙を出して、できれば直接話す。たぶん、その方が早い」
「どれくらいで動けそう?」
「準備ができ次第だな。お前が王都へ戻る前には、一度返事の形を持ってきたい」
それなら十分だ。
夏休みはあと三週間。
短いけど、まだ打てる手は多い。
父上が最後に俺を見る。
「リオン」
「うん」
「光を作り、湯を作った。次は人か」
「そうなるね」
「おまえはこの領の発展に欠かせない人間になったな」
俺は少し笑った。
「ありがとう。でもまだまだだよ」
父上も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
執務室の窓の外では、今日も領都が動いている。
荷が流れ、人が増え、金が回り、ハル領は確かに前へ進んでいる。
だからこそ、その流れを受け止める器が要る。
次に育てるべきものは、人だ。
俺は積み上がった帳簿の山の向こうにある、まだ形になっていない未来を静かに見据えていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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