第102話 湯屋が呼ぶもの
西の森の簡易露天風呂が完成してから、数日が経った。
その間、俺とヴィクトルの生活は、妙に規則正しくなっていた。
まだ空が白みきらないうちに起きる。
領騎士団の早朝訓練に顔を出す。
朝食を食べる。
それから二人で西の森へ向かう。
昼の間は、開拓の手伝いだ。
木材の搬出を見たり、人足の配置を調整したり、時には自分でも荷を運び、道の整備を手伝う。
冒険者たちが持ち帰った素材の確認をしたり、森の入口付近の拠点で不足している道具を確認したり、やることはいくらでもあった。
そして、日が沈む前になると、俺たちは決まってあの露天風呂へ向かった。
最初は、出来具合を確かめるためだった。
でも今では、完全に一日の締めになっている。
「……お前、本当に飽きないな」
ある日の夕方、湯気の立つ湯屋へ歩きながら、ヴィクトルが半分呆れたように言った。
「何が?」
「風呂だよ。最初の日はそりゃ感動した。でもお前、毎回ちゃんと幸せそうな顔をするじゃないか」
「だって気持ちいいし」
「それはわかる」
ヴィクトルは少し悔しそうに顔をしかめる。
「わかるから腹が立つ」
そう言いながらも、足は湯屋に向かっている。
文句は多いが、こいつももう完全にこちら側だ。
訓練と森仕事で疲れた身体を湯に沈める。
それを知ってしまった以上、戻る理由なんてない。
しかも、その評判はもう俺たちのところだけに留まっていなかった。
露天風呂作りを手伝ってくれた見習い職人たちや人足たちが、領都や森の作業場で好き勝手に言いふらしていたからだ。
西の森に、妙に疲れが抜ける風呂がある。
仕事終わりに入ると足が軽くなる。
肩まで浸かると、生き返る。
あそこに入るためなら、森の仕事も悪くない――と。
そのせいで、森で働く人足だけじゃなく、木こりや魔物討伐帰りの冒険者たちまで入りに来るようになった。
最初の頃は、顔見知りが恐る恐る覗きに来る程度だった。
だが今は違う。
夕方になると、湯屋の近くには自然と人が集まる。
「今日はもう満員か?」
「いや、あと二、三人ならいけるだろ」
「昨日より人増えてないか?」
「討伐帰りの連中が聞きつけたらしいぞ」
そんな声が聞こえる。
十人前後が入れる広さで作ったが、ぎゅうぎゅうに詰めればまだ入る。
それでも、連日ほぼ満員だ。
しかも面白いのは、入った連中が大体同じ顔で帰っていくことだった。
最初は半信半疑。
ぬるい湯なんじゃないか。
本当に疲れが取れるのか。
森の中の簡易風呂に何をそこまで、という顔だ。
だが、出てくる頃には、みんな妙に顔が緩んでいる。
「……悪くない」
「悪くないどころじゃねぇよ」
「足が軽い」
「明日も来ようかな」
そんなことを言いながら、もう次の一回を考えている。
その変化を見ていると、やっぱり作って正解だったと思う。
◇
そして、その影響は風呂場だけに留まらなかった。
「最近、森に来る人の数が前より増えてますね」
昼過ぎ、木材置き場の近くで荷を数えていた見習い職人の一人がそう言った。
「やっぱりそう思う?」
「ええ。前より人がへばらないですし、来るのを嫌がる人も少し減った気がします」
別の人足も、汗を拭いながら口を挟む。
「仕事終わりに風呂があるってだけで、気分が違うんですよ。なんていうか……今日一日ちゃんと終われる感じがするっていうか」
「明日も来れる気になる?」
「それです」
その言い方に、俺は小さく頷いた。
ただ疲れを取るだけじゃない。
また明日ここに来て働けると思える。
それは、かなり大きい。
ノルも巡回のついでに湯屋の様子を見に来ていて、同じような感想を口にした。
「冒険者達も、森の依頼を受けやすくなっているようですな」
「温泉のせいで?」
「ええ」
ノルは簡潔に答える。
「依頼帰りに身体を洗えて疲れを落とせるとなれば、森へ入る心理的な負担は減るでしょう。人足たちも同じです」
「なるほどね」
「加えて、人が増えれば見回りもしやすくなる。静かすぎる場所は、それだけで治安が悪くなりやすいですからな」
街灯の時にも感じたが、結局、街や拠点というのは人が動き続けていることそのものが強さになる。
そして今、西の森の前線拠点では、それが起き始めていた。
木を切る者。
運ぶ者。
調査する冒険者。
討伐帰りに汗と泥を落とす者。
湯上がりにぼんやり座って息をつく者。
前までここは、「森の手前の作業場」だった。
でも今は少し違う。
人が留まり、人が回復し、人がまた動き出す場所になりつつある。
俺は、湯屋の前に置かれた丸太に座って、少し離れたところにできている順番待ちの列を見た。
前世の知識の中に、こういう話があったのを思い出す。
大きく発展した都市には、公衆浴場が広がっていく。
それはただ身体を洗うためだけの場所じゃない。
人が集まり、疲れを落とし、また街へ戻っていくための装置だった。
歴史書の中で読んだローマ帝国の浴場も、人口が集中した江戸時代の江戸の湯屋も、たぶん本質は同じだ。
人が多く住み、人が多く働く場所ほど、回復する場所が要る。
だとしたら、この露天風呂が人を呼んでいるのは、別に不思議じゃない。
むしろ当然なのかもしれない。
「また難しい顔してるな」
隣に腰を下ろしながら、ヴィクトルが言った。
「そう?」
「そうだよ。お前、その顔の時は大体また何か思いついてる」
俺は少し笑った。
「まあ、思いついてる」
「ほら見ろ」
ヴィクトルは湯屋の方へ視線を向ける。
今日も風呂は満員だった。
木こりらしい男たちが笑いながら湯に浸かり、その隣では冒険者たちが肩まで沈んで魂の抜けた顔をしている。
見習い職人の一人など、もう毎日ここに来る気満々だ。
「これ、完全に当たったな」
ヴィクトルが言う。
「うん」
「街灯の次は湯屋か。しかも今度は森の前線拠点そのものを変え始めてる」
「それだけじゃない」
「ん?」
俺は少し考えてから言った。
「これ、西の森だけの話で終わらないかもしれない」
ヴィクトルが片眉を上げた。
「……領都か?」
「うん」
自分で口にしてみると、やっぱりかなりしっくりくる。
「街灯は夜の領都を変えた。だったら、公衆浴場は暮らしの回し方そのものを変えるかもしれない」
「風呂が?」
「風呂が、じゃない。人が回復できる場所が、かな」
ヴィクトルは黙って聞いていた。
「領都だって人は多い。商人、職人、騎士、働いてる人たちがいる。そういう人たちが毎日使える公衆浴場があれば、街の暮らし方が変わると思う」
ヴィクトルは腕を組んだ。
「……あり得るな」
「だよね」
「森の湯屋がこれだけ機能してるなら、むしろ領都の方が人は多い分だけ伸びる可能性がある」
「そう思う」
ヴィクトルは少しだけ笑った。
「お前、本当に一つ当たるとすぐ次の盤面を見るな」
「そういうお前も、今かなり乗ってるだろ」
「否定はしない」
それから、少し真面目な顔になる。
「でも、領都に作るなら森とは別物だぞ。湯量、場所、運用、客層、全部変わる」
「わかってる」
「その顔は、たぶんもう半分くらい考えてる顔だな」
「半分どころじゃないかも」
「だろうな」
ヴィクトルはそう言って、小さく笑った。
その時、風呂から上がった人足の一人が、こっちに向かって大声を出した。
「リオン様! この風呂、ほんとに最高です! もう森仕事のあと、これなしは考えられません!」
その後ろから、冒険者も湯気の向こうで笑っている。
「明日も来るぞ!」
「順番待ちが増えそうだな!」
「待ってでも入る価値ある!」
その声を聞いて、ヴィクトルがぽつりと呟いた。
「……もう湯屋じゃなくて、人寄せの核だな」
「うん」
まさにその通りだった。
この露天風呂は、疲れを取るだけの設備じゃなくなり始めている。
人を集め、人を留まらせ、人をまた動かす。
湯屋は人の流れそのものを変え始めていた。
だったら、その力は西の森だけに閉じ込めておくべきじゃない。
領都にも、いずれ必要になる。
俺は湯気の向こうの賑わいを見ながら、次の形を静かに思い描いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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