第101話 極楽
夕暮れの西の森に、白い湯気がゆっくりと立ちのぼっていた。
出来たばかりの露天風呂は、豪奢とは程遠い。
木で組んだ浴槽。
最低限の囲い。
横には加熱釜。
源泉から引いた湯が木樋を伝って流れ込み、浴槽の縁からは、温まった湯が静かにあふれている。
だが、その場に立った瞬間、誰もがわかった。
――これは、いい。
森の中だ。
夕方の空気は少しひんやりしていて、汗をかいた身体にはちょうどいい。
なのに、浴槽の上だけはやわらかな湯気に包まれている。
木々の葉を風が揺らす音。
どこか遠くで鳴く鳥の声。
樋を流れる湯の音。
浴槽の縁から、静かにこぼれて落ちる湯の音。
その全部が重なって、もう入る前から妙に気持ちを緩めてくる。
ヴィクトルが、湯気の向こうの浴槽を見ながら言った。
「……本当に入るのか?」
「そのために作ったんだろ」
俺がそう返すと、ヴィクトルは露骨に顔をしかめる。
「いや、そういう意味じゃない。森の中だぞ? こんな所で裸になるのか?」
後ろでは見習い職人たちも、人足たちも、似たような顔をしていた。
「なんか緊張しますね……」
「そりゃするだろ」
「入っていいのかな、これ……」
さっきまで木材を運んでいた時より、よほど落ち着きがない。
まあ、わからなくもない。
まだ誰も入っていない湯。
しかも、自分たちで作ったばかりの風呂だ。
期待もあるが、半分は「本当に大丈夫なのか」という気持ちなんだろう。
だから、俺は何も言わずに上着へ手をかけた。
「え」
ヴィクトルが変な声を出す。
「ちょ、待て待て待て」
「何?」
「何、じゃない。お前、そんなあっさり行くのか?」
「行くよ」
服を脱いで、囲いの中へ入る。
森の空気が汗の残った肌を撫でていく。少し冷たい。
でも、その先に湯気があると思うと、その冷たさすら気持ちいい。
浴槽手前の横にある小さい桶でお湯をとり、体にかける。
そして、浴槽の縁に手を置き、そっと足先を入れた。
――ああ。
温度は、ちょうどいい。
熱すぎない。
ぬるすぎない。
長く、深く浸かりたくなる温度だ。
ゆっくりと脚を沈め、腰まで入る。
それから肩まで沈んだ瞬間、思わず声が漏れた。
「…………っ、はぁ」
もう、その一息で十分だった。
身体の表面を包む熱さじゃない。
じわじわと、疲れの芯にまで染み込んでいく感じだ。
早朝訓練の疲れ。
工房での作業。
森での建設。
全部が、湯の中へ溶けていくみたいだった。
木の香りが、ほんのりする。
樋から流れ込む湯が、浴槽の中でやわらかく揺れる。
その揺れが肩や背中に当たるたび、力が抜けていく。
俺はそのまま、目を閉じた。
極楽だ。
「……おい」
ヴィクトルの声がする。
「その顔はずるい」
目を開けると、浴槽の外でヴィクトルがこちらを睨んでいた。
「どんな顔?」
「幸せが顔から漏れてる顔だ」
「まあ、幸せだからね」
「くそ」
ヴィクトルはぶつぶつ言いながらも、ついに観念したみたいに服を脱ぎ始めた。
「ここまで来て入らないのも損か……」
「正しい判断だよ」
「お前に言われると腹が立つな」
そう言いながら、ヴィクトルも浴槽の縁に手をかけ、慎重に足を入れようとする。
リオンが一言
「お湯につかる前に体を一回流そう」
一瞬、顔が止まった。
リオンに言われて体にお湯をかけ、再び慎重に浴槽に足を入れるヴィクトル。
それから、腰まで沈み、肩まで浸かったところで、完全に黙った。
「どう?」
俺が聞く。
ヴィクトルはしばらく返事をしなかった。
いや、できなかったんだろう。
やがて、長く、深く息を吐く。
「…………はぁぁぁ……」
その声は、さっきまでの文句と同じ人間のものとは思えないくらい、気の抜けた声だった。
「こいつは……やばいな」
「だろ?」
「なんだこれ」
ヴィクトルは湯の中で肩まで沈みながら、空を見上げた。
「身体が溶ける」
言いながら、顔が完全に緩んでいた。
「ここは天国か……」
その呟きに、思わず笑う。
そのやり取りを見ていた見習いたちと人足たちは、とうとう我慢できなくなったらしい。
「お、俺たちもいいですか!?」
「だめって言うわけないだろ」
「入れ入れ」
わっと囲いの中へ入ってきて、それぞれ慌てて服を脱ぎ始める。
さっきまでの遠慮が嘘みたいだった。
一人、また一人とかけ湯を済ませて湯に入る。
そして、その全員が同じ顔をした。
「うわぁ……」
「はぁぁ……」
「やばい……」
「これ毎日入りたい……」
「疲れが、どっか行く……」
もう、言葉になっていない。
さっきまで釘を打っていた手が湯の中でだらりと沈み、木材を担いでいた肩が、見るからに落ちる。
人足の一人など、湯に浸かった瞬間に「生き返る……」と本気で呟いていた。
浴槽は十人入っても、まだ少し余裕があった。
肩が触れないわけじゃないが、窮屈さはない。
むしろ、同じ湯に浸かっているせいか、妙な一体感まである。
しばらくすると、誰も喋らなくなった。
言葉がいらないのだ。
森の中。
湯が流れる音。
風が木々の葉を揺らす音。
遠くの鳥の声。
そして、四十一度ほどだろうか。
熱すぎずぬるすぎない、ちょうどいい湯。
肩まで浸かって、ゆっくり息を吐く。
そのたびに、身体の奥に残っていた疲れがふっとほどけていく。
熱いだけの湯じゃない。
長く入っていられる。
長く入っていたくなる。
リオンは目を閉じた。
身体の力が、順番に抜けていく。
首。肩。背中。脚。
どこが疲れていたか、自分でもよくわかるくらいに、湯がそこへ届いていく。
ああ、これだ。
これを作りたかったんだと思う。
これはただの風呂じゃない。
疲れた人間が、ちゃんと疲れを下ろせる場所。
街灯が夜を変えたみたいに、この湯は人の“回復の仕方”そのものを変えるかもしれない。
目を開けると、ヴィクトルが完全に蕩けた顔で湯に沈んでいた。
「どう?」
声をかける。
ヴィクトルは、しばらくぼんやりした顔でこちらを見てから、ようやく口を開いた。
「……これは、新しい娯楽だな」
「娯楽?」
「いや、違うな。娯楽って言うと軽いか」
ヴィクトルは湯の中で少しだけ姿勢を直した。
「こんな癒しは初めてだ」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
「だろ?」
「うん。これは流行る」
もう、そこに迷いはなかった。
見習いの一人が、目を細めたまま言う。
「仕事のあとに毎日入りたいです……」
「わかる」
「むしろここで働きたい」
「いや、働いたあとに入りたいんだろ」
人足たちまで笑っている。
その笑い声も、いつもの疲れた感じじゃなかった。
湯に緩められて、少し柔らかくなった笑いだ。
湯気が揺れる。
その向こうで、木々の間から夕方の光が少しずつ薄れていく。
森の中の簡易露天風呂。
まだ囲いも粗くて、設備も最低限で、立派な温泉宿にはほど遠い。
でも、ここにはもう確かに価値があった。
目の前の全員が、それを顔で証明している。
俺はもう一度、肩まで深く湯に沈んだ。
気持ちいい。
理屈抜きで、ただそう思う。
これならいける。
西の森で働く人たちは、きっとここを欲しがる。
冒険者も、人足も、騎士団も。
そしていずれは、もっと多くの人が来る。
湯は、静かに浴槽へ流れ続けていた。
その温かさは、街灯とはまた違う形で、ハル領の未来を照らし始めていた。
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