41. 和子の母と夕顔の花
(和子の母と夕顔の花)
苦しいと思って、急いで顔を上げた。
お風呂の中で寝てしまったのだ。
「危ない危ない、……」
お風呂で溺れ死ぬ話しは、よく聞く話だ。
でも、お風呂に入らないわけにはいかない。
今日の疲れを癒し、そして嫌な事も、体の汗と共に石鹸で流してしまおう……
あの児童相談所のくそばばあ、仕事場まで来て、恥ずかしいったらありゃしない! 好きにやってくれって言ってやった。
大学出て、人を犯罪者扱いして、言いたい放題言って、金もらっていればいいもんだ。
こっちはパートで安い賃金で体使って重労働だ。
あいつに貧乏の辛さが分かるわけないさ……
子供を置き去りにしてるって、仕方ないさ、働かねば生きていけない。それが罪だって言うのか?
もし、子供がいなかったら、私も普通の人生が送れたかも知れない。
あの男に会った……、幸せそうに家族でスーパーに買い物に来ていた。あいつは東京で暮らしているはず……
会う事はないと思っていた。家族で実家に里帰りなのか……、幸せそうに笑っていた。奥さんも綺麗な人だった。子供も一人、保育園なのかやんちゃな男の子……、絵に描いたような幸せ家族だ。
和子はあなたの子よと言ってやりたかった。
あいつの幸せな家庭を壊してやりたかった。でも、そんなことでは壊れないか?
そして言ってしまえば、貴方は喜んで俺が育てると言うでしょうね。
だから言わないわ……、言えばあっという間に親権は取られてしまう。だから、貴方には渡さない……、和子は私の子よ。でも、和子を見ているのが辛い。幸せな家庭を作れない事は分かっているから……
いじめているわけではない。一人で生きていくことを教えているのよ……
「少し長湯をしてしまったかな……、あれ、力が入らない……、立てない……」
しまった……、長湯をしすぎて、脱水から、頭の血管が詰まったのか?
このままでは茹だって死んでしまう……
お湯の中から出ないと……、でも立てない……
腕は動く……、でも左腕は力が入らない……
「……、和子!和子!和子 ……」
そうだった。和子はいない……、児童相談所だ。こんな時に……、この家には誰もいない……
一人でこのまま死んでしまうのか……
いいってこと、もう、生きていくにも疲れた……
でも、熱い、茹だってしまう!
「誰か助けて、助けて、助けて……」
助けて、……、こんなところで叫んでも、誰にも聞こえない……、死んでしまおうと決めたのに、まだ生きたいのか? 茹だって死ぬのは嫌だ……、あ、熱い、熱い……
「……、誰か、助けて、助けて、誰か……」
「……、……、あら……、貴女も裸ね……」
誰……? 裸の女の人が入ってきた。
良かった、これで助かる。
「誰か知らないけど、助けて、お、お風呂から出れないのよ……」
「……、それで、いいんじゃないの……、貴女は死にたいんでしょう……」
「いや、助けて……、まだ死にたくない……、助けて!」
「駄目よ!貴女はここで死ぬのよ……」
「……、そんな……、助けに来たんじゃないの……、あんたは誰……?」
「私は夕顔、お花の夕顔なのよ。だから、貴女を助けられないの……」
「……、それじゃー、誰かを呼んできて……、早く!」
「それもできないのよ……、裸で外に出ては行けないと言うから……」
「服を着て……、服を……」
「あら、私、服を持ってないのよ……、お花だから……、お花が服を着ていたら可笑しいでしょう」
「あ、あんた、頭、イカれているのか……、いいから、そこの私の服でいいから、着て、誰か呼んできて……、早く!」
「私、服の着方知らないの?」
「もういい……、ここから出して……、電話……、私の服の上に携帯電話があるから、救急車、呼んで!」
裸の女の人は携帯電話を持ってきてくれた。
「……、これかしら……、私、電話をかけたことがないの……」
「大丈夫、左手が少し動く……、携帯を私の前にかざして、スマホだから、電話をかけられる」
よかった……、救急車を呼べる……
「助けて、お風呂から出られなくなった……」
「もしもし、誰……、……、お母さん……」
「和子、何で、和子の携帯にかかるのよ! でも、いいわ! お風呂から出られないの! 救急車呼んで!」
「お母さん、……、久しぶりね……」
いつのまにか、和子がお風呂場に来てくれていた。
「和子、助けて、お風呂から出られなくなったの!」
「お母さん、私を捨てたでしょう……」
「違うよ!あの相談所のくそばばあが、勝手に和子を連れて行ったんだよ……、早く、ここから出して……」
「もう、私はここの子ではないから、だからお母さんとは関係がないから……」
「和子、助けて……、もう限界、和子、助けて……」
「あ、……、……、……」
いかん、お風呂の中で寝てしまった。
危ない危ない……、運が悪ければ、溺れ死ぬ……
「……、夢か……、嫌な夢だった……」
私は、いつものように普通にバスタブから立って出られた……
一人で暮らすという事は、こういう事なんだ。
お風呂だけではない。 家の何処かで倒れても助けてくれる者などいない。 そのまま、動けないまま、枯れて死んでいく。お風呂で茹だって死ぬよりいいかも知れない。
でも、今度は本当にバスタブで出れなくなって、茹だって死ぬかも知れない。
「……、あー、嫌だ嫌だ……」
でも、私には和子がいる。
でも、こんな私の面倒なんか見てくれないだろう。
いや、こんな私の面倒なんか見なくてもいい。
私は彼女の幸せを作れない。私なんかほっといて自分で幸せを作ってほしい。
いつか大きくなって大人になって、この家を出て、自由に何処へでも飛んでいって、自分の夢を掴んで欲しい。
洗面台の鏡には、三十歳の裸の私が映っていた。
「……、風俗店もそろそろ潮時かな……」
私はワンピースパジャマを裸の上から、そのまま着た。
いつものようにキッチンに行き、冷蔵庫からコップ一杯の水を飲んだ。
ダイニングテーブルに白いお皿が一枚、その上に食べかけのおにぎりが置かれていた。
「和子の奴、慌てて学校に行ったんだ……」
何げなく目線が床に落ちたとき、床にうずくまる和子を見た。
「……、和子!」
「和子、寝てるのかい……、……」
私は、抱き起こそうと、寝ている和子に触った瞬間……、冷たい……
「和子、和子! ……、和子 ……」
死んで、冷たくなっていることが分かった。
「……、何で……、何で……、死んじゃったの……」
丸まった体は、硬くなっていて、抱き起こせない。
「……、私が面倒を見なかったから……、くそばばあが言っていた。私が虐待しているって……」
和子の顔は、目をつぶっていて、口が苦しそうに空いていた。
「それで、それで死んじゃったの……」
硬い体を無理矢理ほぐすように、撫でながら、丸まった体を伸ばしながら抱き寄せる。涙が止まらない……、……
「こんなに痩せていたの……、何で……」
「……、毎日おにぎりしか食べていなかったの……」
「和子! 何でも好きな物を買って食べなって言っていたのに……、……」
「……、何で、おにぎりなのよ……」
小さいときから、一緒に晩ご飯も作ったのに、一緒におかずも作っていた。和子すぐに何でも自分で作れるようになって、ケーキもパンも、何でも作れたじゃない。大きくなったらケーキ屋さんをやりたいって言ってたじゃない……、それなのに、何で……、最後はおにぎり半分なのよ!」
「和子! 和子!……」
私は、私は娘を殺してしまった……
私が殺したんだ……
死んだ娘を抱いて、硬く冷たくなった娘を抱いて、抱きしめて、泣いた、泣いた……、泣いた……
後悔の思いが、涙と共に湧き出てくる……
無くして、初めて大切なものが分かるという……
「……、もっと私が側にいればよかった……、もっと私が優しくしていればよかった……、もっと、もっと、もっと、和子と一緒にいたかったよ……」
「その思い、叶えてあげるよ……」
「……、え、誰……?」
床に伏せて泣いていた私は、顔を上げた。
朝日が部屋を明るく照らしていた。
その朝日を背負うように赤い着物で長い黒髪の女が立っていた。
抱きかかえていた和子は、消えていた。
また、夢を見ていたのか……、……?
「これ、あんたの携帯だろう……?」
女は、携帯を私に投げてよこした。
「娘に電話してみな……」
私は言われるまま、和子に電話した。
「お母さん、どうしたの……?」
「……、和子 ……、今どこにいるんだい?」
また、止めどもない涙が溢れて流れる……
「今、朝子先生の家よ……」
「……、朝子先生の家って何処……、……」
「駅の近くのたこ焼き屋さん……、お母さん、泣いているの……?」
「……、泣いちゃーいないよ……、今、迎えにいくから……」
「今から、学校よ……、朝子先生と行くのよ……」
「じゃー、学校で待ち合わせしましょう……」
「……、お母さん、待っているわ……」
周りを見回すと電話を投げてくれた女の人は何処にもいなかった。




