061「アイドルファン青年、最後のライブに参戦する」
――宮川香奈引退。
六月の頭に表明されたそのニュースを僕が知ったのは、夕方から入っていたバイトを終えた帰りの電車の中だった。まさに寝耳に水と言った報せで、僕は電車内で思わず「は?」と声をあげてしまっていた。
突然のことに混乱していた僕はとにかくそのニュースの真偽を確かめることとし、いろいろなニュースサイトやSNSを見て回った。
その結果わかったのは、どうやら宮川香奈がアイドルを引退するのは本当らしいということ。そして、アイドルだけでなく、芸能活動を含めた一切の活動を終了するということ。
引退日は来年の八月六日。彼女の誕生日である。
同時に、活動最後の全国ツアーライブが開催されることも発表された。
このニュースは世間を賑わせ、インターネットでは彼女の引退について様々な憶測が飛び交った。
宮川香奈とは、昨今では珍しいソロでの活動をメインにしたアイドル。
"アイドル"と言われれば、一般的に"グループアイドル"をイメージするようになってしまって久しい中、桜庭蒼空に続くソロアイドルとして注目を集めた。
宮川香奈本人はこのことについて、「当時は事務所も大きくなかったため、グループを組めるようなアイドルが同時期に居なかっただけ」と語っている。
高校三年の頃、"ぽっぴんぐ☆ディーヴァ"という楽曲で一躍有名になり、この頃からファンも増え、各所への露出も増えていった。
そんな中でも特に彼女の活動に大きく寄与したのは、とある女児向けアニメの主題歌に抜擢されたことだろう。
学校のない休日の朝方に放映されていたアニメで、女児向けでこそあったが直前には男児向けの番組が放映されていたこともあり、当時小学生だった僕らくらいの年齡であればアニメの内容こそ知らずとも主題歌は聴いたことある程度には知名度のある曲だった。
そんなこともあってか、彼女の大学卒業後は子供向け教育番組のいわゆる"おねえさん"に就任。これによって、更に彼女のイメージが子供向けのものへと形成されていく。
並行してアイドルとしての活動も続けていた彼女だったが、先述の通りの活動によって、ファン層にも少しずつ変化が訪れる。ライブイベント等には子供連れの親子が増え、アイドルとしては異質な存在となっていった。
この頃には、今の子供向けの"おねえさん"としてか、当初通りの"アイドル"としてのどちらに舵を切るのかを迫られており、活動にも少し迷走が見られた。
転機となったのは、教育番組での一場面が元のアイドルとしてのファン層に話題になったことだった。
番組内では、未就学児と触れ合う場面がある。基本的には彼女の控え目な性格から、やりたい放題の子供たちに翻弄されるシーンが多いのだが、その日は普段よりも凄い子供――オブラートに包んだ表現――が居たのだ。子供に振り回されている普段の印象から、現場の様子も緊張感のあった様子だったが、そこで彼女はその子供を毅然とした態度で窘める。その後は窘められた子供も大人しくなり、収録は無事終わったのだった。
未就学児が出演する関係から番組は当然収録だったため、この件を完全にカットすることもできたはずなのだが、宮川香奈の"おねえさん"としての手腕が発揮されたシーンだから割とそのまま放映された。
この回を宮川香奈を教育番組まで追っていたファンがSNSで発信し拡散。"バブみが凄すぎる"とネット上で話題になる。
この出来事から、アイドルとしての宮川香奈のファン層も、"おねえさん"としての宮川香奈のファン層と混ざっていくようになり、彼女の活動もその方向へと進んでいくことになる。
そんな彼女の活動に不穏さが漂ったのは、務めていた教育番組からの降板のお知らせが発表されたことだった。実に今回の引退表明から半年前のことである。
番組が低迷していたという訳ではなかったし、現に今も宮川香奈から"おねえさん"を交代して同番組は続いている。
本当に前兆のない突然のことに、当時のファン――子供とその親、そして大きいお友達――は困惑していたのを覚えている。
今になって考えれば、この頃から既に引退が決まっていたからこその降板だったのだろう。
番組降板から芸能活動の露出自体も少なくなっていき、徐々にフェードアウトしていくような形の活動になっていった。
引退発表時、宮川香奈は齢二十六であり、今年の誕生日を誕生日を迎えれば二十七となる。
丁度二年ほど前に活動十周年のライブが行われていて、アイドルとしての活動期間で考えれば比較的長めな方ではある。
それでも既存のアイドルとは違った道を選んだ彼女の人気は今も健在だったし、アイドルとしての活動を終えたとしてもタレントとして活動するだろうと多くの人が疑わなかったと思う。
故に彼女の引退には数多くの憶測が飛び交うことになったということだった。
◇ ◇ ◇
宮川香奈の引退表明から一年。
全国ツアーの開始を直前に控えたこの頃になると、宮川香奈を番組やCMで見るようなことはほぼゼロに等しくなる。
彼女自身もライブのための最終段階を迎えている頃だろう。
僕はライブチケットも無事確保することができ、幸運なことに引退日の八月六日に行われる東京公演のチケットが当選していた。
ツアーの中でも最後の公演であり、開催日が彼女の誕生日であること。ネット配信もこの日のものが行われるとのことで、ツアー中でもかなり特別視されていてチケット倍率も相当なものだったと言われている。
チケットが当たってからも、本当に当たったのは東京公演なのか何度か確認したくらい夢のようで、引退は悲しいことだったけどそれ以上に楽しみでもあった。
そして八月六日。
前日はほとんど眠れず、一応睡眠だけは取っておこうと日付が変わる頃にはベッドに入って眠りについたが、目が覚めたのは三時だった。
ライブの開演が十八時。開場がその一時間半前の十六時半。僕の家から会場までは二時間ほどかかる。事前物販の受け取りのことを考えて更にもう一時間くらい。
これらを考えれば、十三時頃に家を出ればまあなんとかなるだろう。
そうなると目覚めてしまってからの九時間くらいをどう過ごすかが問題だったのだが、別のことをしようにも気が散って仕方ない。結局呆然とスマホでSNSを見たり、動画サイトで何の身にもならないような動画をひたすら垂れ流して過ごしていた。ここ数年で最も長く感じた時間だった。
家を出てからは大きなトラブルもなく会場まで辿り着くことができた。
参加できないというのが一番避けたかった事態であったため、そこを越えることができたのは素直に安心する。
僕が会場に着いたのは十五時過ぎ。まだ会場時間には一時間以上ある。
僕はスマホを取り出して"みさき"と登録された人物へメッセージを送る。すぐに返信が返ってきて、その一分後には一人の女性が僕のもとへ現れる。
「こんにちは! 岡部君」
「はいっ。こんにちは」
僕の前に現れた茶髪のひし形ボブの同年代の女性が、僕の名前――岡部始――の名前を呼ぶ。
彼女の名前は、絢音海咲。大学のゼミが同じで、根っからの宮川香奈のファン。同じ宮川香奈のファンであるということで意気投合した。
僕は見るからにテンションの高い絢音さんに挨拶を返す。
「岡部君は物販とかどうする予定?」
「僕は会場受取です」
「なるほど! じゃあ、そっちに先行こっか」
絢音さんに連れられて物販会場へと足を運ぶ。
普段の僕は、宮川香奈のライブに現地で参加することはなく、専らネット配信されるもので楽しんでいた。
今回は最後のライブということもあり、現地で参加することを選んだのだが、やはり勝手がわからないというのは不安である。そのことを絢音さんの相談したら、絢音さんも東京公演のチケットが当たっていたため、案内をしてくれることになった。
物販は受取だけだったので比較的スムーズだったとはいえ、この時間に会場へ来る人も多いみたいで十分程度並ぶことになった。
少し並ぶことになったとはいえ、それでも開場時間には余裕がありすぎるくらいすんなりと終わってしまった。
それから共に物販の受取を終えた絢音さんと合流し、開場時間まで宮川香奈や今日のライブについて語って過ごした。
開場時間間際になり、僕たちは会場の入口にあるチケット確認の列に向かう。
いよいよライブ本番だと思うと緊張感が増してきて、歩いている最中の僕はふわふわとして上の空だった。
そんな時に不意に現れた人影とぶつかってしまう。
「あっ、す、すみません! ボーッとしてました」
ぶつかった人を確認する前にほとんど反射的に頭を下げて謝る。
「いや、こっちもちょっと不注意だったんで。すいません」
顔を上げると、ナチュラルヘアの男性が立っていた。僕よりも十センチくらい背の高い、少し威圧感のある人だった。年齡は僕と同じかもう少し高いくらい。
ぶつかってしまった人は、そう言って軽く会釈をすると僕の横を通り抜けて去っていった。
開場時間が近づいていて、会場入口の方への人の流れが大きくなっている中、そこに逆らうように歩いている男性は妙に印象に残った。
「大丈夫……?」
絢音さんが心配そうに声をかけてくる。
「はい。ちょっと楽しみすぎて浮ついてました……」
不注意でトラブルを起こしたりしないようにしないと。今の人は快く許してくれたから良かったけど、いざこざになってしまったら多くの人に迷惑をかけることになってしまう。
僕は大きく深呼吸して気持ちを入れ替える。
再び会場入口へ向かって歩き出そうとすると、絢音さんが男性の歩いていった方を見たまま考え事をしているようだった。
「どうしました?」
「ん? ああ。あんな"アイドル興味ありません"みたいな顔してる人でも、香奈ちゃんのファンなんだよな~って」
そう絢音さんが言ったのを聞いて、男性の顔を思い出す。
「わからなくはないですけど、失礼ですよ……!」
「そうだね。ごめん。行こっか」
僕たちは再び会場入口へと歩いていった。
チケットコードの確認と簡単な手荷物検査を終えて、会場内へと足を運ぶ。
「さて、座席はお互い全然違う場所だから、ここからは別行動だね」
「はい。ありがとうございました! 絢音さん」
そう手を振って自分の席へと向かっていった絢音さんを見送り、僕も自分の席へと向かう。
ライブホールへ入ると、今まで画面越しにしか見てこなかった景色が目に入って圧倒される。チケットに記載されている座席を見つけて座る。
まだ開演まで一時間以上あるというのに会場の席はかなり埋まっていて、宮川香奈の人気がまだ衰えたものではないことを示していた。
席に着いた時は開演まで一時間以上あったはずなのに、ステージの大型モニターに表示されているカウントダウンを見ながら、それに伴って上昇する心拍数をどうにか抑えようと四苦八苦しているうちに、モニターのカウントダウンは十を切っていた。
カウントダウンがゼロになると同時にモニターを含めた会場の照明が消え、静寂と暗闇に包まれる。
直後、眩しいくらいにステージ中央が照明で照らされ、その中央で宮川香奈が輝いていた。
"ぽっぴんぐ☆ディーヴァ"のイントロが流れ出し、会場のボルテージが一瞬で最高潮に達する。そこから数々の名曲が披露され、中には教育番組に出ていた頃に歌われていた曲まで披露された。
圧倒的なまでのパフォーマンスに心を奪われ、言葉も失い、僕はただ彼女に魅入ることしかできなかった。
三時間とは思えないほどの濃密な時間が一瞬にして過ぎ去る。
『では、次が私のアイドルとして歌う最後の曲になります』
ステージ中央に立つ宮川香奈の言葉に会場のそこかしこから「辞めないで」という言葉が投げ掛けられる。
そんな言葉を聞いて、彼女の顔がほころぶ。
『ありがとうございます! でも、本当に最後なんです』
彼女はなおも決意を曲げずに言葉を紡ぐ。
『私には夢が二つありました。一つは勿論アイドルになること。小さい頃に憧れたステージ上でキラキラと輝くアイドル。その夢を追いかけてこうして私はここまで走ってきました。そんな私を応援してくれるファンにも恵まれて、おかげでこうしてこんなに大きな会場で最後のライブを行うことができました! 本当にありがとうございます!!』
ステージ上で宮川香奈は腰が直角になるほど深々とお辞儀をする。
『そして、今度は私はアイドルとしての道を歩むために諦めてしまったもう一つの夢を追いかけたくなったんです。それは、アイドルと並行しては追いかけられない夢でした。だから、ここで"アイドル・宮川香奈"として終わりを迎えることに決めたんです』
引退宣言をしてから彼女が一切語ることのなかったアイドルを辞める理由。
会場の全員がその言葉を聞き逃さないように息を殺して聞き入る。
『最後だからといって。ライブの最後で疲れてるからって。そんな言い訳はしません。最後だからこそ、疲れてるからこそ、最後の最後に私の――アイドル宮川香奈としての全力をここに注ぎ込みます! 聴いてください、"Cherry Blossom"!!』




