マルタンへの道程3 王宮の密議と騎兵誕生秘話 下
「ところで乗馬兵の方は順調に進んでいるか」
オラヴィ王は突然別の話題を王立軍の総指揮官である王弟ビリロトに聞いた。
「はい。乗馬が可能な者をようやく七十人ほど見つけました。それだけで四ヶ月かかりました。
王立軍だけでは数が揃えられないのでムラデムリや近衛隊からも適格者を探しました。また教練するものはモンデラーネ公と繋がっていなければ多少いかがわしい前歴がある者までかき集めました」
ビリロトは簡単に説明したがかなり四苦八苦した結果のことだった。
オラヴィ王のいう乗馬兵すなわち騎兵については、祐司からもたらされた知識が元になって研究が開始された。
祐司が乗馬ができてさらに鍛錬を重ねているということは早い段階でアッカナンをはじめバーリフェルト男爵家が知っていた。
リファニアでは馬が人間が排斥する巫術のエネルギーを嫌うことからその排出量が少ないごく一握りの人間を除いては馬は自分の背に人間を乗せることはない。
そうした特異体質の者は百人に一人もおらず、リファニア世界では乗馬はサーカスにおいて猛獣の背に乗るような見せ物の類でしかなかった。
乗馬ができる者が少数であることと実用に供されないために乗馬技術も発達することはなく、馬自体も乗馬に適した品種改良は行われてこななかった。
しかし祐司からの知識によってバーリフェルト男爵家の次女サネルマは乗馬技術に大いなる可能性があることを見抜いて、巧妙な誘導尋問で相当な知識を祐司から引き出していた。
まず祐司が王都を旅立つとすぐに祐司の乗馬の師匠パルトルトがバーリフェルト男爵家に招聘された。
(第八章 花咲き、花散る王都タチ 王都に舞う木の葉10 乗馬の師匠パルトルト 参照)
パルトルトからは祐司が考案したことになっている鐙と鞍という乗馬に必要な道具がもたらされた。
そして祐司はさらに王都までの旅で使用していなかったハミを乗馬の師匠パルトルトに相談して職人に作らせていた。
ハミは主に金属製の馬具で馬の口の中に入れて手綱の動きをより細かく馬に伝える働きがある。
祐司は現代日本で乗馬をしたことがなかったので知識としてしかハミの存在の知らなかったが、王都でハミを乗馬に使用することでその存在がいかに大きなモノかを実感した。
ハミを使用する前は手綱のみで馬に自分の意志を伝えていたが、ハミを使用するとそれまで自動車を左右の二基のエンジンの調整で方向転換していたものがハンドルで方向転換するようなほどの違いがあった。
*話末注あり
また馬の速度調整や止まれといった指示を与える人から馬への意思伝達も劇的に改善された。
さらにパルトルトはバーリフェルト男爵家から王立軍の中に密かにもうけられた乗馬兵処に移された。
そしてパルトルトは王都の渡世人ベドベ・サティンカの口利きで王都にいる乗馬の出来る数人の芸人とともに地方に公演に出かけたことにされた。
王立軍乗馬兵処に密かに召し出されたパルパルトは、この祐司が伝えた乗馬に必修な三つ馬具を王立軍で揃えてくれれば乗馬の師範をしようと条件を出した。
すでに荷物用ではあるが鞍は存在しており、鐙とハミもそう複雑な馬具ではないので王立軍では軍属の皮革職人と鍛冶屋にすぐさま作らせた。
パルトルトは半隊長格の階級を与えられて乗馬師範頭となり、その他の乗馬を芸とする者達は戦士長格の階級で乗馬師範となった。
問題は乗馬の適格者の発掘だった。
馬が操作されることを嫌わないのは経験的に戦車兵である。保安面で信用できる戦車兵を十人密かに呼び寄せると七名が乗馬に適正があった。
ただ戦車兵を引き抜くことはかなり難事だった。
戦車兵は花形兵種であるとともに、養成に長期の時間を要すために王立軍で相応な発言権がある戦車隊が一名なりとも海のものとも山のものともつかない乗馬兵のために戦車兵を割くことに反対するのは目に見えていた。
そこで常時馬を扱う輜重兵や果ては王都の御者にまで範囲を広げて適格者を探したが、隠密裏という条件があったために三ヶ月で王弟ビリロトが言ったようにようよう七十人ほどが集まっただけだった。
その中で十人ほどは瞬く間に乗馬技術を習得して、速歩程度であれば長時間乗馬して移動できるほどになった。
そこでこの十人のうち五人を新たな教官にして、五人を伝令として北西戦役で使用することになった。
祐司とパーヴォットが見たイルマ峠城塞に駆け込んできた乗馬伝令はこのうちの二人である。
その速度は御徒伝令の二倍以上、戦車伝令は平地ではそう差はないが戦車が通行困難な山地でも御徒伝令の数割増しの速度で移動できることがわかった。
紆余曲折はあったが北西戦役の翌年には小規模な威力偵察が出来るほどの乗馬物見隊が結成されて、四年後には三百人規模の集団で運用できる騎兵隊がリファニアに登場することになる。
乗馬戦闘に適した甲冑までは祐司の知識がなかったので戦列突破用の兵種として成長するには少々時間がかかり、機敏な機動が出来る乗馬歩兵として当初は使用された。
乗馬戦闘はどう行うべきかについては祐司から得た情報と試行錯誤の上で、リファニア騎兵は軽騎兵として発達することになった。
*話末注あり
リファニア騎兵はリファニアのどこでも見られる低山と丘陵といった地形では圧倒的に戦車より使い出があった。
また戦車が絶対に通行できない森林地帯も下馬して馬を牽けば大概の地域を騎馬は突破できた。
山がちな日本や朝鮮半島で戦車が発達しなかったように、元々山地の多いリファニアには戦車は適した兵器ではなかった。
オラヴィ王九年という年は千年に渡ってリファニアの花形兵種であった戦車部隊が騎兵部隊にとってかわられるという軍事革命が目前に迫っていた年でもあった。
リファニア王家の各軍の戦車は次第に指揮車やヨーロッパで十五世紀に起こったフス戦争時にフス軍が使用した防御時に即席の城壁となる重ワゴンという使い方に変化していく。 *話末注あり
リファニア社会では曲がりなりにも乗馬が出来る者は百人に一人である。その中から乗馬技術を習得できて武芸に長けている者をさらに選ばなければならない。
いくら騎兵が選別された者の兵科とはいえ機動力を生かしての近代軍の捜索連隊のような機動や迂回攻撃、戦列の隙間に突入する突破攻撃が出来る数百の騎兵を揃えられるのはリファニア本土で百五十万の人口を有する王領リファニアの統治者リファニア王と大きな支配地を有するモンデラーネ公やドノバ二十五万戸の太守ドノバ侯といった大領主しかいない。
しかし騎兵養成のノウハウと初歩的ではあるが適切な運用と戦術を知っているのはリファニア王家だけである。
注:祐司によるハミの使用
本文では細かく触れていませんが、祐司がシスネロスで始めて乗馬の練習を開始してから王都に到着してハミを作らせてからの乗馬技術は明らかに違います。
王都の到着するまで最も難しかった乗馬は感冒に罹患したパーヴォットを通りかかった馬車に乗せて自分は乗馬で馬車に着いていった時のことです。
(第七章 ベムリーナ山地、残照の中の道行き ベムリーナ山地の秋霖25 感冒と麦飯 参照)
それ以外では祐司は旅をはかどらすために乗馬という行為をしていません。ところが王都を旅立ってからはしばしば乗馬という手段を用いており、パーヴォットにまで乗馬をさせています。また馬を巧みに操る場面も登場してきます。
(第十四章 ミツガシワの雫を払い行く旅路 道標は北の高き北極星1 武勇の邦ナデルフェト州へ など参照)
(第十三章 喉赤き燕の鳴く季節 イティレック大峡谷を越えて14 人狩り貴公子 上 及びイティレック大峡谷を越えて15 人狩り貴公子 下 参照-遭遇したノウシアイネン男爵世子ルヴァルドルの一団から逃げる時に巧みな乗馬を行っている)
これは祐司の乗馬技術の向上以上にハミの効果が発揮されたことによります。むしろハミを使用せずに祐司が曲がりなりにも乗馬が出来ていたのは、ドノバ候から賜った”二号”と名付けた馬が頭のいい優秀な馬だったからです。
注:リファニア騎兵
騎兵には大まかに重装騎兵(重騎兵)と軽装騎兵(軽騎兵)の別があります。重装騎兵は乗馬兵に堅固な甲冑を装備させた上に、馬もできるだけ防備を装着して槍を主要武器として騎馬の突破力を生かして集団で敵の戦列に攻撃をかけます。
代表的な重装騎兵はローマ帝国末期からビザンチン帝国で用いられたカタフラクト(甲冑に囲まれたという意味のギリシャ語)や、ヨーロッパ中世の騎士です。
この重装騎兵の突撃は防御側の志気が低ければあっという間に戦列に大穴があくほどの威力です。
しかし精強な軍勢であれば槍衾を押し立てた即興の馬防柵でこれに耐えたり、馬の突進を止めることで敵騎兵を集団で各個に討ち取るという対応策がありました。
また甲冑も自分が戦闘ができる限界の重さがあるので長弓などの威力ある投射兵器には射貫かれることもあり、戦機を見定めて投入しなければなりません。
ヨーロッパ中世の歩兵は騎兵の突撃に対抗できるだけの規律の取れた歩兵ではなく規律が低く寄せ集めの歩兵であったので、重装騎兵である騎士による突撃は大きな効果をあげていました。
特殊な重装騎兵に日本の平安時代半ばに登場した武士の乗馬戦闘の形態があります。かなりの重さの甲冑に身を包みながらも主な戦闘方法は弓でした。
見た目のきらびやかな重装騎兵は第一次世界初頭まではフランス軍などに存在しましたが、火器の発達は甲冑を無意味なものとしたために重装騎兵が活躍したのは実質的に十九世紀初頭のナポレオン戦争までです。
これに対して軽装騎兵はほとんど無防備か軽量の防具だけを使用した騎兵です。
歴史的には軽装騎兵が最初に騎兵として登場してきます。乗馬技術は中央アジアの遊牧民から発したと思われます。
この騎馬遊牧民は潜在的な軽装騎兵でした。彼等は遊牧生活の中で身につけた馬術を駆使して長躯敵の勢力圏深くまで侵入して弓騎兵として活動しました。
この威力は大きく紀元前から十六七世紀に火器が発達するまでは、ユーラシア大陸から北アフリカでは有力な勢力として君臨することができました。軽装騎兵の代表はモンゴル騎兵で彼等はユーラシア大陸の過半を征服しています。
軽装騎兵を複数の兵種を持った正規軍で効果的に使用したのはアレキサンドロス大王です。
アレキサンドロス大王は自らが率いる軽装騎兵で敵を圧迫して味方歩兵により殲滅させました。
戦術の変化や火器の発達でヨーロッパでは百年戦争あたりから重装騎兵は次第に戦場の主役ではなくなっていきます。しかし軽装騎兵は重装騎兵より命脈を保ちます。
また近代になってさらに戦術が進化して散兵戦術が現れてくると、この散兵を駆逐するには軽装騎兵は適した存在でした。
軽装騎兵は時に敵陣を突破したり混乱に陥れようという目的で集団で突撃する重装騎兵のような使用法をされたこともあり、そのような任務を持っているやや堅固な装備を施した軽装騎兵も存在します。
フランスのルイ14世が使用したハンガリー騎兵やポーランド・リトアニアのフサリア、ポーランドのウーランなどがこの例です。
ポーランドのウーランは1939年のドイツ軍のポーランド侵攻時に、ドイツ軍装甲部隊に突撃して潰滅しています。
またロシアの有名なコッサクも軽装騎兵ですが、1941年のドイツ軍のモスクワ侵攻ではドイツ軍に突撃を行った二個旅団が敵にほとんど損害を与えることなくほぼ全滅しています。
軽装騎兵の本領はその機動力を利用して敵の背後に回り込んで索敵を行ったり、敵の補給線を攻撃することです。
その際に掠奪なども行ったので軽装騎兵は無法者の集団といういう認識もあったようです。
19世紀後半に行われた南北戦争では南軍の軽装騎兵が活躍します。南軍の有名な騎兵指揮官にジェイムズ・スチュアート将軍がいます。
このスチュアート将軍の行動から軽装騎兵とはどのようなことに適した兵科であるかかがわかります。
スチュアート将軍は騎兵旅団(後に師団)を率いて北軍の後方を威力偵察を行って北軍を攪乱し物資を略奪します。
特筆する戦果としては1862年にカトレットステーションにおいて、北軍の指揮官ジョン・ポープ少将の作戦本部を占領して命令書を奪って南軍に貴重な情報をもたらしたことです。
ただし1863年の南北戦争の天王山となったゲティスバーグの戦いでは大きな失点をしてしまいます。
スチュアート将軍はかなりの自由裁量を与えられていましたが、リー将軍の本隊と連絡がつかないほどに離れてしまい、目と耳を失ったリー将軍の本隊は敵情不明なままゲティスバーグで戦闘を開始します。
南軍の集結が終わらないまま始まったゲティスバーグの戦いは南軍の敗北に終わります。
スチュアート将軍の行動だけが南軍の敗因ではありませんが、リー将軍が敵情と周囲の地形を調べられていたらリー将軍は史実とは別の選択肢をした可能性はあります。
1864年に南部の首都リッチモンド近郊でスチュアート将軍は戦死しますが、彼を射殺したのは北軍の騎兵(下馬していた)でした。
南北戦争の前半には縦横無尽の活動していたスチュアート将軍の騎兵部隊は戦争の後半になると活動を抑え込まれていきますが、これは北軍の騎兵が整備されてきたことによります。
機動力に優れた敵の騎兵を押さえ込むには同じ機動力を持った騎兵を当てることが一番の対処法です。
南北戦争後はアメリカ合衆国騎兵隊は西部地域において活動します。
日露戦争では200騎の永沼挺進隊が敵地600キロを突破して橋梁爆破を試みています。これは任務は達成出来ませんでしたがロシア軍は永沼挺進隊の兵力を誤認して騎兵団を含む3万の兵を後方警戒へ回させました。
これらの部隊は日露戦争最大の会戦となった奉天会戦へ参加できなくなり日本軍の勝利の要因の一つとなります。
騎兵の活躍の掉尾は1945年春の中国戦線です。
日本軍は湖北省老河口に設けられた飛行場の占領を企図します。一個戦車師団と二個歩兵師団の主力部隊で中国軍を圧迫して、日本陸軍に残った最後の騎兵部隊である騎兵第4旅団の機動力を利用して老河口飛行場を制圧するという老河口作戦(日本軍呼称はウ号作戦でインパール作戦と重複しています)です。
騎兵第4旅団は長躯敵勢力圏を突破して老河口飛行場を占領します。
自動車化部隊は路上での機動力は騎兵より圧倒的に大きな能力を発揮します。ただし燃料の補給がなければ一メートルたりとも動けませんし山間部や不整地は移動できません。
これに比べて騎兵は馬が通行できるなら道以外の場所も移動できます。馬は馬糧を与えなければその能力を発揮できませんし馬の健康面でも問題が出ますが、短期の作戦期間中なら「馬にはそのへんの草でも食わせておけ」でもなんとかなります。
何がなんでも前進しなければならない上に何が起こるかわからない戦場ではこれは大きな利点です。
老河口作戦は成功した作戦ですが、中国軍はより奥地に飛行場を整備して連合国軍の制空権を奪うことは出来ませんでした。
それでもアメリカ軍がマリアナ諸島を占領して日本本土へ空襲を行う前に老河口を占領したのならば、B-29の発進基地を大陸の奥地に封じ込めて日本本土の防空体制にかなり寄与できたかもしれません。
しかし四月十日の老河口の占領時には東京大空襲をはじめとして全国の主要都市が次々と灰燼に帰しており、日本の純領土である沖縄にアメリカ軍が上陸して守備隊を後退させている状況ではまったく大勢に影響のない作戦でした。
騎兵の戦術についてここまで詳しい話を祐司は伝えたワケではありませんが、リファニア王立軍はリファニアの騎兵を軽装騎兵として伝令と偵察、そして敵後方へ迂回させて敵の補給路を遮断したり、場合によっては直接敵本陣を攻撃する部隊と位置づけました。
リファニア王立軍が軽装騎兵を選択したのはリファニアの馬が持久力はあるが小型だということも理由です。
大きな重量に耐えながら疾走して敵に突っ込んでいくような戦闘にリファニアの馬は適していません。
戦場においてはリファニア軽装騎兵は敵戦列の横をすり抜けて敵後方を攪乱することが期待されました。
敵がこれを防ぐ為に戦列を延ばせば戦列が薄くなり味方は容易に突破出来るようになりますから、軽装騎兵の一隊がいるだけで敵に無理な陣形を強いることが出来ます。
注:フスの戦車
戦車は馬を繋いでその機動力を武器にした兵器ですが、戦史にはウォーワゴン(War wagon)と呼ばれる移動可能な簡易城塞といったものが登場します。
これは防備を固めた重量のある荷馬車のようなもので馬は繋いでおらず固定陣地として使用します。また連結すれば臨時の城壁となります。
紀元前の中国から記録に表れ始めて、ローマ軍も使用したようですし、文禄の役では朝鮮で加藤清正が使用しています。
この種の兵器で最も有名なものはフス戦争(1419〜1436)においてカトリック勢力に抵抗したカトリック改革派であるボヘミア(現チェコ)のフス派が使用したボゾバ ハラドバと呼ばれる戦車です。
本文では行商人のイライネル一行がイットク衆の襲撃にさいして同様の戦車で対抗しています。
(第十四章 ミツガシワの雫を払い行く旅路 祐司とパーヴォットの三叉路17 イットク衆 参照)




