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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第十七章 霜を踏みゆく旅路
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マルタンへの道程2  王宮の密議と騎兵誕生秘話 中

「モンデラーネ公が出てこなければ出てくるように仕向けるか?」


 王弟ビリロトがオラヴィ王の焦燥を察したかのように言った。


 オラヴィ王、王弟ビリロト、そしてオラヴィ王の庶兄で現在は王領キレナイト総督であるバッティルドルドは幼少の頃から一緒に育ってきたのでプライベートの場ではため口に近い状態である。

 現在は密議とはいえ公的な場ではあるが、ビリロトは話が重くならないようにあえて砕けた言い方をした。


 それに対してホシルタル子爵が状況説明を始めた。


「ドノバ防衛隊と名乗るドノバ候軍によるリヴォン・ノセ州リヴォン川東岸の平定が進んでいますが、モンデラーネ公はほとんど手を打っていません。

 どうもドノバ候と全面的にぶつかると泥沼に片足を突っ込んだような状態になると判断してリヴォン・ノセ州の北に位置するサバベール州が守られればいいと考えている節があります。


 モンデラーネ公の目的はホルメニアに侵攻して我等に圧力をかけて宰相位になりリファニアの政治を壟断するとともに王位を要求できる大公に叙任されることです。

 まったく方向違いのリヴォン・ノセ州に関わってドノバ候との泥沼のような長期戦に巻き込まれるのはモンデラーネ公が嫌うところです。


 これはモンデラーネ公の宮廷に入った間者からの報告ですが、少なくとも二回、モンデラーネ公は公的な席でサバベール州にはドノバ勢を一歩も入れるなと発言しております。


 またサバベール州南部のリヴォン・ノセ州隣接地域の城塞は強化しろとの命が出ており実際に工事が行われています。これは行商人と巡礼に偽装した間者からの報告で裏が取れています。


 ナデルフェト公爵とドノバ候からも同様の報告が来ています。彼等も活発に間者を動かしているようです」


 ドノバ防衛隊は”バナジューニの野の戦い”の後で成立したドノバ州の領主やシスネロスが供出した兵からなる合同防衛隊という看板を掲げててはいるが、ホシルタル子爵はその実体はドノバ候軍以外の何者でもないことを見抜いていた。

(第五章 ドノバの太陽、中央盆地の暮れない夏 第五章 ドノバの太陽、中央盆地の暮れない夏 参照)


オラヴィ王がいつものクセで左手で顎をさすりながらしゃべりだした。


「モンデラーネ公が少々意固地になってリヴォン・ノセ州に出てきてくれればこちらの負担も少なく、少しばかりドノバ候にも苦労をかけられたのだがな。

 ましてやナデルフェト公爵が存命の間はナデルフェト州方面に出てくることもないか。ミラングラスと謀ってロクシュナル・サルナ州へおびき出すか。

 ロクシュナル・サルナ州ならホルメニア北方へ進出することになるからモンデラーネ公も触手が動くだろう」


 ミラングラスはイティレック州とロクシュナル・サルナ州を統べるノヴェレサルナ女連合侯爵である。

 三年に渡って暗殺を避けるために狂気を装っていたが、領内のモンデラーネ公への内応者を摘発して処刑すると動員令を出してモンデラーネ公軍の侵攻に備えるとともに明確に王権派であることを宣言した。

(第十三章 喉赤き燕の鳴く季節 イティレック大峡谷を越えて7 ミラングラスの奇計と英断 三 参照)


 オラヴィ王は黒髪碧眼という見た目も珍しいミラングラスを個人的に評価していた。



挿絵(By みてみん)




「まだこちらが主導権を取ってモンデラーネ公軍を動かすのは危険と思います」


 王弟ビリロトがオラヴィ王を諫めた。オラヴィ王は「そうだな。一手を誤ってはまた振り出しだな」と呟いた。


「しかし漫然とモンデラーネ公軍が再建されるのを見ているのも下策かと」


 ホシルタル子爵がオラヴィ王の心情を察するように言った。


「支配地でもめ事を起こさせるか?」


 王弟ビリロトも話に乗ってきた。


「まだ計画段階ですので提出していませんが策は出来ています」


 実はホシルタル子爵には算段があり、配下のカラス組が謀の下準備をしており次回の密議で提案する予定だったが話の流れから今回持ち出すことにした。


「大まかにはどういった策だ」


 オラヴィ王が少し体を仰け反らして聞いた。


「収奪が厳しく住民の不満が大きなベムリーナ・ノセ州で一揆を扇動します。モンデラーネ公軍から逃れて抵抗しているベムリル党とはすでに誼を通じています。

 彼等は数百人という数ですが数カ所の代官所を襲撃して狼煙を上げます。武器と多少の人を送ればそう難しいことではありません」


 密議を行っている者達は事情を知っているが、この話には説明がいる。


 モンデラーネ公の支配地を大まかに二つに分ければモンデラーネ公の本拠地と家臣の封土が主体であるローゼン州、ローゼン=エラ州、デレット州、サバベール州とモンデラーネ公に降った外様とモンデラーネ公家の代官領からなるベムリーナ・ノセ州、ロクシュナル州、マレトラ州、リヴォン・ノセ州、ロクシュナル・サルナ州東端といった地域である。



挿絵(By みてみん)




 ただしロクシュナル州の西端はナデルフェト公爵の支援を受けた旧領主ロクシュナル伯爵家に奪回され、バナジューニの野の戦い以降はリヴォン・ノセ州南東部はドノバ州領主軍とドノバ防衛隊によって切り取られている。


 前者はモンデラーネ公にとって兵力の供給地で後者は食糧物資の供給地である。このため前者は年貢が低率で優遇され、後者は過酷な収奪が行われる。


 その中でベムリーナ・ノセ州はほぼベムリーナ山地の中にある州で住民は盆地や谷間の平坦地に居住している。

 またベムリーナ・ノセ州最南部はセネナステル子爵領が元の封土からは半分ほどに削られたが残置しておりいまだに独立勢力のままである。


 これはベムリーナ・ノセ州全土を併合してしまうと南のベムリーナ・サルナ州にあるレルスマイアー伯爵領に接してしまうためだ。


 レルスマイアー伯爵家はリファニア王家の直参ではないが、江戸時代でいえば譜代といった家でありその封土は準王領と認識されている。

 モンデラーネ公にはまだ王家に本格的に実力行使をする気はなかった。そこで紛争の原因となるレルスマイアー伯爵領に接することを避けていた。


 ベムリーナ・ノセ州は十五年前にほぼ全土をモンデラーネ公軍に蹂躙されて、領主領は名目的なものさえ全土の三分の一しか残っていない支配下の州の中でもモンデラーネ公直轄領が多い州である。


 これは山岳部の小領主にはままある傾向だが、天然の要害を頼んで侵略者には敢然と立ち向かったために七家の貴族領主のうち五家、四つの貴族格領主のうち三つが一族根絶やしに近い形で滅亡してしまったからだ。


 残った領主も統治をモンデラーネ公に委託するという名目でモンデラーネ公軍が領内に駐留して軍政を行う形になって名ばかり領主に成り下がっている。


 最後まで抵抗したためにモンデラーネ公軍によって滅亡した領主にベムリル男爵家がある。


 ベムリル男爵家の残党は滅亡当時の当主の甥を押し立ててベムリーナ山地でいまだに勢力を保持している。

 この勢力をベムリム党といい王家から運ばれた物資がレルスマイアー伯爵領とセネナステル子爵領を通じて密かに持ち込まれており、モンデラーネ公の年貢徴発隊などを時々襲撃して気の長いゲリラ戦を展開している。


 王家からすればベムリル党を支援することで、それなりのモンデラーネ公軍を誘引できるというメリットがあった。

 それを大規模な一揆の先頭としてベムリル党を押し立てれば、モンデラーネ公軍は是が非でもベムリム党を潰滅させようと大軍を動員するであろうから、ベムリム党はレルスマイアー伯爵領やセネナステル子爵領に逃亡せざるを得なくなる。


 ただ一揆鎮圧とベムリル党討伐のために正規軍から機動兵力を振り向ければそれだけ機動兵力の再建の足を引っ張る。

 本来なら敵正規軍を撃破するための正規機動兵力は命令一下戦列を組んで歩調を合わせての陣形運動をしなければならず、そのために相応の習熟期間がいる。


 一揆鎮圧や山岳部に逃げ込んだ小勢の討伐には戦列を組むような場面はなく、こちらも軍勢を分割して山野を駆け巡るような戦い方をしなければならない。

 むろんその間は本来の訓練は出来ず、兵士には疲労感が溜まっていくばかりとなる益の少ない戦いである。

 


「苦し紛れの一揆などすぐに鎮圧されるぞ。まあ農民に酷い処罰をすれば非道なモンデラーネ公という汚名を着せることができるがモンデラーネ公支配下で活動するペムリル党という足がかりを無くすにしては成果が小さくはないか」


 オラヴィ王は小首を傾げながら言った。それに対してホシルタル子爵はすぐに説明を続けた。

 オラヴィ王にとってベムリーナ・ノセ州の農民とベムリル党は手駒にしか過ぎないが、自分を頼るモノは邪険にせず見捨てもしないという姿勢を崩すつもりもなかった。


「一揆は最初だけです。一揆を起こすのはモンデラーネ公軍を誘引するためです。そして一揆を起こした以上は農民に覚悟をさせるのです。

 目的は逃散ちょうさんです。州の人口は十四万でモンデラーネ公支配地の人口は十一万ですが十万を目標に最低でも七万の農民をロクシュナル・サルナ州へ逃します。

 ベムリーナ・ノセ州とロクシュナル・サルナ州南部の山岳地帯を逃亡経路にしますので悪くても八割は逃げ切れると思えます。逃走路には食料などを置きます。


 そのためにロクシュナル・サルナ州へは逃げてきた農民がしばらく食いつなぐ食い扶持を送る必要があります」

*話末注あり


「それが実現したらリファニアの歴史に残る大逃散になるが、王家から食い扶持を送ったとしても領地に逃亡農民が押し寄せることになるミラングラスは渋い顔をするだろうな。本当ならラルヴェリーナの持参金代わりに逃亡農民はドノバ州へ送ってやりたいところだ」


 オラヴィ王は「貴公はいつも奇抜なことを思いつくな」と微笑みながら言ってから感想めいたことを口にした。


 ラルヴェリーナはオラヴィ王の妹のラルヴェリーナ女王のことである。


 オラヴィ王が逃亡農民をドノバ州に送ってラルヴェリーナ王女の持参金代わりにしたいと言ったのは、七月にドノバ候の名代として家老グリフード男爵が王都を訪れて次代ドノバ候は長子のエーリーではなく次子ロムニスにしたい旨と、是非にオラヴィ王の妹にあたるラルヴェリーナ王女をロムニスに嫁がせて欲しいと伝えたことを指している。


 ドノバ候にとって長子エーリーを動きにくいドノバ候ではなくシスネロス総督に任命してその妃であるリューディナとともに権謀術数を行い易くさせ、手堅い政治を行うだろう次子ロムニスをドノバ候にするのは秘策中の秘策であった。


 ドノバ候はすでにオラヴィ王に次期当主に似合った王女の婚礼を望んでオラヴィ王の承諾を得ていた。

 オラヴィ王は長子エーリーがすでに僭称ドノバ候にして現ヤルデンゼル子爵の娘リューディナを妃にしているので、王家から降嫁させる王女は今年生まれたミルカレーナ王女であり、相手はエーリーとリューディナの子だと決めつけていた。


 大州ドノバ州の太守で王権派であることを明確にしたドノバ候へ王女を降嫁させるのは自然なことであるが、オラヴィ王の末の娘を降嫁させれば次期リファニア王ディファスと次々代ドノバ候は次代リファニア王の義理の弟となる。


 ところが次代ドノバ候へオラヴィ王の妹であるラルヴェリーナ王女を降嫁させれば、オラヴィ王の長子である次代リファニア王ディファスはドノバ候妃からみて甥になる。

 リファニア社会は一族内の年長の功を重視するので、次代リファニア王は次代ドノバ候を「叔父上」と呼んでそれなりに尊重しなければならない。


 絶対に王権派として取り込まなければならないドノバ候へは王女の降嫁を約束している以上妹のラルヴェリーナ王女を与えないワケにはいかないので、オラヴィ王としてはしてやられたりという気持が強い。

(第十一章 冬神スカジナの黄昏 閑話その27 王宮と王族 付録:ラトゥシュニアの女子学堂 参照)



挿絵(By みてみん)




「まあ、これでいざという時に王立軍が駆けつけると言えばミラングラスは嫌とは言うことはあるまい。また世子ラファエルドルに王家の嫁を与えると言えば渋い顔も自然と微笑むだろ」


 オラヴィ王はそう言ってから喉の奥で笑うような音を出した。これは滅多なことでは見せないがオラヴィ王が意趣返しを思いついた時にする仕草である。


「王家の嫁と言いますと、メルナリバですか。まあそろそろ結婚相手が決まるのではと覚悟はしていましたが」


 王弟ビリロトがやや苦笑したような顔で言った。


 ラファエルドルは今年十五歳(満年齢は十四歳)なので、その年齢にあう王家の王女令嬢を頭に浮かべて王弟ビリロトは聞いた。メルナリバは今年十一歳になるビリロトの長女である。

 マルナリバは王の姪ではあるが一度オラヴィ王の養女という形にして嫁がせれば地方の大貴族の嫁としては十分に満足できる花嫁である。


「違うルベィだ」


 オラヴィ王はとんでもない名を出してきた。ルベィとはオラヴィ王の長女ルベルティナレ王女のことである。

 オラヴィ王がルベルティナレ王女をいたく可愛がっていることは王都貴族や王家に近い地方貴族なら誰でも知っている。


 オラヴィ王の妹ラルヴェリーナ王女と並んで、ルベルティナレ王女は王家から嫁ぐとすれば最高の妃である。

 王家の人々や王都の貴族はオラヴィ王はルベルティナレ王女を王妃を出せる四大公爵家に嫁がせるだろうと思っていた。


 リファニア王室では貴族の格付けを四大公爵家、三ないし四家ある時の家老職の家、そして地方有力貴族となっており、地方貴族の第一はドノバ侯爵家、第二はナデルフェト公爵家、第三は一州かそれに近い領地を有するその他の公爵と侯爵家、第四に戦功のあった貴族家としている。


 一般に庶子を含めてリファニア王の姉妹と娘が嫁ぐのはこの範囲までである。


 ドノバ侯家には平均して二代に一人は王家から妃が嫁いでいるので、かなり王家の血の濃い家柄である。

 ただし現ドノバ侯家は五十年前のドノバ内戦で分家からドノバ宗家にとってかわったために三代に渡って王家の王女から妃を得ていない。


 そうした意味からも是非にドノバ侯家には王女を降嫁させる必要があったのだが、王家から見ればドノバ侯は狡猾な手段を講じてオラヴィ王の妹という最高に価値がある王女であるラルヴェリーナ王女をもぎ取っていった。


 そこで大貴族には違いないが家柄からは二流と見られるノヴェレサルナ連合侯爵家にオラヴィ王の愛娘ルベルティナレを降嫁させることで、ドノバ侯に王家はノヴェレサルナ連合侯爵家もドノバ侯家と同等な対応をしているので努々(ゆめゆめ)つけあがるなというドノバ侯へのオラヴィ王の意志表示になる。     



「ルベルティナレですか」


 ドルトナン伯爵とホルシスタル子爵が顔を見合わすばかりで何も言わないので、王弟ビリロトが聞き間違いではないかという感じで声を出した。


「わたしはミラングラスの世子ラファエルドルを高く買っている。まだ子供だが大器という風格がすでに読み取れる。調べさせたが学んでいた王都の学堂でも学堂長が太鼓判を押すほどの有能者だ。


 王太子ディファスとも親しい間柄だ。ラファエルドルはディファスの股肱の臣となるだろう。ルベィも何度かラファエルドルに会っているがいたく懐いておった。

 そして会うたびに今度はいつラファエルドルが来るのかと聞いておった。あのルベィがだぞ」


 オラヴィ王は深く感じ入ったような口調で言った。


 ルベルティナレ王女は公的な場では僅か八歳(満年齢七歳)でありながら、王女の気品が溢れ周囲を高貴な女性に囲まれながらも際立った存在である。また幼い身ながら聞く者をして畏敬させるような声を出す。


 ところが私的な場ではルベルティナレ王女は人見知りの激しい少女だった。


 家族以外では祖父母のドルトナン伯爵とその妃ぐらいしかまともに顔を対面させて話すのも避けるといった感じだったが、このことは王家、それも私的空間を知っているごく一部の者しか知らないことでもあった。


 そのルベルティナレ王女が見ず知らずの他人、それも異性に懐くとは彼女の日常を知っている者からすれば驚くべき事である。


「しかしルベルティナレは陛下のお気に入りゆえてっきり王都貴族に降嫁させて手元に置くものとばかり」


 ドルトナン伯爵が一息入れてから言った。ドルトナン伯爵からすればルベルティナレ王女は孫なので公式の以外ではよく呼び捨てにしてしまう。



挿絵(By みてみん)




「ルベィを滅多に会えぬ遠方にやる気はない。ラファエルドルが王都に来て暮らせばいい」


 このオラヴィ王の言葉は現実になり、またオラヴィ王の人を見る目は常人を越えたモノであることが改めて証明される。


 ノヴェレサルナ侯爵となったラファエルドルは、次代ナデルフェト公ホルトル・カスカエドの長子ムデガ・ノアトクミックを妹インジシュリナルの入り婿に迎えて北隣のナデルフェト公爵家との誼を深めイティレック州とロクシュナル・サルナ州、および切り取りが認められたデレット州の二郡の統治は形式的にはインジシュリナル、実質的にはムデガ・ノアトクミックが行うという形にした。


 入り婿になったムデガ・ノアトクミックに実質的な面で与えられた報酬はデレット州二郡の領主としてデレット・サルナ伯爵を叙任されたことである。

 ノヴェレサルナ侯爵位は王都暮らしのラファエルドル侯爵と候妃ルベルティナレが継ぐことになるが、ムデガ・ノアトクミックとインジシュリナルとの間の子も叙任されて領主貴族の中では中規模から大規模の中間ほどの封土を与えられるとなると不満はない。


 江戸時代でいえばノヴェレサルナ侯爵家が本藩、デレット・サルナ伯爵家が支藩ということになる。


 インジシュリナルは幼い頃に暗殺者の刃でたすき掛けの傷を背中に受けながらも、気丈にも泣き叫ぶこと無く部屋から出て「曲者じゃ」と衛兵を呼び込んだことで同時に襲撃された母親ミラングラスと家老グルコワルドの命を救った。

(第十三章 喉赤き燕の鳴く季節 イティレック大峡谷を越えて2 アゲルデル城の吊り天井と刺客兄弟 参照)


 ただ成人してからもインジシュリナルの背中の傷は残ったが、尚武の気質が強いリファニアの中でもさらに武勇を尊ぶナデルフェト州から来た婿のムデガ・ノアトクミックはインジシュリナルと同衾する度に「豪胆な印が背中についた女を我妻にすることができた」とご満悦だった。


 なにしろナデルフェト州は武芸の鍛錬で顔に傷がついた女性が花嫁として尊ばれる土地柄であるから大きな刀傷がある女性が妻であることは男性として大いに自尊心がくすぐられる。



 モンデラーネ公の支配地は九つの州に及ぶがリファニア王家がモンデラーネ公爵家の統治地域として公認しているのはローゼン州とローゼン・エラ州の二州に過ぎない。

 このためノヴェレサルナ侯爵家は歴史的にも三州にまたがる地域の統治をリファニア王から公式に認められた唯一のリファニア貴族家となる。


 ラファエルドルはノヴェレサルナ侯爵でありながら王都に常駐して次代リファニア王ディファスの最も信頼の厚い家臣そして友人となる。


 そしてラファエルドルは数百年間空席だったリファニア王国宰相に任じられてディファス王と二人三脚でリファニア王国に新たな黄金期をもたらすことになるが、これは祐司とパーヴォットの冒険譚とは直接関係のない話である。


 現時点で見ると一時的にベムリーナ・ノセ州からの逃亡農民を保護して負担を被っても、王家から現王の愛娘が嫁いでくるとなるとノヴェレサルナ女連合侯爵ミラングラスは政治的に大きな加点を得たことになる。


 オラヴィ王がミラングラスが渋い顔から微笑むだろうと言ったのはこうした理由による。


「ロクシュナル・サルナ州南西部は沃野でありながらいまだに人は疎らでかなりの入植者を受け入れることができます。

 個々で逃亡すれば今までの共同体は破壊されて一から見知らぬ他人と再建しなければなりませんが村ごとの逃散であればすぐにでも共同して新しい村を立ち上げることができます。


 そういった者達を入植させれば数年でロクシュナル・サルナ州の力となります。また一割程度はキレナイトへの移民を希望すると算段しております。


 次の密議には詳しい計画書を提出いたします」


 ホシルタル子爵は一度口にした以上は何がなんでも万難を排しまた考えられる全ての不都合を考慮して、ベムリーナ・ノセ州の農民の大逃散を成功させねばという気持になっていた。


 ベムリーナ・ノセ州はベムリーナ山地の山間州である。そのために郡は主な盆地ごとに三郡で構成されて四国の面積に匹敵する一万三千平方キロほどの広さがありながら人口面では十四万という小規模な州である。


 その十四万のうちモンデラーネ公の支配が及んでいない最南部のセネナステル子爵領の人口が二万五千で残りの十一万五千のうち計画では十万、最低でも八万を州外に逃そうというのであるから、リファニアの歴史どころか祐司の世界でも聞いたことがない敵地の住民を奪い取ってしまおうという奇想天外でかつ大胆不敵な作戦である。


 これが成功すればベムリーナ・ノセ州はモンデラーネ公軍を支える収奪地としてどころか軍勢を進めるための進撃路としても使い勝手の悪い地域となる。


 これは王都のあるホルメニアに最も近いのがベムリーナ・ノセ州であることから、モンデラーネ公の野望であるいずれホルメニアにモンデラーネ公軍の武威で圧力をかけるための橋頭堡を大いに毀損するということである。


 それどころかほぼ無人の地となるベムリーナ・ノセ州を維持できる程度の少数の兵力だけで放置すれば、モンデラーネ公支配地南端の”柔らかい下腹”どころか”むきだしの股間”というような状況になるために、それを防ごうと思えば収奪できる物資の数倍以上の物資をつぎ込んで相応な守備兵力を展開しなければならない。



「結局は無理そうなら無理でいい。わたしの我が儘の為に投機性の高いことはしたくない。ただ実施するための下準備は始めておいてくれ」


 オラヴィ王は隠忍の時期が長かったために状況に合わせて柔軟に計画を進めようという傾向があるので「無理なら無理と言え」というフレーズをよく使うが、ドルトナン伯爵らがオラヴィ王の口調から読み取ったのは実行するために万全の方策を行えという意思だった。



注:逃散ちょうさん

 逃散は一揆ほど有名ではありませんが、日本史において農民が領主勢力に抵抗する有力な手段でした。

 早くも平安時代にはこうした事例が出始めて荘園の農民が集団で逃亡して不当な年貢の不払いや代官の交代などを要求しました。


 農民のストライキといった形態です。


 荘園主も農民がいての荘園ですから逃散は有効な抵抗手段でした。逃散の解決には問題化している年貢以外が全て納められていることが条件で起請文きしょうもんが作成されてようやく帰村ということになります。

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