サヴォンリンナ神殿への道行き38 ”白狼城”の霧 五 -バーリフェルト男爵家の隘路④ 王都貴族化-
バーリフェルト男爵家とダゴル城包囲軍はトランテオン僭称王という長蛇を逃した。
しかしそれを悔やむ以上にトランテオン僭称王軍に従軍してダゴル城包囲を行っていたバルトニチェク男爵ケラバ・ハスフェルドル以下の五人の貴族領主は大きな決断を迫られていた。
トランテオン僭称王軍が総崩れになり、その敗残兵とマルナガン王の追撃部隊は今日中にでもバーリフェルト男爵家領に押し寄せるという切羽詰まった段階で自家を生き延びさせるために五人の貴族両者達はバーリフェルト男爵家に降りその傘下になるという奇策に出た。
三百年前のバーリフェルト男爵家当主クレンカ・キオスティドはマルナガン王支持という旗幟をあきらかにしてトランテオン僭称王軍を目の前にして籠城した。
そのバーリフェルト男爵家の陰に隠れてマルナガン王への”返り忠”を包囲軍のバルトニチェク男爵ケラバ・ハスフェルドルらは行う決意だった。
ベムリーナ山地の街道上の領主として当時のバーリフェルト男爵家は比較的大きいがそれでも江戸時代の日本でいえば一万石をやや超える程度の領主である。
*現在のバーリフェルト盆地は開発が徐々に進んで一万五千石程度の生産量
ダゴル城に籠城していた兵力は農民兵を含めても七百ほどである。
そこへおそらく万余という必死に逃げようとする敗残兵が押し寄せる。これを討ち取ったり捕らえたりしたくとも如何にも寡少な人数である。
しかし包囲軍の千弱を加えればマルナガン王軍の追撃部隊が来るまでに、分散しているであろう敗残兵のすべての相手は出来なくとも名のありそうな者達を狙い撃ちにして討ち取り捕らえることは出来そうである。
そして敗残兵達は包囲軍がバーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドの指揮下に入って寝返ったことを知らない。
バーリフェルト男爵家軍、包囲軍が簡単な打ち合わせをして配置についた。
ただ配置後にすぐに姿を見せだした敗残兵はかなり大きな集団になっていた。これは”グラニダニの戦い”で敗北してバーリフェルト男爵家領に至るまでに三つの領主領を通過しなければならないが、いずれの家も農民まで動員して落ち武者狩りを行った。
最初は少人数、あるいは単身で敗走していた敗残兵達は家中の違いを超えて集団で行動するようになった。
そういった集団に名の知れたかつ有能な指揮官がいると、烏合の衆とはいえそれなりに侮りがたい集団になった。
そうした半ば死に物狂いの集団に関しては街道付近の集落が襲撃されないように牽制する程度で、すぐに先に進ませろという命令がバーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドから出た。
そして狙いは同じ大きな集団でも貴族家当主や世子、高位指揮官がいる集団だった。
グラニダニ東方の街道上で縦列状態になって配置されていた貴族領主軍は、先頭から隊列の半ばまではほぼ壊滅状態でそこからは単身か少人数になった者達しか後方へ逃れることは出来なかったので、集団としての戦闘力は全く無くなっていた。
ただ後方にいた貴族家軍のうち後退の決断を早めにした家は脱落者を出しながらも組織を維持して敗走した。
そうした集団は旗印を掲げていた。旗印は重要人物がいることを周囲に知らせてしまうが、集団の結束維持、また脱落した家中の者を呼び寄せる働きがあった。
旗印が掲げられている限りは敗走ではあっても、自分達は再起の爲に一時撤退しているだけという気持ちになれた。
バーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドはこうした集団で手におえそうなモノを狙うことにしたのだ。
この結果、五月二十三日の早朝から午後遅くにかけて、三家の貴族家当主、二家の家老が率いる集団をほぼその集団ごと捕縛することが出来た。
そして遂に七刻半(午後五時)頃にマルナガン王軍の追撃隊がバーリフェルト男爵家領に入って来た。
この時は”グラニダの戦い”で討ち死にしたスロヴァク子爵シブネイ・ゲオルドルドの世子が率いる三百人ほどの軍勢と、約八百のバーリフェルト男爵家軍と包囲軍の合同軍が睨み合っている状態だった。
スロヴァク子爵シブネイ・ゲオルドルドはトランテオン僭称王を擁立した南部四大貴族の一つですでに老将という年齢であった。
スロヴァク子爵シブネイ・ゲオルドルドは世子パルヴァン・セルデストを逃すために、マルナガン王軍に手勢を率いて突っ込んで時間を稼いだ。
その爲に比較的後方にいて逃げられたかもしれないスロヴァク子爵シブネイ・ゲオルドルドは討ち取られてしまった。
世子パルヴァン・セルデストとそれに同行したスロヴァク子爵家の家臣達はスロヴァク子爵シブネイ・ゲオルドルドの生死については知らなかったが、当主自らが時間稼ぎをしてくれたのであるから何としてでも領地に辿り着いてその意思を生かしたかった。
しかしバーリフェルト男爵家領に入ると街道に臨戦態勢になった軍勢が展開しており、先に進めなくなった。
ただバーリフェルト男爵家軍と包囲軍も生死を賭けた一戦を今更行う気はなく、防備を固めて世子パルヴァン・セルデストの軍勢の前に立ち塞がるばかりで攻撃しようとはしなかった。
世子パルヴァン・セルデストの軍勢にしてもまる一日半ほとんど飲まず食わずで移動してきていた。
それもほぼ武装を解かずという状態で立っているのも辛く感じるほどに疲労困憊していた。
それまで無理をしてバーリフェルト男爵家領を目指したのは、ダゴル城包囲軍から食糧を得られて少しばかり休息できると思っていたからだ。
ところが包囲軍はマルナガン王側に寝返りバーリフェルト男爵家の指揮下になっているという状況で世子パルヴァン・セルデストの軍勢は体力以上に精神的な打撃を受けていた。
ただ心は完全には折れておらず、決死の覚悟で前方のバーリフェルト男爵勢と世子パルヴァン・セルデストの軍勢からすれば裏切り者の包囲軍を突破してどのような犠牲が出ても世子パルヴァン・セルデスト脱出の血路を切り開いて東に進むつもりだった。
ただ一戦するにもしばらく休んで少しばかりでも体力が戻ってくるの待つ必要があった。
この世子パルヴァン・セルデストの軍勢の様子に、バーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドは「彼等は死兵です。突っ込んできた道をあけて横合いから少しでもこちらが傷つかない程度に攻撃しましょう。それで逃げられても仕方ありません。まだベムリーナ山地を出るまでには長い。この先の領主領で討ち取られるでしょうがそれもよしといたしましょう。ただ巫術師達に交代で”雷”を撃ち込ませましょう。相手の巫術師が体力が尽きて”屋根”が展開できなくなるかもしれません。そうなれば一網打尽です」と言ってよき敵とばかりに勇んでいる包囲軍の領主隊を納得させた。
バーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドの命令で散発的だが世子パルヴァン・セルデストの軍勢には巫術師によって”雷”が撃ち込まれた。
一刻(二時間)ばかり”雷”の攻撃の中で睨み合いが続いていた。しかしバーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドの言ったように世子パルヴァン・セルデストの軍勢には二人しか巫術師がおらず軍勢全体に”屋根”をかけ続けることで次第に限界に近づいていた。
世子パルヴァン・セルデストは味方の過半が討ち取られる覚悟で突破するかという決断を迫られる中でとうとうマルナガン王軍追撃隊の先鋒がバーリフェルト男爵家領に入って来たのだ。
この先鋒隊はベムリーナ山地西側の貴族領主家軍から構成されていた。マルナガン王軍が通過してきたベムリーナ山地西側の領主は兵糧の供給やその他の便宜をマルナガン王軍に図っていたが自家から兵を出すことは種々の理由をつけて断っていた。
ところが五月二十日にマルナガン王軍が圧倒的に有利な陣形で、トランテオン僭称王軍と接触しているという情報が伝わると次々に軍勢を送り込んできたのだ。
この軍勢は”グラニダニの戦い”には間に合わなかったが、マルナガン王は追撃の先鋒を命じていた。
”グラニダニの戦い”で大勢が決した以上は、マルナガン王の憶えをよくするためにはこれらの貴族領主軍は必死に追撃を行うだろうという算段がマルナガン王にはあった。
そして”グラニダニの戦い”に参加した軍勢は一日の休息を与えてから追撃そして当初の予定通りに南部への侵攻のために動き出した。
もし”グラニダニの戦い”ですでに大きな勲功を挙げているマルナガン王軍本隊なら世子パルヴァン・セルデストの軍勢に名誉ある投降を呼びかけるという余裕を持って臨んだだろう。
ただまだ何の勲功を挙げていないベムリーナ山地西側の領主軍は、スロヴァク子爵家の旗印を見て「望外の敵だ」とばかりに巫術師達に”雷”を連続的に撃ち込ませた。
これには世子パルヴァン・セルデストの軍勢の巫術師は耐えることが出来ずに、とうとう幾つかの”雷”が世子パルヴァン・セルデストの軍勢を直撃しだした。
世子パルヴァン・セルデストの軍勢の家臣や兵士達は一か八かで自軍の三倍以上のベムリーナ山地西側の領主軍に吶喊する姿勢を見せた。
その時に目にもまばゆい緋色の陣羽織を着用した若者はその前に走り出て制止した。
そしてベムリーナ山地西側の領主軍に向かって「攻撃を止められよ。わたしはスロヴァク子爵家の世子パルヴァン・セルデストである」と言って剣を後に投げ捨てた。剣を前に投げたのなら決闘の申し込みだが横や後に投げた場合は投降の意志を表したことになる。
世子パルヴァン・セルデストの堂々とした態度にベムリーナ山地西側の領主軍の攻撃がやんだ。
すると世子パルヴァン・セルデストは「わたしは貴方方に捕まろう。どうか家臣や兵士の命を奪わずに名誉を守って接して欲しい」と辺りを威武するような声を上げた。
スロヴァク子爵シブネイ・ゲオルドルドの世子パルヴァン・セルデストからすると、寝返りをした包囲軍へ降るよりはマルナガン王に編入されたベムリーナ山地西側の領主軍に降ることを選んだのだ。
ベムリーナ山地西側の領主軍の長らしき武将姿の男が世子パルヴァン・セルデストの方へ歩み出てくると「承知した。全員武器を置いて手を頭の後で組むように指示されよ」と言った。
世子パルヴァン・セルデストは振り返ると「言われたようにしろ」と怒鳴る。
世子パルヴァン・セルデストの軍勢がその名に従うとベムリーナ山地西側の貴族領主軍は一斉に走り寄って世子パルヴァン・セルデストの軍勢の家臣兵士を後ろ手に縛り上げた。
そして世子パルヴァン・セルデストも同じように縛り上げ時に、バーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドが数名の家臣を伴ってその場にやって来た。
バーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドは「勇気ある行動をした貴人に縄目の恥辱を与えるな」とベムリーナ山地西側の領主軍の兵士達を一喝した。
その威圧に気圧されて兵士が縄目を解くと、バーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドは世子パルヴァン・セルデストが自ら背後に投げ捨てた剣を軽く頭を下げながら彼に渡した。
この行動は後でマルナガン王が世子パルヴァン・セルデストに形式的な尋問した時に、世子パルヴァン・セルデストが「バーリフェルト男爵クレンカ・キオスティド殿にわたしが礼を言っていたと伝えて下さい」と言ったことでマルナガン王が知ることになり、バーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドは大いに面目をほどこすことになる。
一刻(二時間)ほどしてマルナガン王軍本隊が到着すると、ベムリーナ山地西側の領主軍は捕虜を引き渡して兵糧の補給を受けるとさらによき敵を求めて足早に東に向かった。
翌日にマルナガン王直卒の近衛隊がバーリフェルト男爵家領に到着した。
バーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドはダゴル城の主郭を引き払ってマルナガン王の爲に空けた
バーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドは早速マルナガン王に謁見をしたが、心なしか顔色が悪いのが気になった。
実はマルナガン王は”グラニダニの戦い”の終盤で敵兵に深くはないが下腹部に槍傷を負わされていた。
マルナガン王は一時人事不省になったが翌日にはゆっくりとだが動けるまでに回復した。ただ数日は安静にしておくべきだったが、軍の志気が下がることを懸念して従軍を続けていた。
この傷が原因で一年後にマルナガン王は崩御するが、そのことは神々ならぬバーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドの知るところではなかった。
マルナガン王はダゴル城に三日留まって傷を癒やしながらそれまでの働きによる論功行賞を行った。
閑話となるが祐司とパーヴォットが廃城同然となっていたダゴル城に宿泊したさいに寝室として使用した部屋はマルナガン王も寝室とした部屋である。
このことを祐司とパーヴォットが知っていればかなり異なった感覚で、ダゴル城の一夜を過ごしただろう。
(第七章 ベムリーナ山地、残照の中の道行き 虹の里、領主領バーリフェルト7 祐司、虎の尾となる 上 参照)
バーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドはトランテオン僭称王擁立軍の圧力に屈せず寡兵ながら抵抗してとしてリファニアの畿内ともいえるホルメニア内に新たな封土を与えると約束された。
”返り忠”を狙ってバーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドと結んだ包囲軍のバルトニチェク男爵ケラバ・ハスフェルドルら五家は封土安堵を約束する見返りに南部平定の道案相役としてマルナガン王軍の指揮下に入るように命じられた。
バルトニチェク男爵ケラバ・ハスフェルドルらは罰則がなくまたこれかの働きで恩書も期待が出来ると一応に安堵した。
この年の暮れにバーリフェルト男爵家はマルナガン王の約束通りにホルメニア内に江戸時代でいえば六千石ほどの新たな封土を与えられた。
さらに名目的だがバーリフェルト男爵クレンカ・キオスティドは先祖の何人かが与えられたベムリーナ・サルナ州の太守代に任じられた。これでバーリフェルト男爵家は王家の準直参という立場になった。
この二百年後のバーリフェルト男爵ハヤル・ヴァレリヤノは大きな決断をする。ちなみにハヤル・ヴァレリヤノは現バーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・レイナウトの曾祖父に当たる。
バーリフェルト男爵家の本拠地バーリフェルト盆地を離れて、王都に居を移してバーリフェルト男爵家を王家直参として認めてもらうという決断をしたのだ。
当時のリファニア王は第六十六代リファニア王ハウサスである。
後世から見ればハウサス王の前後が最もリファニア王家の勢力権威が低下した時代であった。
ハウサス王は跡取りが確保されると全土を旅した。リファニア六十州のうち四十五州にハウサス王は足跡を残している。
リファニアの州のうち七州はヘロタイニア人勢力下にあるかその脅威が及んでいる州なので行ける州はほぼ訪れたということになる。
この為にハウサス王の別名は漫遊王である。
歴代リファニア王の中で最も力のないハウサス王が王都を離れて外遊できたのはその力のなさ故であるが、ただ力はなくとも貴族を叙任する権限はリファニア王にしかない。
そのためにハウサス王が訪れた領主領では土地の領主が後のことを考えて、それなりの対応をして叙任を望む領主は物品や人手を送って供応した。
そのハウサス王はバーリフェルト盆地を通過する時はダゴル城で三泊した。
この時、バーリフェルト男爵ハヤル・ヴァレリヤノはかなり長時間に渡って、ハウサス王と懇談したと伝わっている。
そしてその数ヶ月に渡りバーリフェルト男爵ハヤル・ヴァレリヤノは親戚衆や家臣に根回しをして説得に説得を重ねてハウサス王に仕官を願い出た。
元来の王都貴族は三種類ある。
第一は王族が臣下に降り貴族に叙任されたことで始まった家である。代表格は王妃を出せる準王族ともいえる四大公爵家である。
(第七章 ベムリーナ山地、残照の中の道行き ベムリーナ山地の秋霖5 史実グラニダニの戦い 下 参照)
特定の王から五代までが王族で一応は王位継承権がある。ただ四代目・五代目となると親が有力な武将や王家で高位高官に任じられてその七光りを受けない限りは十部屋ほどの屋敷を拝領しているが体面の爲に数名の使用人をようやく抱えるほどの王族費しか支給されず六代目からは郷士階級として王家に仕官するか、聖職者、医師などの旧王族の体面を保てる仕事を目指すことになる。
こうした王族の中で貴族に叙任される二代目、まれに三代目までで王位を狙えてなおかつ有能で人望がある者に限られる。
一度、リファニア王から貴族に叙任されると臣下に降ったことになり、王族としての身分は消滅する。
それでも子孫は貴族家として伝わっていくことになる。六代目になって一介の家臣か市井にまぎれていくことを考えると臣下に降るのも悪いことではない。
しかし現実的には叙任され貴族家を創家しようという者はほとんどいない。それは二代目、三代目はまだ即位の可能性が低いが現実的にはある爲である。
初代ホーコン王以来、少なくとも五代目リブラレル王からは千数百年に渡って傍系で継いだことは複数回起こったにせよ王族以外の者がリファニア王として即位したことはない。
この為にリファニア王という存在へのリファニア人の認識は或る意味日本の天皇に対する認識に似たところがある。
日本で天皇に即位するのは皇族だけである。
皇族以外の者が天皇と名乗っても誰も天皇と見なさないし、事実、天皇になろうとした権力者はいない。
*平将門は新皇を名乗るが将門は桓武天皇から四代目である。
これはリファニアも同じでどんなに権力があってもリファニア王にはなれなし、またなろうとういう発想が出てこない。
そうした中で王族のみがリファニア王を目指すことが出来る。その爲に王族の二代目、三代目が臣下に降るという決断をすることは難しい。
さらに王族で叙任される者はそれなりに能力が高く政治力がある上に、野心があると見抜かれている場合でなおかつ時のリファニア王が自分の直系の子や孫に王位を継承させたいが夢見の悪いことはしたくないと思ったという条件がつく。
また三代目くらいまでなら地方貴族が周囲の対面の爲に婿として迎えてくれる場合がある。
王族が地方貴族の婿になれば狭い範囲だが、誰もが敬意を払ってくれる存在になるのでその道を選ぶ者もそれなりにいる。
このことから実は王族系の貴族家は四大公爵家を含めて十一家しかない。爵位はほとんどが侯爵で伯爵以下は敬意を払う必要がある。
そしてこの王族系貴族は封土はささやかであるが、自尊心は極めて高く慣習礼儀作法にうるさいので他の王都貴族からも煙たがられる存在である。
第二は王家直参の有力郷士が貴族の資質を持つ女性を婚姻で得ながら一族が遺伝的に貴族化した上で勲功を上げた時に叙任された家である。
これらの郷士系貴族家は封土は形ばかりだが、開墾による小作地経営に熱心でありドイツ帝国のユンカーのような存在で彼等の分家を含めて王家の高位家臣の供給源になっている。
これは本来の王都貴族と言える存在で、王都貴族百家のうちおよそ六十数家がこの出自である。
江戸時代でいえば徳川家が三河にいた時からの家臣が旗本となった様な感じである。ただし封土は小規模でこれも江戸時代に例えれば五千石以上の家は十家ほどでその他は三千石程度の家がほとんどである。
第三は地方貴族家の分家で三十一家ある。
本文で出てきた例ではドノバ候の王都での出先となっているルクヴィスト子爵家、バルバルスト伯爵の王都での出先のケルマン男爵家とランバリル子爵家(現在は没落してランバサル士爵)がある。
王家と接近したい地方有力貴族がホルメニア内に封土を持っていた時に一旦王家へ献上したという形にして、分家を送り込み再びリファニア王から封土として与えられと同時に貴族への叙任を受けるという形を取る。
そうした三種類の出自を持つ王都貴族の中でバーリフェルト男爵家は唯一当主が王都に移り住んで仕官を要望した家である。
これは江戸時代でいえば大名が幕府に願い出て大名という地位から旗本にして貰いたいというのと同義で、裏交渉で減封して貰って参勤交代のない一万石以下の旗本にして貰った例はあるかもしれないが記録上はない。
この申し出に王家も前例がないだけにどう対処したものかと混乱した。
ただハウサス王が「バーリフェルト男爵ハヤル・ヴァレリヤノは忠義の士である。バーリフェルト男爵家の領地バーリフェルト盆地はシスネロス街道の真ん中にある。それに前例は作ればよい」と言ったことで事が急に進んだ。
ハウサス王が漫遊の途中で異例の長期滞在をバーリフェルト男爵領で行ったことは周知の事実であり、ハウサス王のバーリフェルト男爵ハヤル・ヴァレリヤノの話し合いでバーリフェルト男爵家の王家直参化が決まったことは間違いないだろう。
そして内陸の中央盆地で急激に経済成長をしているシスネロスと王都を結ぶシスネロス街道(かつてのベムリーナ街道)は当時から最重要街道になりつつあり、バーリフェルト男爵家が王家直参貴族になれば王家がシスネロス街道の中央部を押さえる事が出来る。
王都貴族も封土を持っているが、建前は王家の蔵入地で王領と見なされるからだ。
王家は歴史が長いだけに王都貴族も含めて慣習や慣例が多い。これはマニュアル通りに動けば兎も角も政は動く。
リファニアは伝統的に進取の気質のある文化ではあるが、新しい事例を取り入れるときには矢張り躊躇しがちである。
バーリフェルト男爵家が王家直参貴族になることはメリットが大きいとはわかっていても前例がないことに王家周辺は決断が出来なかった。
それをハウサウ王の一言で承認されたのは王政の利点である。論議が定まらない時に王が責任を持って決めることで延々と論議が先送りされない。
歴代のリファニア王の中で専制的だとか独断過ぎると評される王はほとんどいない。これは部族連合の長として王というのもが成立してきた伝統が脈々と伝わっており、王とは衆議により決した事項を承認する、或いは衆議が割れた場合はその是非を決定する存在であると理解されておりおおむね歴代のリファニア王もそれに従った統治を行ってきた。
こうして百年前にバーリフェルト男爵家は王家直参貴族となった。新参の王都貴族はその立ち位置が定まるまでに苦労がり、また各種の王都貴族間の慣習に慣れるまでは嘲りの対象になることもある。
ただバーリフェルト男爵家は王都貴族としては新参であるが王妃カリニカの系譜で八百年の歴史を持つ「古き家」である。
そして江戸時代の石高でいえば二万石ほどの大名で王都貴族の中では大身である。そして何より歴代のバーリフェルト男爵が王家から授かっていた”ベムリーナ=サルナ州太守”と”王都都督”の官職名がバーリフェルト男爵家の家格を上げていた。
リファニア王国には有名無実になった官職が幾つもある。
王権が地方にまで轟かなくなり一州を統治する”太守”と組織が代わったために”王都都督”などは実態のない組織の長である。
それだけに王都貴族は儀礼的に王家からそれらの称号を得て、家格を表す指標にしている。
”太守”は宰相に次ぐ地位、”王都都督”はリファニアの畿内であるホルメニアの軍事を司る役割でありこれほどの役職名を持つ王都貴族はそうはいない。
貴族には官位はないが役職には官位がある。これにより実態がない役職でも官位を比べることで貴族間の格式の優劣となる。
その爲に王都貴族は公式の場で正式に名乗りをする時は”〇〇の司”、”〇〇頭”などとまず名乗る。
”太守”は一等官補、”王都都督”は二等官であり、日本の官位でいえば二位や三位に相当しておりこれほどの官位を持つ王都貴族はそうはいない。
また現バーリフェルト男爵パンニヴォーナ・レイナウトはホルメニアの治安を担当する”府内警備隊長官”に任じられているが、それはすでにかつての王都警護役の”王都都督”であったことが有利に働いた。
実は後から見ればバーリフェルト男爵家が王都貴族になるには、ハウサス王の時代しか機会はなっかた。
王都貴族は王家を支える存在であるが、各家は役職を得る為に激しく水面下で争っている。
その爲に新参者の参加は敬遠される。ハウサウ王の時代は最も王権が弱体化していたので王都貴族達も背に腹は代えられずバーリフェルト男爵家の王都貴族化を受け入れたと言える。
バーリフェルト男爵家に伝わる口伝ではハウサス王はバーリフェルト男爵ハヤル・ヴァレリヤノに「王都貴族になるには今しかありますまい」と言ったとされる。
このようにバーリフェルト男爵家は”白狼の乱”におけるマルナガン王への忠誠と、百年前の王都貴族化の決断、そして”オラヴィ王八年の政変”においてオラヴィ王陣営につくという正しい決断をした。
祐司とパーヴォットからすればバーリフェルト男爵家の現当主であるパンニヴォーナ・レイナウトはバーリフェルト男爵家の長所と短所を具現した迂闊な愛すべき存在である。
ところが後世の評価ではバーリフェルト男爵パンニヴォーナ・レイナウトは、バーリフェルト男爵家を創家したバーリフェルト男爵キミザン・デルネファル、”白狼の乱”を乗り切りホルメニアに領地を得たバーリフェルト男爵クレンカ・キオスティド、ホルメニアに領地があることを奇貨として王都貴族に潜り込んだバーリフェルト男爵ハヤル・ヴァレリヤノとともに”オラヴィ王八年の政変”を乗り切り、リファニア統一戦争に功を上げた名当主とされている。




